写真家・アーチストたちが愛した女優・モデルたち

写真家・アーチストたちが愛した女優たち(モデル・詩人・歌手・愛人たち)を動画などで紹介するサイト

バート・スターンが撮ったMarilyn Monroe

2009-10-16 | 写真 女優 芸術
Marilyn Monroe by Bert Stern / 1962

写真家バート・スターンが撮ったマリリン・モンロー。この時、モンローは36歳で、この撮影後の1カ月後に亡くなる。後に「LAST SITTING」と呼ばれるようになる写真だ。通常はカラー写真の方がよく写真集などで見られ、さすがに20代とはちがうかな、とおもわせるのだが、このモノクロ写真だと、当時精神的に大きなトラブルを抱え込んでいたにもかかわらず、陽気でチャーミングなモンローと出会える。スターンは撮影日数として3日間の契約を『ヴォーグ』としていたが、初日はお互いの気心がまだ通っていないということで写真を撮らなかった。残りの2日間でつごう2500枚の写真を撮っている。
Marilyn Monroe: The Complete Last Sitting

Schirmer/Mosel Verlag Gmbh

このアイテムの詳細を見る

Marilyn Monroe: The Last Sitting

Random House Mondadori

このアイテムの詳細を見る



ディエゴ・リベラが愛したフリーダ・カーロ

2009-10-13 | 写真 女優 芸術
The real Frida Kahlo Video (1)

フリーダ・カーロの父は、ルーマニアからの移民で写真技師だった(ドイツ系ユダヤ人)。母はメキシコ先住民の血をひいている。フリーダが18歳の時、バスが路面電車と衝突し肋骨、鎖骨だけでなく背骨、骨盤の骨折、右足の粉砕骨折と、計35回もの手術を受けている。手術が生活の一部になってしまったほどだった。両親ともフリーダがベッドの上で絵を描くことができるようにイーゼルを特別につくり直してくれたりサポートをおしまなかった(絵は独学だった)。フリーダが絵のマスターとして尊敬していたディエゴ・リベラに請うてアドバイスをもらうようになったのが2人の人生の運命を決めることになる。フリーダ22歳の時に結婚。父はその結婚に反対していた。案の定、情熱家のリベラは浮気にはしり、フリーダの妹にも手をだしてしまい、いったん別れるが、また復縁する。ところがフリーダの方もリベラと同様に血気盛んで(メキシコやラテンアメリカではその情熱ゆえに女性の理想像ともされているようだ)、しかもバイセクシャルで女性とも問題なくいい関係をもった。リベラはそれは横目でやりすごしていたが、亡命してきたソビエトの革命家トロツキー(リベラの家やフリーダの家にかくまわれた)とラブ・ロマンスをもち、またあのイサム・ノグチともいい関係になってしまった。リベラはそれには我慢ならなかったらしいが、どっちもどっち互角かもしれない。数ヶ月前、世田谷美術館でフリーダの生絵やメキシコ革命の展示などをあらためて見る機会があったが、メキシコの歴史をもっと知る必用がある。いま渋谷にある岡本太郎氏の『明日の神話』もメキシコに眠っていた....フリーダは共産党員で部屋にはスターリンの肖像画がかかがられていた。高い理想ゆえだったのだろう。
フリーダ・カーロとディエゴ・リベラ
堀尾 真紀子
ランダムハウス講談社

このアイテムの詳細を見る

フリーダ・カーロ―痛みこそ、わが真実 (「知の再発見」双書)
クリスティーナ ビュリュス,堀尾 真紀子
創元社

このアイテムの詳細を見る

フリーダ・カーロ―引き裂かれた自画像 (中公文庫)
堀尾 真紀子
中央公論新社

このアイテムの詳細を見る



アンディ・ウォーホルが愛(うつ)した日常のEdie Sedgwick

2009-10-13 | 日記
Edie Sedgwick ConVersation w/ Andy Warhol

1965年に撮影されたというこの動画はかなり凄いものがある。最初のウォーホル・ファクトリーのスーパーアイコンになったカリフォルニア・サンタバーバラの名門セジウィック家出身のイーディ・セジウィックに明日の撮影の打ち合わせを記録しているが、その会話をレコードすることじたい、もはや作品と化している。イーディ・セジウィックが明日はどうすればいいの、とウォホールに聴きまくるが、ウォーホルはいつもの調子でたどたどしく「そのままの君を撮るからふだんのまましてくれればいい」と、ここ20年あちこちで聞いたようなセリフで返すばかりなのだ。「そのままで...」「そのままの君....」、それは「あるがまま...」に通じるものだろう。従来の演出めいたもの演技指導などすべて省いて、まるでレディーメイド-ready madeのように扱う。けれども人形ではない。彼女がいつものようにふるまう姿を映す(写す)のだから。イーディや女性たちにしてみれば、まわりにスタッフたちが大勢いるなかで、いつものようにふるまえ、といわれてもなかなか困りはててしまうだろうが。が、あれこれひねくりまわさず「そのまま」「あるがまま」がなんと貴重な記録(作品)になっていくことだろう。
ちなみにイーディは少女の頃、拒食症におちいり19歳の時精神病院に入院していたことがあった。翌年、兄が自殺、イーディはアートを学びにマンハッタンへ。そして社交界で顔を知られた有名人になり映画プロデューサーのレスター・パースキーの家でウォーホルに出会う。イーディ22歳の時だった。『チェルシー・ガールズ』『Poor Little Rich Girl』『ビニール』『Beauty #2』に出演しPop Cultureのアイコンになっていく。そしてイーディがボブ・ディランと付き合いはじめ、ウォーホルと距離ができてしまう。ディランとはすぐに破局し、チェルシーホテルでドラッグ中毒になり、カリフォルニアに戻るが再び精神病院へ。最後にはオーバードラッグで、1971年、28歳で亡くなってしまった。
イーディ―’60年代のヒロイン
ジーン スタイン,ジョージ プリンプトン
筑摩書房

