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「ありがとうございます」(平成19年9月発行 無料贈呈 複製自由 名も無きボランティアグループより)の内容ご紹介ブログ。

84 暗闇は、比較上の虚の状態

2010-11-26 20:42:02 | 日記

 「暗闇が在る」というのは、自分の立場から眺めて、自分の抱いている光と比較して、「光明が乏しい・光明が無い」と認めているに過ぎないのです。自分の立場から眺めて、自分の抱いている光より大きな光明に対しては、暗闇とは感じないのです。だから暗闇は積極的な存在ではなく、ある立場から見て、「光明が乏しい・光明が無い」という、比較上の虚の状態に過ぎないのです。
 宇宙絶対神は、『無限の無限の大光源』『無限の無限の大光明』そのものです。だから宇宙絶対神の表現としての全大宇宙には、無限に小さい光から無限に大きい光まで、無限の段階の光の表現だけが存在するのです。ところが大きい光の立場から、小さい光を眺めると、暗く感じられるのです。相対的な比較上の問題として、大きい光の立場からは、小さい光は暗闇に感じられるのです。このことは理の当然であって、暗闇として感じることは、善でも悪でも無いわけです。
 ここで人にとって大切なことは、天浮橋(アマノウキハシ)(相対の両極)に立つということです。無限の無限の大光明という立場に立つ時は、暗闇に対して、光を投げ与えるだけでよいのです。暗闇から光を求めることは、全く必要が無いのです。報いを求めずに、ただ与えるだけでよいのです。
 これは愛の心の一面の、"思いやり"に相当するわけです。反対に暗闇の立場に立つ時は、無限に小さい光をも、なんと素晴らしい光であることよ!と褒め讃え・感謝し・喜んで、自分の心の中にしっかりと包容すればよいのです。
 全大宇宙のすべてのものを、素晴らしく感じて、心にしっかりと包容することは、愛の心のもう一面の、"寛容"に相当するわけです。自分に少しでもプラス面が有るならば、それは他へ与え尽くす為に循環してきたものです。比較して自慢したり、他を軽蔑したりする為のものでは決して無いのです。また自分が他から何かを与えられようとする時は、それがどんなに小さい光であっても、必ず自分にとって必要不可欠な光なのです。小さい光だから要らないと、決して拒絶してはならないのです。光一元に仰ぎ見て、すべてから光を吸収することが、本心の自分を大きく輝かすことになるからです。
 宇宙は神さまの愛の表現です。思いやりと寛容の両極の表現です。人もまた"愛"の心を生きるのが、一番自然なのです。思いやりと寛容の心をもって生きる時、人は何の無理も無く自然に、いつもいつも"無限の無限の幸せで一杯"になるのです。宇宙絶対神の全徳は、無限の無限の大光明燦然と、常に常に輝き渡っているのです。その光をどれだけ受けるかは、一人一人の完全な自由に任せられているのです。先ずは自分の持っているすべての光を与え尽くし、その後、光一元に眺めた宇宙のすべてから光を吸収するのです。その循環を速く大きくしてゆくことが、本心の自分を大きく輝かせる生き方なのです。


