goo blog サービス終了のお知らせ 

村松うた子句集

2020年04月04日 13時40分21秒 | 日記
「3月上旬の編集会議が新型コロナウイルスの影響で延期になり、3月末にずれ込みます。」
という旨のメールが東京の出版社から来ました。
この4月に入っても東京の編集者からは連絡がありません。無期延期になるかもと思うと、担当者の方に問い合わせメールも出せないでいます。

そんな状況の中、天野健太郎の祖母の句集、『村松うた子第三句集若く見える九十八歳や五月晴れ』 がAmazonから発売
されました。
以下は句集の内容紹介文です。
※※※
村松うた子は、九十八歳でなくなるまで現役俳人でした。華道彩生会初代家元村松一平の妻で、息子村松五灰子の主宰する俳句雑誌『茅花』所属。翻訳家天野健太郎の祖母。夫村松一平は、岡田耿陽師の『竹島』と『ホトトギス』で活躍。地元西尾では、華道家で俳人で洋画もたしなみ、八ツ面焼収集家。いわゆる奇才だった。
二〇〇九年から二〇一八年(没)までをまとめたこのうた子句集のどの句をみても優しく、誰が見ても分かりやすい。この作句態度は筆を置くまで揺るがなかった。これは虚子の言う「平明にして余韻」の教えを忠実に守って来た故である。(五灰子)
俳句初心者にとってもうた子俳句は読みやすく入りやすいと思います。高齢で俳句をたしなもうという方々にも読んでほしい句集です。
孫の天野健太郎が Twitter に書き残した最愛の祖母への句評を、うた子句集の後書きとして添えました。
※※※

健太郎は、祖母の晩年のベッド生活の中で、ベランダだけで作った俳句を見て評しています。
我々はさすがこの道七〇年のベテラン、と感嘆してるのだけど、本人は不満みたい。貪欲。
  活きくれし咲いたばかりの梅の花  うた子
  窓の雪両手でまるめころがして   うた子
ただの生活句なんですが、伴侶に先立たれたことやさらっと詠まれていたり、病気やヘルパーさんがふ
っと登場したり、いろいろ感じるものがあります。

孫の健太郎が言うように、句集 『村松うた子第三句集若く見える九十八歳や五月晴れ』 は、ベランダからの眺めを詠ったただの生活句なんですが、ぱらぱらとめくって、一句でもほっとするような句を見つけていただければうれしいです。

Amazonで購入していただけたら、大喜びです。 あ、私だけではなく、健太郎も大喜びするはずです。
 

 



身近な新型コロナウイルス

2020年03月01日 09時34分11秒 | 日記
今日子さんが落ち込んでた。

安倍総理の通達で、
昨日土曜日、急遽保育園の卒園式がキャンセル。
  園児用の花束用のチューチップ、仕入済200本。
今日日曜日、急遽発表会中止。
  舞台横の大きな生花、仕入済。

小さな花屋は、注文に応じて仕入れるからね。
今日子さん、溜息ばっかし。

新型コロナウイルスの影響が、ここまで身近にせまってきた。

東京、行きつけのコーヒー店

2020年02月23日 21時49分01秒 | 日記
東京への目的は、天野健太郎句集出版のキセキの確認。 
出版社の方の話のあと、どうしても行きたかった目的地に向かった。
健太郎の行きつけの喫茶店、八百コーヒー店。街角のこじんまりとした喫茶店だった。
なんでこのコーヒー店に、自分が来てしまったのかと後悔することになる。
椅子に座って室内を見回して、そして店の外を見る。
今回の東京行きの同行の娘は、健太郎と一緒にこのコーヒー店に来たことがあるらしく、マスターと顔見知りだった。
気さくな感じのマスターと娘が健太郎はこうだったとかあーだったとか話をしている。
私が座ったコーヒー店の外の狭い路地真向かいに、小さな花屋があった。店内まで見えるほどの近くにあった。それを見ているうちに、涙があふれそうになった。
娘とマスターの思い出話は続く。とても話には参加できず、両の肘を机につけて両手で眉毛あたりを支える感じで、涙をこらえるのに必死だった。
来るべきじゃなかった。こないほうがよかった。健太郎が自分の出版本の展示までしてくれるような世話になったコーヒー店と聞いてたから、お世話になりました、という気軽な目的地だったはずなのに。
涙に意味はない。
コーヒー店のガラス張りの真向かいに花屋が見えただけのこと。健太郎の心の持ちようが見えた気がしただけのこと。