このアイテムの詳細を見る

イーディ写真集 girl on fire (P‐Vine BOOKs)
メリッサ・ペインター&デイヴィッド・ワイスマン
ブルース・インターアクションズ

このアイテムの詳細を見る

ヘルムート・ニュートンが「カメラ愛」したシンディ・クロフォード

2009-10-11 | 日記
Cindy Crawford photographed by Helmut Newton

ヘルムート・ニュートンが最も愛しインスピレーションをえたのはオーストラリア時代に結婚したジェーン・ブラウン(アリス・スプリングス)に違いないが、夫ニュートンがかなりシンディ・クロフォードをお気に入りだったようで、とある映像では「仕事だし仕様がないわね」と嫉妬心をのぞかせていたりする。シンディ・クロフォードは、16歳の時、両親が離婚し、母と妹の3人で暮らしていたが高校時代には学業はトップクラスで卒業時には生徒総代をつとめ末は医者か科学者かという頭脳明晰で、しかも天は二物を与え、1982年シカゴでのエリートモデルで準優勝となり、モデルの道を選ぶ。奨学金を得て入学していた名門ソースウェストン大を中退することに。モデル以外にTVキャスターとしてもMTVミュージックアワードの司会やABC放送でもキャスターを務めた。動画では撮影風景だけでなく、そのキャスターとしての実力ぶりもみることができる。1991年にリチャード・ギアと結婚(95離婚)、企業家でレストラン・クラブ・オーナーで元フォードモデルのランディ・ガーバーと結婚。化粧品メーカー・レブロンとの11年間の契約金は50億円という破格だそうだ。
ヘルムート・ニュートンの写真のこと本のことは、Art Bird Books Website
Make-up. Profi- Tips fuer jeden Tag

Mosaik Vlg. GmbH

このアイテムの詳細を見る


エド・ヴァン・デル・エルスケンが愛(うつ)したVali Myers

2009-10-11 | 日記
Vali Myers

正確な名前を知らなくても写真家エルスケンのファンか、彼の数多の写真集、とくに『サンジェルマン・デ・プレの恋』『Love on the Left Bank』を見た人は、エルスケンが生み出した世界的に知られたフォト・ストーリーや写真で、震えるような美しさを発揮していた女性を覚えているとおもう。2002年に恵比寿の東京都美術館でエルスケンの大きな展覧会があった時、エルスケンが20数年ぶりにイタリアの電気も通じていない山地で共同生活を送る彼女に会いに行くというドキュメントフィルムを流していたが、そしてその期間中に偶然に彼女は72歳でこの世を去ったという情報がはいってきた。彼女の名前はVali Myers(ヴァリ・マイヤーズ)、オーストラリア・シドニー出身で19歳の時(1949)にパリにダンスを踊るために行ったが、当時は戦後でそうした場所も見つからず絶望しサンジェルマン・デ・プレのラテン.クウォーターで路上生活をしたりぎりぎりの暮らしをせざるおえなくなったが、ジューイッシュとジプシーたちの避難キャンプ(アーチストや作家たちがいた)や皆が屯するカフェでその日の食事を摂って過ごさざるをえない状況だった。それでもLeft Bank のアーチスト、ダンサーとしてなんとか活動もしはじめていた。気づけばジャン・コクトーやジュネ、テネシー・ウィリアムスとも友達になっていた(パリに住んでいたのは3年間だけだった)。そんな時にエルスケンがサンジェルマン・デ・プレにやってきたのだった。ヴァリ・マイヤーズの公式サイトには、エルスケンの写真集に登場したことなど一切ふれていないことから、また20年以上音信不通だったことから当時の彼女の状況・心境から写真集から知った者とは真逆にあの記憶に残るシーンは彼女の中にほとんどないようだ。その直後、ヴァリはハンガリーのジプシーRudi Rapportとイタリアに向かった。そして1970年(40歳)の時、New Yorkへ。シカゴ・セブンの一員だったアビー・ホフマンに紹介されチェルシー・ホテルの居住者になる。その頃からヴァリはボヘミアのQueenとなっていく。アンディ・ウォホールやサルバドール・ダリ、ミック・ジャガーにも彼女の独特な色彩の絵画は賞賛され、チェルシー・ホテルの部屋でその絵は次々に売れていった。まだ若いパティー・スミスに会ったのもチェルシー・ホテルでのことだった。マリアンヌ・フェイスフルやデボラ・ハリーにもインスピレーションを与えた。エルスケンのことなら、Art Bird Books
Love on the Left Bank

Dewi Lewis Pub

このアイテムの詳細を見る