83 本心の無限の無限の喜び

2010-11-25 03:20:59 | 日記

 本心の無限の無限の喜びは、進歩・向上・発展・成功・勝利・前進・進化・創造・建設・発明・発見・成就・完成・・・等々の喜びというように、常に前向きに生きている時に湧き上がってくるものなのです。また謙虚な心になって、物事を明るく善意に思い返し、プラスの価値を見出した時にも、本心の喜びが感じられるものです。それは心の立場を一旦下に置いて、そこから今の立場を眺めると、大きく前進し進歩したのと同じように見えるからです。
 これと反対に、何の進歩も前進も無く、同じ状態に止まっている時には、喜びは湧き上がって来ないものです。また物事を暗く悪意に受け止めて、マイナスの価値しか見出すことができない時も、喜びを感じることはできないものです。
 何事も抵抗のあるところに、前進は可能となるのです。飛行機が空気抵抗を利用して飛行するように、魚が水の抵抗を利用して泳ぐように、人間も大地の強い抵抗のお蔭で歩けるように、大きな抵抗があればあるほど、大きく前進することが可能となるのです。本心の自分・生命の自分は、大きな抵抗に感謝して利用こそすれ、負けて萎縮してしまうような、脆弱なものでは決して無いのです。抵抗が大きければ大きいほど、困難が大きければ大きいほど、本心の自分は喜び勇んで、それを克服して大きな力を発揮してゆくのです。本心の無限力を発揮する為には、無限に大きな抵抗が必要不可欠なのです。ハンディキャップを背負っている者ほど、優秀なプレーヤーなのです。
 登山においても、一歩一歩着実に登ってゆくことが、頂上に到達する為の必要な条件です。"今"の一歩をおろそかにする者は、足を踏み外して転落し、大きな苦痛を味わったり、生命を失うという代償を支払わなければならないのです。今の一瞬一瞬を、全力を尽くして、すべてに行き届いて、感謝の心をもって、着実に歩む者が、困難に打ち勝つという、大きな喜びを味わうことができるのです。
 運命(命を運ぶ)を前向きにする為には、プラスの言葉を駆使しなければならないのです。過去にマイナスの言葉を使い過ぎた為に、心もマイナスに向いていて、運命もマイナスに向いているという人はこの世には多いのです。そういう人にとっては、心もなかなか明るくならないし、運命も希望通りには運ばないのです。だからといってプラスの言葉を使わなかったら、ブレーキの効かない車が坂道を転がり落ちるように、加速度的に運命は悪くなってゆくのです。マイナスの惰性を打ち消すだけでも、大きなプラスの力が必要なのです。
 しかし嘆くことは要らないのです。それをハンディキャップに変えて、マイナス無限大から出発して、本心の無限力を、一心不乱の祈りによって引き出してゆけば、その人は無限の無限の喜びを自分のものにすることができるからです。


81 「自分を正しく知る」ということ

2010-11-24 05:04:09 | 日記

 ソクラテス(古代ギリシャの哲人)は、「汝自身を知れ」という有名な言葉を残しています。「自分を正しく知る」ということは、いつの時代にあっても、最も大切な課題なのです。釈迦も「一切の苦しみの根本原因は本当の自分を知らないこと、即ち無知にある」と教えています。多くの人間は、四苦八苦の繋縛から、自由になりたいと願いながらも、本心の自分を知ろうと、真剣に努力しないから、いつまでもその苦しみから逃れられずにいるのです。
 人間は「自己の自由意志」によって、徹底的に本心の自分を生き切らなければならないのです。人間は「自己の自由意志」によって、本心の自分を生き切る時に、一切の苦しみから解放されて自由自在となり、無限の無限の法楽を味わい続けることができるのです。反対に本心の自分を生きるのを忘れた時は、業想念(過去に積み重ねた想念感情)の奴隷となって、四苦八苦からは決して逃れることができないように、仕組まれているのです。なぜならば四苦八苦は、本心の自分に気付かせる為の「気付け薬」となるからです。
 それでは本心の自分をしっかりと生きる為に、その状態を具体的に、幾つか列挙してみましょう。


本心の心を生きている状態


① 移り変わる姿には決して執着しないで、常に客観的に眺めて楽しんでいる。
② 何事も明るく善意に解釈して、その奥にある神さまの愛を感じ取っている。
③ 神さまと一体の自分、永遠に生き通しの自分、一貫して変わらない自分を信じているので、いつも心が安らかです。
④ 常に与える生き方をとっているので、必要なものは豊かに与えられている。
⑤ 与えられるままに感謝を深めているので、運命はどんどん善くなっている。
⑥ すべて神さまの御心のままにと全託し、人の自由を決して縛らない。
⑦ すべてに絶対価値を見出して、常に褒め讃え・感謝し・喜んでいる。


