新旧の書籍および映画の批評,作品解説.
Augustrait





[提供:筑摩書房]
 天使か怪物か…柔らかな喉と驚異の肺活量が生み出す「奇跡の声」で,音楽史に妖しい閃光を放って消えた去勢歌手たちの短かくも鮮烈な歴史.多くは南イタリアの寒村に生まれ,8-10歳で危険な睾丸摘除手術を受け,厳しい修行ののち栄光の絶頂へと登りつめ,やがて孤独のうちにこの世に別れを告げた処女(?)たち.バロック黄金期の栄光と夕映えの耀いの中に影を浮かべて去っていった謎の歌手たちの姿を,西欧社会の運命を重ね合わせて描く感動と陶酔の華麗な歴史=物語――.

 1652年ローマ教皇庁礼拝堂に現れた去勢歌手は,成人の豊かな肺活量と非常に広い声域を兼ね備えた特長により,一世を風靡した.カトリック教会の1587年去勢手術禁止を無視して,"カストラート"は,17~18世紀イタリア・オペラ,バロックのオペラ・セリアの劇的表現に欠かせない存在となる.子どもと女性の声の中間に位置した声を保ったカストラートは,ソプラノかアルトのどちらかの音域を選択し,その声は一生の間でも変化をみせた.男性機能を喪失することと引き換えに,男性の筋肉に支えられる強靭で優雅な美声を体現した.最盛期には,毎年4,000人以上にも及ぶ7 - 11歳の男子が去勢されたとの記録がある.

 カストラートは,3オクターブ半の声域をカバーする官能性を有し,草創期オペラが絶頂を極めていく主たる存在となったが,オペラ・ブッファの発展とともに女声が採用されると,彼らは急速に駆逐されていった.18世紀後半には,ヴォルテール(Voltaire)やジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau),啓蒙主義や百科全書派の立場がカストラートを――アンドロギュヌス的に「理性」を欺く――道徳と自然を冒涜する偽装物と糾弾した.去勢されカストラートの道に進んでいった男児の中には,声楽家として才能を開花させることもなかった者も多くいた.システィーナ礼拝堂の合唱曲《ミゼレレ》で知られる作曲家グレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri )はその1人であったとされる.

 男性・女性・子どもからなる三位一体を肉体のうえで体現した結果,オペラ界に君臨したカストラートは,バチカンの礼拝堂に生まれた.美しく,豊かで荘厳な歌声は,スペイン・ボルボン朝初代国王フェリペ5世(Felipe V)を憂悶から救い出し,ある男爵はルーヴル宮でカッファレッリ(Caffarelli)を聴き,その声を「魅力と愛の性格を示す声」「この魅力と愛は聴く者の感覚と心を恍惚とさせてしまう」と絶賛した.しかし,彼らがわずか200年余りで"絶滅"させられたのは史実.カストラートは,均整と調和のとれたルネサンス様式に対抗し,グロテスクとロマンティシズムの両面から,劇的迫力にみちた〈バロック様式〉における音楽芸術の申し子であった.

 ローマ教皇は1903年にカストラートを禁止した.当時,28名の聖歌隊に含まれていた7人のカストラートは,隊から脱退していき,家族をもつこともなかったその多くは,孤独のうちに生涯を終えた.システィーナ礼拝堂聖歌隊の第1ソプラノ歌手で「ローマの天使」の異名をとったカストラート,アレッサンドロ・モレスキ(Alessandro Moreschi)の歌声の録音(1902年・1904年グラモフォン社)が,カストラートの声楽を記録した唯一の例である.ラッパ吹込みのSPレコードからの復刻LPレコード(モノラル) が2019年2月15日に発売されている.レーベルはFantome Phonographique.

心ならずも天使にされ―カストラートの世界
フーベルト オルトケンパー
国文社

++++++++++++++++++++++++++++++
Title: HISTOIRE DES CASTRATS
Author: Patrick Barbier

ISBN: 4480084967
  • 『カストラートの歴史』パトリック・バルビエ ; 野村正人 訳
    --筑摩書房,1999.5, , 413p, 15cm
    (C) 1989 Editions Grasset & Fasquelle




  • « 前ページ