雇われの悲しみを君に

震災


先日TVで、3.11の震災により、家族を失った孤児たちの特集をやっていた。

胸が痛くなった。

というのも、今回の震災は、わたしにとって人事ではないからだ。

なぜなら、取材されていた親子が暮らす街は、わたしの妻の故郷なのだ。
(この親子は、妻と1歳の次男を失っていた)

妻の実家は1階が完全に浸水したが、幸い誰も命を落としてはいない。

TVで映された風景は、わたしにも見覚えがあった。

わたしは、今年のお盆に妻の実家に帰省して海沿いの震災エリアを妻とその姉とともに歩いている。

本当に何もないのだ…

わたしたち3人は、震災エリアを一望できるという山の中腹に向かって歩いた。

山の斜面には、多数の墓地が並んでいて、墓地の上空にはカラスが飛んでいた。

「1000年に1度という周期なら、5ヶ月あるいは8年など、誤差の範囲だ。

5ヶ月ずれたなら、妻子は間違いなく帰省していて、海水浴を楽しんでいただろう。

8年前なら、妻はこの街で里帰り出産を経験している。

わたし自身、この津波を経験したかもしれない。」

わたしは、TVで取材されていた父親のように妻子を失っていたかもしれない。

わたしならば、たぶん何年経っても、妻子を失った悲しみから立ち直れないだろう。

強く生きるということ自体が、多くの幸運によってのみ可能になるのではないだろうか?

理不尽な不幸に見舞われて、平気でいることなどできはしない。

取材されていた孤児たちは、明るく振舞っているように見えたが、深い傷を負っているだろう。

一人で生きることなど、本当はできないのかもしれない。

一人で生きていると思っていても、誰かに支えられているのかもしれない。

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