業想念の奴隷になっている状態


① 小さい物事に執着し切って、巻き込まれては自由を失い、苦悩に喘いでいる。
② 何事も暗く悪意に解釈して、神さまの愛を疑い、逆恨みをしている。
③ 必ず死滅する肉体、地獄に落ちるかも知れない業想念の集積(魂)を自分と思い込んでいて、いつも恐怖で一杯です。
④ 常に奪う生き方をとっているので、大切なものまで大きく奪いとられている。
⑤ 求めるだけの不平不満不足の心なので、運命はどんどん悪くなっている。
⑥ 我の心ですべて自分の思い通りにしようとするから、人を奴隷扱いしている。
⑦ 相対的に比較して、上に立っては蔑み、下にあっては羨んでいる。


79 「神さまの愛」に対する「信じ方」

2010-11-23 04:11:04 | 日記

  「神さまの愛」に対する「信じ方」にも、色々な「信じ方」の状態があるのです。

  ① 絶対に信じない(何が何でも、神さまの愛を否定し、拒絶するぞ)。
 ② 信じられない(神さまの愛を疑いたくなるような事象があって、信じられない)。
 ③ 信じたくない(そんな目に見えないものに頼っても仕方がないから)。
 ④ わからない(信じる方が良いのか、信じない方が良いのか、決断がつかない)。
 ⑤ 信じたい(神さまの愛が無いとすれば、未来に希望が持てないから)。
 ⑥ 信じてる(移り変わる姿には疑問もあるが、神さまの愛は信じている)。
 ⑦ 絶対に信じている(すべての事象に神さまの愛を感じ、深く確信している)。

 信・不信の心の状態は、どこから生まれてくるのかと言うと、その人が過去にどんな言葉をどれだけ心に蓄積してきたかという、その総決算の中から生まれてきているのです。神さまの愛を否定する類の言葉を、数多く心に蓄積してきた者には、不信の信念が自然に培われているのです。逆に神さまの愛を肯定する類の言葉を、数多く心に蓄積してきた者は、
自然と神さまの愛を信じられる心の状態になっているのです。言葉がその人の信念を作り上げてきているのです。
 真実に存在しているものは、神さまの「絶対の愛」と「愛の表現」です。どんな言葉で否定しようとも、厳然と実在している「絶対の愛」は、決して消えて無くなることは無いのです。また神さまの「愛の表現」も、信じる・信じないということとは無関係に、真実の表現として表現され続けているものです。ただ神さまの愛に対して、「信」のある者には、神さまの「絶対の愛」と「愛の表現」が感じ取り易く、逆に「信」の無い者には、感じ取り難くなっているだけのことです。
 神さまの愛に対する不動の堅信は神さまの愛を一途に思い続けることによってのみ、養成されるものです。一切の現象は、「信」の心で眺めた時に、神さまの愛の現れと感じられるのです。「不信」の心では、幾ら眺めても、神さまの愛は感じられないものです。
 不動の堅信は、一切の現象に神さまの愛を感じ取り、また現象を超越して絶対の愛を把握するようになるのです。現象の移り変わる姿に一喜一憂しているようでは、本当の信・不動の堅信はまだ無いのです。だから神さまの愛の助けを、十分に感受できないものです。「信」無き者は、折角の神さまの愛の助けをも、感じ取れないでいるのです。「信」深き者こそ、幸せです。
 神さまの大きな大きな愛の助けを、いつもいつも大奇跡として、目の当たりに感じ取ることができるからです。


