古くからの知り合いに、ミステリーにまるで目のないやつがいて、わたしなどはこの分野にかけては、今でも彼にかなわない。なにしろ、横溝正史、久生十蘭、夢野久作、小栗虫太郎、江戸川乱歩など戦前の推理小説(探偵小説というほうが一般的だったかもしれない)、さらに怪奇妖美の類本はあらかた食い尽くしているのではないか。当時、阿刀田高にも熱を上げていた彼に、「これはおすすめだぜ」と紹介して、実際に喜んでもらえた作家というのが、乱歩だった。それも『人間椅子』や『心理試験』『月と手袋』あたりの短編。
実は、乱歩は長編よりも短編の旗手としてのほうが高く評価されるべきなんだ、単なるポオ(Edgar Allan Poe)の二番煎じというだけではないはずだから、と水を向けたところ、読むわ読むわで、「乱歩の文体が渓流のせせらぎとしたら、阿刀田ってば、……水たまり!?」とおどけてみせたものだった。
なぜそんなことを思い出したかといえば、彼のもっともお気に入りの清張本というのが、本書なのだ。それまで松本清張という巨人の名は聞き及んでいても、どういうわけだかまだ手に取っていなかった時代(それもはるか昔のような気がする)、その大切な本をわたしに貸し出してくれたのだった。無論、わたしも乱歩やジッド(André Paul Guillaume Gide)や中島敦や、キング(Stephen Edwin King)など、古今東西の文学作品を中心に紹介させてもらった。その都度、喜んでもらえた記憶が懐かしく思い返される。
そんなわけで、これがわたしにとって初の松本清張だった。今となっては、清張の作品を初めて読んだその処女的体験が本書で、心からよかったと思っている。