前回前々回で明治維新までの廃仏毀釈運動について書きました。
今回は明治維新です。
江戸時代末期の廃仏毀釈運動はあくまでも、藩単位の動向でした。
しかし、明治維新からの神仏分離は国の制度として展開していきます。
1867年に明治天皇より『王政復古の大号令』が出されます。
これは、天皇中心の祭政一致の政治に復古する宣言です。
天皇が祭主として国家的な祭祀を執り行っていたのは飛鳥時代以前だと思われます。
この頃はまだ日本には仏教が伝来していなかったので、古代神道の祭祀が行われていたと考えられています。
それではなぜ、明治新政府はこのような宣言を天皇にさせなければならなかったのでしょうか?
江戸時代約300年の間、幕藩体制が日本を支配していました。
将軍を頂点に各藩の藩主が、国を支配していたわけです。
この支配・統治の体制は容易なことでは払しょくができません。
そこで、新政府は、新しい統治形態を作るのには将軍を超える、絶対的な存在を作る必要があったのです。
そこで、天皇が祭主となって国家的な祭祀を取り仕切るという形態を作り、全国一村に1つの神社を作り、
その神社を通して国民もひとしくその祭祀に対して奉祀する体制を作り上げました。
この体制を完成させるためには、神仏混交では困るわけです、そこで神仏分離が出てきました。
1868年に出された一連の神仏分離の法令は「神仏分離令」と呼ばれます。
このような一連の制度改革によって今まで神社を管理するような職であった「社僧」や「別当」などの還俗
神職への職替えや、祈祷を行うような僧侶の職を禁止しました。
奈良の『興福寺』を例にとって当時の様子を見てみましょう。
『興福寺』の僧侶たちは、近場で起こった神社の神職の暴動に恐れをなし、
自分たちにもその災いが及ぶのではないかと心配し、新政府に自ら還俗することを申し出ました。
その結果、多くの僧侶は『春日神社』の神官となりました。
『興福寺』は僧侶が誰もいないお寺になったわけです。
その後の『興福寺』
仏具、仏器などは売り払われました、千休仏などの仏像が多数廃棄されました、
食堂や多くの堂が破壊されました、塔頭(たっちゅう)、子院は破壊されました。
中金堂は接収されて役所となりました、がらんとした堂内ですから冬は寒いので、
多くの仏像が薪代わりに燃やされたそうです。
五重塔は、売り払われました、買主が解体しようとと思いましたが、解体費用が高かったために断念しました。
その結果壊されずに残りました。
僧侶が寺を放棄したとはいえ、あまりにも残酷な仕打ちです。
今までの仏教の伝統、ここで一心に祈りをささげた信徒の信仰、仏像や寺にあった美術品や工芸品の破壊や、売却。
全てがその時点では失われてしまったのです。
廃仏毀釈運動がひと段落したのは明治9年頃です、江戸時代九万以上あったお寺は半分になってしまったということです。
そして、富国強兵という名のもとに、多くの寺院の梵鐘や銅製の仏像が溶かされ兵器に転用されました。
その先に待っていたのは、日清、日露、第二次世界大戦といった泥沼の戦いでした。
こういった悲劇を二度と繰り返さないためには、廃仏毀釈についてはもっと調査、研究が必要です。
なぜかこのことについてはあまり語られませんね。
前回・前々回お読みになっていない方に、下記にコピーしておきます。
前回は幕末前までの『廃仏毀釈』について書きました。
『廃仏毀釈派』明治政府により開始された政策のように思われていますが実は違うのです。
幕末に各藩で『尊王攘夷』活動が起こりました。
例えば水戸藩においては二代藩主『徳川光圀』の頃に、すでに神仏分離が起こっているのです。
そして、第7代の『徳川斉昭』には、藩政の改革と相まって、苛烈な「神仏分離」を政策として打ち出しています。
これは、仏教界の一部腐敗を背景としていることと、幕末の『尊王攘夷』運動が、宗教としての古代神道の復権を掲げたからです。
そして、物的根拠としては海外からの侵略を防ぐために、金属が莫大に必要となり、寺院にある梵鐘や銅製の仏像を兵器として利用するといった目的もありました。
『斉昭』が潰した寺院は190か所にも上りました。
この行為に寺院と共生していた江戸幕府は支配体制に対する破壊行為と受け取り、天保15年(1844)に、『斉昭』に対して謹慎処分を命じました。ここでいったん水戸藩の廃仏毀釈運動は中断しますが、薩摩藩、長州藩などほかの藩にも広がっていきました。
そして明治維新を迎えるのです。 続く
前回お読みになっていない方に、下記にコピーしておきます。
【あなたは廃仏毀釈という制度がかつて日本にあったことはご存じでしょうか。
私は言葉だけは知っていましたが、これほど激しいことだったことは知りませんでした。
大学の科目では『伝統』という事柄の一つとして語られます。
『仏教』が日本に公伝したのはいろいろな説がありますが、6世紀中盤頃のことでした。
仏教が日本に伝わってくる前は、日本には『古代の神道』のようなものがあったようです。
百済から伝わってきた仏教は、蘇我氏に預けられました。
その後蘇我氏と物部氏の権力争いの中に仏教が巻き込まれます。
結果として、蘇我氏が権力を握り、仏教が大和朝廷に広がります。
しかし、蘇我氏はこのとき物部氏が支持した古代神道を根絶やしにすることはしませんでした。
この頃から仏教と古代神道は混然一体として存在するようになります。これが神仏習合で天皇は東大寺などを建立し大いに仏教への信仰を強めていく一方、宮中では『伝統行事』として古代神道としての儀式を執り行っていました。
上下関係をつければ、古代神道は徐々に仏教の中に吸収されていきます。
典型的な例でいえば、奈良に『東大寺』があり、そのすぐ隣には『春日大社』
があります、また、あなたの近くのお寺さんにも、
小さな神社がまつられているのをご覧になったことがあると思います。
戦国時代には『織田信長』が延暦寺を焼き討ちし僧兵を皆殺しにしたという事実があります。
しかしこの事実に関しても『信長』が仏教を否定したということではありませんでした。
『信長』は仏教を根絶やしにするようなことはしていません。
江戸時代には、幕府の戸籍管理政策により、お寺が戸籍を管理していた関係で、力を持ち、村人とトラブルになっていたケースも多々あったようです。
もちろん村人の信仰心を集め愛されていたお寺もたくさんあります。
また、江戸の人たちの識字率は世界一だったといわれます、こうした教育水準の高さは『寺子屋』によって維持されていたのです。
そして江戸時代の末期までこの『伝統』は続いてきました。
続く