#天野健太郎 #句集

Unknown (一年生) 様

2020年02月23日 09時04分27秒 | 日記
Unknown (一年生)様
2019-08-14 にコメントをいただきましたが、当時のあなた様のコメントの内容を見て返事を書こうとするたびに、涙ぐむといった状況で、返事を書くことがでませんでした。
今回句集出版の可能性が出てきた(不可を含めて)時点で、やっと返事を書くことができます。
あなた様のコメントの一字一句が心に広がり、今は受け止めることができます。
応援ありがとうございます。

東京へ行ってきました

2020年02月23日 08時57分29秒 | 日記
2月19日、東京で出版社の方とお話してきました。
3月初めに出版会議がありそこで 天野健太郎句集の出版の可否が決るそうです。
天野健太郎句集の出版の可能性があるということです。
予約を多く取れたら提案しやすいから著者側で予想販売数出せませんか? と言われたけれど、天野の身内知り合いで売れそうな数なんてしれてる。
ハラハラドキドキで出版会議の結果連絡を待っております。
もちろん天野健太郎句集出版の可否がわかった時点でご報告します。

天野健太郎句集 その2

2019年11月07日 13時56分32秒 | 日記

天野健太郎句集を出版する方法を考えています。

製本での出版は、自費出版では意味が無い。この句集はメジャーにしなければいけない。
天野健太郎句集を出版してもらえる出版社をどうさがせばいいのか、さがす方法も分からない。


今日のTwitterに
・・【募集】47歳で早世した翻訳家天野健太郎の残した句集を出版して貰える出版社の方連絡をください


と書き込んだけれど、ネットの時代、さて。


突然ですが、私、以下略は、5,6年前から、本作りが趣味です。
最初は、真ん中をホッチキスで止める小冊子。
そのあと、とじたくんというおもちゃをネットで買い、のり付け製本をやってみたけれど、上手くいかない。
端をホッチキスで留めそれを製本テープでかくす方法も、本らしくない。

手芸用のホットガンを買って、それで斬り面にのり付けし、表紙がみでくるむ。
方法論としてこのやり方が一番でした。

ホットガン方法を広げて、現在、それなりに素人っぽさが残るけれど一応自己満足っぽい製本が出来るようになりました。


本文と遊び紙、レーザープリンタで作製、200ページ・・



表紙と本文・・



20冊分・・



一冊ずつのり付け。ホットガンで糊を貼り付けるのは企業秘密? なんてね。

製本後三面をカット・・



20冊出来上り・・



実はここまでは自己満足で済みなんですが、
ただ、この作り方で、この出来上りで、本として売れる物かどうか。
それが問題なんですよね



天野健太郎句集

2019年11月06日 15時59分19秒 | 日記

天野健太郎の一周忌が間近です。
その間際に、やっと天野健太郎句集全体がまとまりました。そして電子書籍の西崎さん宛に送りました。
今、20年以上前にやめたたばこを吸いたい気分です。
今、一口も飲めないビールジョッキを飲み干したい気分です。
今、ばあさんがダメ出しをするからダメだろうけれど、分厚いステーキを食べたい気分です。

久しく休んでいたBlogに何かいっぱい書き込もうと思って、ページを開けたけれどね。
今は何も書き気になれない。句集の後書きを貼り付けておこう。


    天野健太郎句集あとがき

 私の親の代からの放任主義の子育てで、息子の健太郎は京都の大学を出て数年建設関係の会社に就職し、その時に貯めたお金で台湾に留学。その後東京に居を移し、中国語の通訳や翻訳をしているといった、大雑把なくくりでしか知らない。
 二〇一二年翻訳本「台湾海峡一九四九」を、二〇一四年「日本統治時代の台湾」を翻訳出版。この頃でも頑張ってるなと言う感覚しかなかった。しかし、二〇一五年「歩道橋の魔術師」のあたりから、健太郎とは違う、天野健太郎という別人を知ることになる。

