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Augustrait





チャップリン自伝


 ぶだぶのズボン,山高帽,不恰好な靴をはいて,ステッキを振りながらおどけながら歩いていく.その男は滑稽に見えたが,奇抜なメイクと衣装の下に,知的で物静かな瞳があった.生涯で81本の映画に携わり,大半が自作自演だった.エッサネイ時代(1915-1916年)からミューチュアル時代(1916-917年)の3年間で撮った映画,実に26本.そして,喜劇を演じる内部に,妥協のない美学があった.

 1920年頃,チャーリー・チャップリン(Charlie Chaplin)は女性の易者に運勢を見てもらったことがある.診断の結果は次のようなものだった.まず,大金持ちになる.次に,3回結婚するだろう.そして子どもは3人,寿命は82歳で,気管支肺炎で尽きるだろう.チャップリンは1978年クリスマス・イヴの夜,夫人と子ども7人に看取られて静かに息を引き取った.彼は4回結婚して,子どもを9人設けた.亡くなったのは87歳だった.

 易者の予言は,「大金持ちになる」ということ以外はすべて外れた.この巨万の富を築いた喜劇役者は,晩年,妻や子どもたちとスイスに移り住み,静かな余生を送った.誰にも会いたがらず,多くの手紙や要請にも億劫がったのも,幸福感を彼なりに噛みしめていたからに違いない.レマン湖の湖畔を眺めながら,わが人生を回顧していたチャップリンは,自伝の執筆に取りかかった.1964年に刊行された本書は,世界中でベストセラーになった.けれども,全面的に世間に受け入れられたわけでもなかった.

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左 《チャップリン・スタジオ》
右 《レマン湖》


 世界中の富豪やセレブとの交際を得々として書きすぎている,という批判があった.しかも内容はあまりにきれい過ぎた.それも当然で,世界的な名声を獲得したチャップリンが人生の回顧録として記した本書に,自ら暴露的なことを書くわけがない.デビュー当時のコメディアン仲間や先輩についての記述は,本書にはほとんど出てこない.触れたくない過去なのか,あるいは触れられないのか.人の好奇心は当然,書かれている部分よりも書かれていない部分に集中する.中でも,リタ・グレイ(Lita Grey)との離婚騒動が一言もないのはどういうことかと,人々は想像を巡らせた.

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左 《リタ・グレイ》
右 《リタ・グレイとその母の傍らに立つ》


 リタ・グレイは15歳で妊娠し,チャップリンと結婚する.チャップリン邸にはリタの親族,通称「マクマレー一族」が押しかけ,それに我慢ならなくなったチャップリンは,リタともども家から叩き出す.周到なマクマレー一族は,『リタの不満』という怪文書をマスコミを通じて流した.これは,2人の結婚生活を暴露するもので,かつチャップリンの非人道的な行為を非難する悪意に満ちていた.結局,チャップリンは62万5,000ドルの示談金をリタに支払うことになる.当時彼は38歳だったが,結審する頃にはすっかり白髪になってしまっていた.この一件が,どれほど骨身に応えたかは,自伝に一言もないことが何よりも物語っている.

 チャップリンの不遇な少年時代は,チャールズ・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens)『オリバー・ツイスト』を彷彿とさせる.「生涯でも一番長く,そして一番悲しい毎日だった」というランベス救貧院(貧民院)の生活は,惨憺たるものだった.極貧から強度の神経衰弱に陥った母は,精神病院に入院することになった.ただこのことについても,あまり多くは語られてはいない.

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左 《ランベス救貧院》
右 《チャーリー・チャップリン》


 4歳年上の兄シドニーとともに,救貧院で過ごした18ヶ月間は,幼い彼らにとって永遠とも思える時間だった.施設の生活そのものよりも,寂しさと羞恥心に苦しめられたことを本書で語っている.
途中で通り抜ける村々,さてはわたしたちを眺めている村人たちまでが,どんなにたまらなく厭だったことか!わたしたちがみんな貧民院をさす俗語,"ぶた箱"の住人であることを,みんなだれも知っていたのだ
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《ワークハウスの日常風景》
 
 チャップリンのベル・エポックは遠かった.だが,彼は早くから音楽に目覚め,独特のタップを踏むセンスに恵まれていた.そこで,一度は曲芸団の団員になったこともある.しかし,8歳のとき墜落して親指を挫いてからというもの,曲芸師としての将来は閉ざされた.彼に残されたのは,ミュージック・ホールしかなかった.当時,桟敷席があるオペラ劇場だけが,ミュージック・ホールではなかった.イギリスのどの場所に行っても,それらしきものはあった.場末の飲み屋,ウェールズの炭鉱,どこにでも.チャップリンはあちこちのミュージック・ホールに顔を出し,1900年には『ギディ・オステンド』でパントマイムによる子犬の役を得た.とても小さな役だったが,『シャーロック・ホームズ』の翻案や『ピーター・パン』の端役で粘り,17歳のとき,兄の手助けもあってキャシーズ・コートと契約を結ぶことに成功した.
 