78 絶対の愛(至慈至愛)の宇宙の大神さま

2010-11-22 11:13:44 | 日記

 絶対の愛(至慈至愛)の宇宙の大神さまは、一人残らず全員に、無限の無限の幸せを与え続けて下さっているのです。だから今の一瞬一瞬に、神さまに心を向けて、神さまからの無限の無限の幸せを受けてゆきさえすれば、その幸せは他から横取りして奪ったものでは無く、神さまから直接頂いたものであり、他から決して奪われることの無い幸せなのです。
 一人一人の幸せの程度は、その人が神さまからどれだけの幸せを受け取ったか、という結果を示しているに過ぎないのです。常に神さまに心を向けて、感謝を深めてゆくならば、その人の幸せは無限に大きく無限に深くなってゆくものです。
 幸せはその人の、『心の向け方・心の持ち方』によって決まるのです。何時何処にあっても、「無限の無限の幸せで一杯!」というのでなければ、まだ神さまの御心に適った正しい生き方になっていないのです。自分の不幸の原因が、他人・環境・運命・業想念等にあるのだと思っているならば、それは大きな間違いです。幸せの与え主である神さまに、心を向けていないということが、一切の不幸の根本原因なのです。いつまでも過去の出来事に囚われたり、小さな物事に執着しているのは、神さまに心を向けるのを忘れている、ということを端的に示しているのです。
 『神さま、ありがとうございます』と一心に唱えて、感謝三昧になった心が、神さまを直接感じ取れる本心の心なのです。「宇宙のすべては、神さまの愛の現れ!」と実感する為には、すべての背後に、神さまの無限の無限の愛の大光明を、感じ取らなければならないのです。神さまの愛の大光明を感じることさえできれば、地獄のどん底の姿をも、神さまの愛の御姿と拝んで、深い感謝の心で受けることができるのです。
 しかし想念感情の浅い心、五感六感の感覚では、神さまの愛の大光明を感じ取ることはできないのです。心を鎮めて、心を深く掘り下げてこそ、心の奥の奥に実在している神さまを感じ取れるようになってくるのです。真剣な心・敬虔な心・謙虚な心・素直な心・明るい心・楽天的な心・ひたむきな心・感謝の心・喜びの心・・・が、神さまを直観できる心なのです。
 神さまが幸せの本体・幸せの本源なのですから、神さまに近づけば近づく程、神さまに融け入れば融け入る程、無限に大きな・無限に深い幸せを受け取ることができるのです。反対に神さまから遠ざかれば遠ざかる程、神さまと自分を切り離せば離す程、幸せは小さく浅いものになって消滅してゆくのです。神さまに近づく為には、神さまと一体化する為には、いつもいつも神さまのことを思い続けなければならないのです。神さまのことだけを思い詰める程でなければならないのです。


76 全大宇宙は絶対神の全徳の表現

2010-11-21 05:18:20 | 日記

 全大宇宙は絶対神の全徳の表現です。絶対神の中からは、常にその全徳が、無限の無限の大光明燦然と輝きながら、湧き出で・迸り出で・溢れ出ているのです。その無限の無限の大光明は、マイナス無限大からプラス無限大に至る、光一元の無限の無限の変化に富んだ素晴らしい表現となって、一瞬一瞬その装いを新たに、顕現し続けているのです。
 宇宙絶対神は、全徳の無限の無限の大光源そのものです。その表現は、全徳の無限の無限の大光明そのものです。真実の祈りとは、この絶対神の全徳の無限の無限の大光源を、無限の無限の大光明を、心にしっかりと感受することなのです。真実の祈りには、絶大なる力があるのです。一切の問題の解決は、この真実の祈りによってのみ可能となるのです。神さまの光を・力を・働きを、心にしっかりと感受した時が、真実の祈りの状態です。この状態が一瞬の短い時間であっても、神さまの力は大きく働いて、大奇蹟を目の当たりに見せてくれるのです。
 真実の祈りができるようになる為には、祈りの練習が必要です。何事においても、その神髄を極める為には、正しい方法で・真剣に・継続するということが大切です。ましてや祈りの修行は、一切を超越した最高のものを掴もうとするのですから、命懸けの真剣さを要求されるのです。何事をするにも、常に真剣に取り組んでいれば、祈りの練習においても真剣さが出てくるようになるのです。真剣に、真剣に、というように心掛けていれば、真剣さは大きく出てくるようになるのです。
 真剣な祈りとは、熱き祈りです。熱湯が片栗粉を透明に変えてゆくように、たゆみなき熱祷は業想念を浄めて、心を透明に変えてくれるのです。澄み清まった明るい心になりさえすれば、神さまの光明はひしひしと感じられてくるのです。熱き祈りとは、希望に満ち溢れた・喜びに満ち溢れた・愛に満ち溢れた・明るさに満ち溢れた祈りです。
 何事も明るく明るく思い返し、善意に善意に解釈して、前向きに前向きに受け止めて、すべてに神さまの愛を感じ取ろうと努力することは、真実の祈りを体得する為には、絶対に必要なことなのです。そうした努力の上に立ってこそ、祈りの修行の成果も、目に見えてあがるものです。
 正しい方法で(①姿勢を正して、上体の力を抜き、自然体になる。②丹田呼吸を行う。③丹田に意識を鎮めて、そこから祈り言葉が湧き出てくるようにして唱える。④祈り言葉の本義をしっかりと学んで掴む)、真剣に(①絶体絶命の立場を思い返す。②今の一瞬にすべてを懸ける)、継続して(①どんな時にも、どんな状態であっても、必ず一歩でも半歩でも前進する。②同じ時間をかけるのなら、纏めて一回の祈りよりも、分散させて十回真剣に祈る)、真実の祈りを体感体得しましょう


