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Augustrait






 この国には、現在、私立大学が567校ある。その最高峰に君臨する二大学が、早稲田と慶應義塾であることに、異を唱える野暮は少ないはずである。他の私大を圧倒するプレゼンスは、一つには、実業界、財界に強固なネットワークを張り巡らせる慶應の「三田会」の存在感が絶大である。三田会には、年度、地域、勤務先・職種別、諸会を含め、約860団体がある。国内だけではない。ニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴ、上海、ジュネーブ、シンガポールなど、世界各地にその支部は置かれ、実業界における同窓ネットワークの機能が、商談を左右することも多い。一方の早稲田は、学部及び大学院生総計で5万人に迫る規模で、政治、文学、ジャーナリズム、演劇界に優れた人材を輩出する名門。両校の在学生・卒業生と接すれば如実に分かることだが、名実ともに私学の雄とされる早稲田と慶應、しかしその校風はまったく異なっている。

 福澤諭吉が蘭学塾(後の慶應義塾)を興して150年、大隈重信が東京専門学校(後の早稲田大学)を創立して125年余、両大学が築いてきた名声と社会的地位は、各界における卒業生の雄飛の証明である。それは、どういった理由からなのか、という問題関心から論じられる。戦前、官立の帝国大学と私立大学の給与体系は、明確に「区別」されていた。旧制教育制度にあっては、帝大卒の初任給は70-80円、早慶卒は50-60円であった。明らかに国立大学の後塵を拝していた早慶が、他の私大を大きく引き離し、国立大に肉迫できたのはなぜか――。

 本書に関しては、筆者の経歴が重要な意味を持つ。現代日本の学歴格差、ヒエラルキーを論じること、さらに特定の大学の比較を行うのであるから、バイアスがかかってはまずい。その点、橘木俊詔は灘高→小樽商科大→大阪大学大学院→米国ジョンズ・ホプキンス大学大学院→京大教授→同志社大教授と、まったく早慶とは無縁の生活を送ってきた。関東に寄りついてもいないところが、いい。両大学の校風の差は、創立者の建学精神が大きく乖離しているところに「背景要因」として説明される。明治初期の時代、初代文部大臣に就任した森有礼は、教育レベルの低い国民に対する教育システムは、東大を頂点とするピラミッド階層がよいとして人材養成機関を整備した。帝国大学では、国の指導者たる官僚養成機関の役割が付与されたのである。このことは、当時、帝大卒は無試験で官僚への門戸が開かれていたのに対し、他校卒業者には、採用試験を課していたことからも明らかである。この仕組みに対し、福澤は学問の官製化に異を唱え、自由な私学の意義を強調した。蘭学塾から有能な人材は輩出され、初代帝国大学総長・渡邊洪基をはじめ、何人かの東京帝国大学総長を生んだ。そんな私学に刺激を受け、幸か不幸か政治闘争に敗れた大隈は、東京専門学校を創設。しかし、その後の経過がおもしろい。

 医学者であった福澤は、西洋の医学と天文学、化学などの伝授に力を注ぐ。官立大学化を嫌い、1879年、日本初の簿記教育を開始する。後に財界に多大な影響を及ぼす根拠、「理財(経済)の慶應」と呼ばれる礎となる。早稲田は、教員に高田早苗、坪内逍遥など東京帝国大学の卒業生を多数、迎え入れた。帝大は官立であるが、卒業生が優秀であることは否定できない。彼らを教師として採用し、政治経済、法律、理学、英語学科の体制でスタートした。早稲田の看板学部は、何といっても政経である。創立当初から、ひろく能力主義を採用した早稲田と、実学を重んじ、官立に対抗するあまり閉鎖的な体制を採用した慶應の基本方針は異なっていたのである。この方針が、現在まで脈々と受け継がれてきたのかどうかは、多方面の角度から検討しなければ把握できない。しかし、大学構内では福澤しか正式には「先生」と称されず、たとえ教授であろうとも母校出身者は「塾員」と扱われる慶應には、「慶應にあらずんば人にあらず」という揶揄が存在する。半分以上は嫉妬からくる誹謗の類だとしても、明治期から幼稚舎を設置し、6年間同じクラス、同じ担任、学費は年間150万以上という教育を貫くこの学校法人は、お世辞にも風通しがよいとはいえない。かたや、多民族国家の様相を呈する早稲田は、学生全体に、野武士のような荒々しい雰囲気が漂う。大企業、中小企業を問わず、「石を投げれば早稲田に当たる」と表現されるほど、早稲田卒はどこにでも「生息」している。そこにいるだけでなく、バンカラな生命力というかバイタリティには、しばしば圧倒される。

 早稲田にも「稲門会」という同窓ネットワークがある。しかしながら、会員数に反して、その組織力は慶應の三田会と比較にならないほど弱い。愛校心は強烈に持ちながら、出身者の多くはパワフルすぎて、長時間一緒に過ごすのがしんどいのだろうか。そんな邪推をしたくなるほど、あっけらかんと豪放磊落。そんなイメージがある。大学入試については、1979年の共通一次試験の導入、そして国公立大学の一期校・二期校制の廃止が、国公立と私立の大学間格差を一気に縮めた。学費差が当初の6倍から、2倍まで下がったことも大きい。今や、国公立大学を蹴って早慶に入学することが当然の時代である。学部にもよるが、かつて一般的とされていた【上位国公立 > 中位国公立 > 早慶 ≧ 下位国公立 > その他私大】という図式は崩れ、【上位国公立 > 早慶 > 中位国公立 > 下位国公立 > その他私大】という構図が常識的である。少子化の進行で、私立大学の何割かは統廃合が加速するだろう。早慶に関しては、長年にわたり築き上げてきた伝統と実績から、その憂き目に遭う可能性は極めて小さい。優秀な学生を確保するための大学改革は、ともに継続していくことだろう。受験者と合格辞退者の比率を見ても、定員割れを起こすことを心配するあまり、経営を見直さなければならない大学とは、直面する課題の質が異なるのである。

 社会に有能な人材を送り出す「象徴」としての早慶の比較論は、人が集まるところに必然的に生まれてくる「派閥」「学閥」「人的ネットワーク」を、「出身校」という観点から見た場合、毎年、数万人規模で在学生が推移する高等教育機関であること、表立って正当化されることは少ないとはいえ、それが企業の新卒採用基準、社内の出世争い、果ては結婚にまで影響を及ぼすことがあるという「社会階層」の考察となることが分かる。ところで、下級武士として差別され、苦汁を嘗めさせられた福澤の『福翁自伝』には、「門閥制度は親の敵で御座る」と記述がある。また、『福翁百話』にも「明治維新の世の中になって、維新早々に門閥廃止の端緒が開かれたということは、千年に一度の愉快なことであった」とある。廃止されるまでの門閥による格差が、現代に通じる学歴格差にとって代わられた実証研究があれば、ぜひ学びたいところである。ちなみに、大隈家は代々、佐賀城下会所小路に知行300石を食み、砲術長を務める上士の家柄であった。

早稲田大学の実力 (マガジンハウスムック)  創立150年記念パーフェクトガイド慶應義塾  慶應三田会―組織とその全貌

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▽『早稲田と慶応―名門私大の栄光と影』橘木俊詔
-- 講談社, 2008
(C) 橘木俊詔 2008