 給料は週給で2ポンド10シリング,これは当時のイギリス紳士の月給が5,6ポンドといわれていたから,相当な高給だといえる.チャップリンの金の使い方は,服装と本に贅沢するくらいのものであった――彼は一体,何を濫読していたのか.分かっているのは,ショーペンハウエル,ニーチェ,ディケンズ,シェイクスピア,ブレイク,ヤング,医学書や社会経済概論などであった――.父親がアルコールに溺れて他界したことを戒め,自分はまったく酒を飲むことはなかったという.すでに生活の規律を守る清貧の習慣が身についていた.

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左 《メイク・アップをするチャップリン》
右 《チャールズ・ディケンズ》


 チャップリンのあのいでたち,つまり浮浪者の扮装は,『メイベルの窮境』で初めて表現された.その誕生は,まったくの偶然のから生まれた.だが思うに,偶然のことを手繰り寄せるのは必然的な成り行きである.しかも彼の場合,喜劇役者として思いもかけないいきさつが,その後の芸風を決定付けた.「おい,なんでもいいから,何か喜劇の扮装をしてこい」出資者の1人にこういわれたチャップリンだが,突然そんな要求に応えられるわけもない.だが,彼は思いついた.それがだぶだぶのズボン,ステッキと山高帽,ドタ靴だ.
つまり,この男というのは実に複雑な人間なんですね.浮浪者かと思えば紳士でもある.詩人,夢想家,そして淋しい孤独な男,それでいて,いつもロマンスと冒険ばかり求めている.…中略…そのくせやれることというのは,せいぜい煙草のすいがら拾い,子供のあめ玉をちょろまかす,それくらいのことしかないんです
 この風貌でもって,一躍,インパクトを与える役者人生が始まったことは言うまでもない.それは見る人,共演する人,伝え聞く人,全てにおいてであった.狂人じみたリズムで,全てをぶちこわし,ひっくりかえし,大笑いの渦に巻き込む.昔のオッフェンバッハに近い芸風をチャップリンは踏襲することにした.この当時の彼は,「チャス・チャップリン」と呼ばれていた.いわゆる,滑稽な失敗を笑いの題材にするというスタイルである.

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左 《『タイム』紙》 1925年7月
右 《「モダン・タイムス」広告》 1936年


 チャップリンの撮った映画,一緒に仕事をした俳優で,撮影による怪我をした者は1人もいなかったといわれている.あれだけ激しいドタバタ劇を演じているのに,である.チャップリンは,映画は人工の虚構であることを常に意識していた.人の手で作り出すものである以上,俳優に怪我をさせるわけにはいかないし,また避けられないということもないはずだ.安全管理は,製作者側のモラルであると自覚していたのである(ただ一度,自身は撮影中に怪我をしたことはある).喜劇を構造的に捉えるようになったのは,1918年の『犬の生活』からだった.場面は,登場人物の失敗の連続が次のシーンにつながり,最終的には全体が全て関連しあうという具合である.場面のつながりは論理的になり,逆にどれほど面白いギャグが浮かんだとしても,論理的な流れをさえぎるようなら,決して使用することはなかったのである.

 このような作品化のスキームが固まって来るにつれ,自分の演じる浮浪者の性格付けにも複雑さが生まれ始めた.本能的な行動様式しかとらなかった浮浪者は,次第に人間的な感情も表現するようになっていく.人の痛みに配慮し,恋をし,喜び,嘆き悲しむ.造形された道化師(アルルカン)は,反体制的な暴力を行使もするが,内面には人間的な悩みや苦しみをもつ,生身の人間であることを主張するようになったのである.彼の卓越した想像力と表現力は,独特のリズムで自在に具体化されていく.その具体的に求めたものは,「ユビキタスな笑い」ということであった.

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左 《「メイベルの窮境」》 1914年
右 《「チャップリンの独裁者」》 1940年


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左 《「チャップリンの失恋」》 1915年
右 《「アルコール先生海水浴の巻」》 1915年


 ユビキタスな笑いとは何か.それは万人が心から笑えるユーモア,ギャグである.性的なもの,人種差別的なものは,編集ですべて切り捨てる.特定の制約のもとでは,笑いが毒になることをチャップリンは身をもって知っていた.本書で彼が過去の一部を覆い隠し,知識人や教養人との交流を自慢げに書いている,とした批判はあたらないだろう.そのようなスノッブな映画人の作品であるなら,なぜ世界中の映画フリークに愛され,今でも研究が盛んに行われているのか?1人でも多くの人を笑わせようとした偉大な喜劇人,とチャップリンは評される.それも彼の本質から離れた見方である.普遍的なユーモアとウィットを理解されるよう,彼は専心してきたように思え,誰が見ても障壁を感じず,映画の世界にのめり込むことができるよう,ただそれに心を砕いてきたと感慨深く想像できるのである.

レッドパージ・ハリウッド チャップリン再入門 喜劇の王様 チャールズ・チャップリン

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Title: MY AUTOBIOGRAPHY
Author: Chaplin, Charlie
▽『チャップリン自伝(上・下)』中野好夫訳
  -- 新潮社, 1977年
(C) The Bodley Head Ltd. 1964