74 神さまの愛を感じ取れる人が、本当に幸せな人

2010-11-20 14:51:35 | 日記

 神さまの愛を感じ取れる人が、本当に幸せな人なのです。神さまの無限に大きく・無限に深い・絶対の愛(至慈至愛)は、皆に平等に降り注がれているのです。しかしその愛をどれだけ感じ取るかは、一人一人の自由に委ねられているのです。何時何処にあっても、神さまの愛を大きく深く感じ取りさえすれば、常に無限の無限の幸せで一杯!なのです。本心の心が自分の心なのだと信じられる人は、神さまの愛を感じ取れる人です。その人は"神さまに愛されている! いつも無限の無限の幸せで一杯! ありがとうございます!"と祈り言葉を唱えて、神さまの愛をしっかりと確認してゆけば良いのです。
 業想念の心〔五欲(財欲・名誉欲・色欲・食欲・睡眠欲)〕を自分の心なのだと信じている人にとっては、業想念が厚ければ厚い程、神さまの愛は感じ取り難いものです。それは厚い業想念に覆われて、業想念の奴隷になって、本心の自分が隠されてしまっているからです。神さまに生かされているということを、忘れた状態が欲なのです。神さまへの感謝を忘れたところから、業想念(五欲)が発生し蓄積されてゆくのです。神さまへの感謝を忘れ、怠る状態が続けば続く程、業想念は厚くなってくるのです。
 業想念が厚くなればなるほど、五欲を満足させる為に、自分の思い通りに生きようとする利己的な心が強くなってくるのです。何でも自分の思い通りにならなければ、腹が立つのです。周囲の人々の思惑を生かしてあげようという愛の気持ちが、業想念によって覆い隠されてしまっているからです。
 業想念の心(五欲)を幾ら満足させても、それは本心の心の満足では無いのです。だから自分も他人も決して本当の幸せにはなれないのです。業想念で築き上げたものは、必ず自壊(外力によらず、内部から崩壊する)するのです。思い通りにならない時が必ず来るのです。築き上げたものが大きければ大きいほど、大轟音を発して崩壊するのです。その崩壊する姿が、七難八苦となるのです。その時に業想念の心を自分の心として掴んでいたら、必ず大きな苦痛を味わい続けることになるのです。
 しかし幸いなことに、その苦痛が魂を浄め、生き方の誤りに気付かせてくれるのです。同じ失敗を何度も繰り返すのは愚かです。他人の失敗を見て、他山の石としないのも愚かです。お手本は至る所に存在しているのです。五欲の奴隷状態に止まっていては、決して真実の幸せを掴むことはできないのです。このことをしっかりと肝に銘じておかなければならないのです。
 例えこの一生が七難八苦の連続であっても、地獄の苦しみを味わうことと比べたら、万分の一以下の軽さです。その苦痛によって魂を浄め、感謝のできる本心の心に引き戻していただけるとしたら、何が何でも感謝し続けなければならないものなのです。