 二〇一六年「台湾少女、洋裁に出会う」の出版によって天野健太郎を追いかけることになる。
 天野健太郎にとってそれは希望の未来の始まりだろうと思った。しかし、知らないところで健太郎を病魔がむしばみはじめていた。
 そして二〇一七年「13・67」本格推理小説の翻訳出版によって、新聞社や週刊誌が、「13・67」を紹介してくれていた。当然親ばかの両親は推理小説「13・67」を友人知人に買ってくれと触れ回った。

手術後一年を過ぎた二〇一八年八月、岡崎大花火大会の夜、健太郎が私に手渡したのは、句集を出すつもりの俳句原稿でした。第一句集は彼自身によるレイアウトまで出来ており、そして第二句集用の俳句でした。
第一句集は、
・・・この句集を九十ン歳の現役俳人うた子おばあさんに捧ぐ・・とある。そして、
・・・第二句集「俳句にならなかった風景は」を数年後刊行予定・・とも。

二〇一九年一月十三日に、野嶋剛さんを始め多くの方々のご尽力により東京で『天野健太郎を偲ぶ会』が開催されました。
その会で、川本三郎さんが講演してくださった。その中に、「天野健太郎さんの翻訳した文章が綺麗だ」というようなこと、「そんな文章を書く健太郎さんの俳句を見てみたい」と言われたことが、記憶の中にずっと残っている。
その『偲ぶ会』が終ったあと、会場で、ある方が「健太郎さんから句集の電子書籍出版を打診されているものです」と言って名刺を渡された。西崎憲さんとありました。
同じ時、俳句原稿を健太郎のお世話になった出版社の方に預けました。後日「関係者の多くは、俳句に関しては高い評価をしていた」という、うれしい手紙を頂きました。と同時に句集の出版の現状を教えていただき、自費出版をして出版社が販売を受け持つという話で金額を提示されました。残念ながら情けない親で「お願いします」という金銭的な余裕がなかった。
私は、十八才から二十五才までは俳句熱中少年でした。私の俳句経験はその八年間だけしかないし、句集作りは未経験。その上、健太郎の俳句の師匠は二〇一七年の三月脳梗塞で入院し現在もリハビリ中。さてどうしたものかと健太郎句集は手つかずのまま時間が過ぎました。
川本さんの言葉と、西崎さんの電子書籍と、出版社のYさんの手紙、このお三方の言葉をかみしめる毎日でした。

なんにしても健太郎句集をまとめなくてはならない。

 健太郎の祖父は村松一平といい、西三河では名の知れたホトトギス俳人で、その祖父と小学生のころの健太郎の話が残っている。
・・・小学生のころ、祖父に「俳句やれ」と言われて、多分「夏休み楽しいな」的な俳句を持っていったら、「つまらん」という顔で無視された記憶があり、幼心の傷のせいで三十年以上俳句には寄りつかなかった。・・
そしてこの句集の冒頭に、
・・・二〇〇九年に絶妙のタイミングで「俳句をやれ」と言ってくれた、伯父であり師匠でもある、五灰子先生に感謝。・・とある。
 こうして今はいない健太郎と俳句の話が出来るのも、健太郎に俳句を作れと勧めてくれた、兄村松五灰子のおかげと心から感謝している。

 その句集。
まずやることは健太郎の手で仕上げてあった第一句集と第二句集の原稿以後の俳句を第三句集にまとめることだ。しかし、健太郎がいない現在、三冊に分けて作るより、天野健太郎句集「風景と自由」として一冊にまとめることにした。けれど、第一と第二句集の原稿と、健太郎のTwitterの俳句と「茅花」の入選句を集めてみたら、三千を越える膨大な俳句の数に押しつぶされることとなる。
しかも健太郎は、自分の俳句を
・・・俳句は翻訳と似ている。何かを創造する(想像する)のではなく、ただそこにあるものを別の言葉に写し換える作業であるから。
・・・あくまで写生、無季語可、五七五はともかくリズム重視。ていうか風景を見せよ。・・無季語可などといろいろおっしゃってるし。
そして、
・・・俺は内面を吐露するような俳句が大嫌いなんだけど、最近多いね(しょうがない・・(二〇一七年十一月)
押しつぶされて中断し、また押し返しての繰り返しながらやっと句集がまとまった。