73 神聖恋慕の愛の働き

2010-11-19 05:01:12 | 日記

 移り変わる一切の表現の奥底には、絶対神の愛が厳然と実在し、貫流しているのです。相対に分かれた二極間相互における、交流・交通・交渉等の起こる原動力は、神聖恋慕の愛の働きです愛こそが一切のものを生み育てる力なのです。光(本心)と闇(業想念)が対立し、別個に存在して働いているだけでは、光の無限に美しく、無限に妙なる、変化に富んだ表現は生まれ出ないのです。光と闇との相互間のムスビが、神聖恋慕・愛によって、円融無碍に執り行われてこそ、無限の無限の妙趣ある光の表現が誕生するわけです。光と闇、本心と業想念は、本来敵対しているものでは無いのです。双方の助け合い、与え尽くし合いによって、その表現を光一元の無限の無限の変化に富んだ素晴らしいものに、進化・向上・発展させているのです。
 神聖恋慕とは、尊厳な・純粋な・清浄な・美妙な・善良な恋慕のことです。神さまの御心である身・善・美・聖を表現する為の、愛の牽引力のことです。恋慕の「恋う」とは、 無限に大きく拡がったものを、一点に集中して凝り固めて、報いを求めずに与え尽くすことです。「慕う」とは、謙虚に下から、与えられた無限のものを、感謝を深めて受け尽くすことです。霊が体を恋い、体が霊を慕うのも、男が女を恋い、女が男を慕うのも、神聖恋慕の具体例です。すべての表現の奥底に流れる、神聖恋慕(神さまの愛)を実感して、無限の喜び一杯に活きることが、本当の自分を生きていることなのです。
 移り変わる表現としての、本心の姿・業想念の姿に囚われてはならないのです。表現の奥底にある、本当の本心の自分を、しっかりと把握してゆくことが大切なのです。表現の本心の姿も、これが自分なのだと掴めば、表現の業想念の姿を敵対視することになるのです。本心と業想念の戦いでは無いのです。表現に囚われるから、両者の闘争に見えるのです。本当は本心の表現を、無限の変化に富んだものにする為に、業想念が手助けしてくれているのです。
 本当の本心の自分が願うならば、無限の闇(業想念)の場に、無限の無限の大光明(本心)を加えて、その場を無限の大光明(本心)燦然と輝く表現に変えること位は、自由自在なのです。地獄を極楽に瞬時に変貌させることも、朝飯前のたやすいことなのです。
 絶対の中に本住している本当の本心の自分が、表現としての本心の姿を、種蒔かれた状態から出発して、色々な生長過程の姿を楽しみながら、花開き実を結ぶ状態にまで、進化・向上・発展させているのです。今・此処、自分の立っている場を、どのように変化させてゆくことも、自由自在にできるのです。真理の言葉を駆使して、神さまの全徳の無限の無限の大光明を、必要に応じて、その場へ与えてゆけばよいのです。


71 心に感受したものが、運命となって現実化

2010-11-18 11:13:40 | 日記

 『心に感受したものが、運命となって現実化してくる』というのは、一つの法則です。法則は正しく活用すれば、重宝で役に立つものなのです。希望を実現する為に、夢を叶える為に、理想を現実化する為に、願いを成就する為に、運命を改善する為に、等々いろいろな目的の為に、この法則を活用することができるのです。それではその活用法を幾つか挙げてみましょう。
 もしあなたが、神さまの愛と神さまの真創造の素晴らしさを、一寸でも信じられる人であれば、次の真理の言葉を駆使して、その信を深めてゆきさえすれば、素晴らしい運命が必ず現実化してくるのです。「宇宙のすべては、神さまの愛の現れです。生かされている! 愛されている! 無限の無限の幸せで一杯! 無限の無限の喜びで一杯! 無限の無限の安らぎで一杯! 無限の無限の恵みで一杯! 無限の無限の健康で一杯! 無限の無限の愛で一杯! 無限の無限の叡智で一杯! 無限の無限の力で一杯! 無限の無限の平和で一杯!・・・・・・ありがとうございます・・・・・・」「一切は至善至美至妙完全円満完璧大調和!」「ありがとうございます(宇宙絶対統一神・天照大御神 今・ここに在します)(新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯!)」
 もしあなたが、現実の様々な姿を見て、少しでも明るく思い返し、善意に受け止めてゆきたいと願っている人ならば、その生き方を徹底することによって、無限の幸せを現実化することができるのです。
 「私の周りの嫌な姿は、私の過去世に積み重ねた無限の業を、身代わりとなって背負って消して下さっている姿です。ありがとうございます・・・・・・」
 「どのような不幸な出来事も、大難を小難にして、軽く軽く消し去って下さっているものばかりです。いつもいつも大難を無難に変えて、守りに護って下さっているのに、感謝を忘れていて御免なさい。ありがとうございます・・・・・・」 
 一瞬一瞬変化するどのような姿も、心を自由にすれば、それを最高に幸せなものとして受け止めることができるのです。
 例えば炎天下に置かれて、今まさに日射病で倒れそうになっている立場を思い返すと、厳冬の雪も有り難く感じられてくるから不思議です。また熱砂の砂漠をさまよって、一滴の水でも喉から手の出るくらい欲しいのだと思い返すと、土砂降りの長雨も、なんと有り難い天の恵みよ!と思えてくるものです。
 もしあなたが、嫌なことに対して、どうしても明るく善意に思い返せないその時には、『見ざる・聞かざる・言わざる』を実行するのが一番です。その為には、あなたの好きな・嬉しい・楽しいことに、積極的に心を向け続けてゆくことです。


70 思い通りにならない時に生じる苦しみ

2010-11-17 05:34:17 | 日記

 すべての苦しみ(四苦八苦)は、自分の思い通り(願い通り)にならない時に生じているのです。何でも自分の思い通りにしようとするから、思い通りにならない現実に遭遇して苦しむのです。生苦・老苦・病苦・死苦・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦のいずれもが、自分の思い(願い)の叶えられない苦しみです。それでは木や石のように、心を捨てて何も思わなかったら、何も願わなかったら、果してそれで良いのでしょうか?
 心に何も思わない、願わないということがもし可能であるとして、苦しみから逃れることだけが目的であれば、それはそれで良いのかも知れません。五欲(業想念)の奴隷となって求め願っても、その願いが叶えられなかったら、その落差が大きければ大きいほど、苦しみも大きくなるわけです。それならば最初から五欲を断絶して、その落差を小さくする方が、苦しみも小さくなるわけです。苦行に耐えて、燃え盛る煩悩に打ち勝とうとするのは、大きい心の苦しみをより小さくしてゆこうとする、一つの生き方でもあるわけです。しかしこの生き方では苦しみが小さくなっても、心に本当の楽(無限の無限の喜び)を、感じ取ることはできないのです。
 本当の大楽(無限の無限の喜び)を感得する為には、宇宙絶対神の絶対の愛を信じ、その至慈至愛の表現を、無限の無限の深い感謝の心で、受け止めてゆかなければならないのです。執着の求める心では、本当の幸せを掴むことはできないのです。また五欲といくら戦っても、真実の幸せは得られないのです。それでは一体どうすればよいのでしょうか? 五欲(業想念・煩悩)の心を相手にしないことです。その為には本心の心を、常にしっかりと生きるようにすることなのです。本心の心は誰の心の中にも、厳然と存在しているのです。だから自分自身が、本心こそが本当の自分なのだと、先ず気付くことが大切なのです。
 本心の自分は、常に常に神さまだけを相手にしているのです。宇宙絶対神を信じ切っているのです。神さまの他には、何者をも認めないのです。神さまは絶対の愛である!と確信しているのです。だから全大宇宙のすべてを、神さまの愛の表現として感受できるのです。本心の自分は今の一瞬一瞬に、新たな『神愛の表現』を、全大宇宙のすべてに感じ取って、湧き上がる無限の無限の感謝と歓喜に打ち震えているのです。
 本心の自分にとっては、『の一瞬を最高に生きることが、何よりも大事なのです。神さまの全徳は光一元に、無限の無限の大光明燦然と輝いているのです。その全大宇宙のすべてのすべてを、無限の無限の価値あるものとして、今の一瞬に感受することが、本心の自分に与えられた最高最大の務めなのです。ここにのみ真実の大楽は存在しているのです。