まずはこの句集を、電子書籍として西崎さんに出版をお願いしたい。そして難しいと分かっていても句集製本出版に持って行かなくてはならないと、思っている。
その句集は、健太郎の死の二十日ほどして、健太郎を追うように亡くなった、健太郎最愛の九十ン歳のおばあちゃんに見せなくてはならないから。

Twitterの中の俳句を集めるうちに、Twitterの健太郎のつぶやきに興味が湧いてきて、この句集とTwitter本の二つ平行して進めてきました。
天野健太郎Twitter本の内容は仮題「俳句と音楽と映画と食い物そして癌」そのまんまです。まとめた結果、七百五十ページに及ぶ厚さになってしまった。これから五百ページくらいに削っていくという、大仕事がまだ残っている。

   一周忌を前にして



初盆

2019年08月14日 14時22分20秒 | 日記


天野健太郎の遺稿 #天野健太郎

2019年03月22日 13時45分41秒 | 日記





 健太郎が帰ってきたのは、去年の八月、岡崎の花火大会の日だった 。
 その日の健太郎の Twitter には、親父に俳句を渡した、と書いてある。

 病状も良くなかったこの時期、(句集を含めて)仕事に対する気力は十分あったはずだ。逆に自分の体が自由にならないことも理解していたと思う。自覚して父親に渡したのかもしれない。

 その時預かった、健太郎が句集にするつもりだと言っていた俳句原稿が今私の手元にある。

 第一句集、第二句集と分かれていて、第一句集はほぼチェック済みで、第二句集の方はまだ 集めただけの状態。さてこれをどうするか、悩むところ。
 健太郎がいなくなった今、第一句集と第二句集にまとめるより、一冊にまとめて発行するのが妥当かなと思う。

 そして一番大きな問題は、天野健太郎の句集として発売してもらえる出版社があるかどうか。
 現在出版界において流通させるような句集といえば超有名人か、過去の著名な俳人くらいのもの。自費出版して専門家に謹呈して評価を仰ぐ、のが一般的だと、ある出版社の方が教えてくださった。

 まあなんにしても健太郎の俳句を句集として一冊にまとめなくてはならない。電子書籍にするにしても、流通するにしても、自費出版するにしても。


キャッチコピーは…

・四十七歳で亡くなった、台湾翻訳家の天野健太郎が残した句集!!

・角川書店野性時代の俳壇で、昨年5月号で夏井いつき先生が特選に選んだ俳人!!

・川本三郎氏が「天野健太郎を偲ぶ会」で見たいと言った天野健太郎の俳句!!


と、勝手に考えて、勝手に妄想し、勝手に悩む、バカな父親です。



  # この使い方がよくわからんね。



  


2月25日(月)のつぶやき

2019年02月26日 05時46分31秒 | 日記

2月13日(水)のつぶやき

2019年02月14日 05時54分43秒 | 日記

天野健太郎の荷物

2019年02月13日 18時31分06秒 | 日記

健太郎の荷物の引っ越し段ボール
(2018-12-22のBlog)


CDやらオーディオ類は弟が、生活用品などは姉が、それぞれもってってくれた

書籍を中心に開封していって、やっと80%くらい終った

部屋を仕切って本棚を作って、とりあえず、並べた









引っ越し荷物の残りはあと、みかん箱りんご箱など段ボール40箱くらい

あとはのんびりと、書籍の整理整頓



机の上に健太郎の写真を飾るつもり



健太郎、気に入ってくれるかな








2月4日(月)のつぶやき

2019年02月05日 05時42分31秒 | 日記

天野健太郎

2019年02月04日 17時10分58秒 | 日記

梅を見よ紅梅を見よ天野健太郎

北風が吹く健太郎の声かとも

健太郎北風強いのはお前の意思

健太郎残せし原稿手に冷たく

健太郎犬は無心に枯草むしる

健太郎の冬の空はどこまでも青

健太郎に託された書類寒鴉

寒鴉にかき消され健太郎は何処

健太郎はいが饅頭が好きだった

健太郎が戻ったのは夏の花火の日

寒鴉よく鳴く健太郎お前の声か

寒風が吹き上がる健太郎の声を聞く

寒いけど健太郎がそこにいるのかも

健太郎今どこにいる吹きさらしの橋

散歩から戻って健太郎コート脱ぐ


1月29日(火)のつぶやき

2019年01月30日 05時39分04秒 | 日記