68 幸せも喜びも安らぎも、神の別名

2010-11-16 06:55:19 | 日記

 幸せは神の別名です。喜びは神の別名です。安らぎは神の別名です。神さまから新生してくる本心の自分は、神さまこそが幸せの本体であり、幸せの与え主であることを熟知しているのです。また神さまを忘れない限りは、幸せを見失うことも決して無いということを、十分に知り尽くしているのです。だから幸せを感じられなくなった時には、必ず神さまを探し求め、神さまを呼び、神さまの方へ振り向こうとするのです。
 それはちょうど幼子が母親に見守られて、沢山の玩具を与えられて遊んでいる状況と似ているのです。幼子にとっては、母親と一緒に居るという安心感が幸せなのです。ところが与えられた玩具で遊んでいるうちに、ふと母親の存在を忘れる時があるのです。母親の暖かい視線を感じながら遊んでいる時には、幸せ一杯の心で楽しんでいられたのに、母親の存在を感じられなくなった瞬間、無性に淋しく不安になってくるのです。そうなると遊びを捨てて、真剣に母親を探し求めるのです。そして母親の姿を認めて一安心して、また遊びに熱中してゆくものなのです。
 人(本心の自分)は、『神さまに愛されている』と感じられる時に、いつ・どこにあっても幸せで一杯なのです。ところが神さまの愛の視線が感じられなくなった時は、何をしていても幸せで無くなるのです。人にとっての幸・不幸の分かれ目は、神さまの愛が感じられているか否かという点にあるのです。どんなに楽しい人生も、神さまの愛を感じられなくなった時から、不幸への道を転がり落ちてゆくものです。だから常に常に神さまの愛を感じ続けてゆけるように、最大の努力を払わなければならないのです。それではどのような努力が必要なのでしょうか?
 それは神さまの愛を否定する、マイナスの努力を止めさえすれば良いのです。幼子が母親の目の前で、駄々をこねて泣きじゃくり、すべての不幸を一身に背負っているかのような、愚かな真似をしているのを見れば、良く判るのです。神さまの愛の護りは絶対であり、完璧なのです。神さまに愛され、生かされているのは、厳然たる真実なのです。その真実を否定するような、愚かな言辞を弄することさえしなければ良いのです。どんなに多くのマイナスの言葉を駆使して、神さまの愛を否定しようとも、神さまの愛は厳然と輝き続けているのです。ただ自分勝手に神さまの愛を、頑固に拒絶しているだけのことなのです。
 神さまの愛が感じられないのは、マイナスの言葉を使って、神さまの愛を否定し、神さまの愛を拒絶しているからです。マイナスの言葉を使うことに、最大の努力を払い続けている自分の愚かさに、一日も早く気付いて、その同じ努力をプラスの言葉を使うことに向ければ、直ぐに無限の無限の幸せで一杯!の自分に戻れるのです。


67 幸せになる為の秘訣

2010-11-15 10:58:02 | 日記

 『笑う門には福来る』(いつもニコニコと、笑い声が満ちている人の家には、自然に福運が巡って来る)、『泣き面に蜂』(泣き面を蜂が刺すように、不運の人にさらに苦痛や不幸が重なって来る)という諺には、幸せになる為の秘訣が示されているのです。
 すべての人が幸せになりたいと願っているのに、『無限の無限の幸せで一杯!』といつも喜んでいる人はごく僅かです。何故でしょうか?
 「幸せになる為の秘訣」「幸せの扉を開く鍵」を、手に入れるのが難しいからでしょうか? そんなことは無いのです。絶対の愛の神さまが、そのような意地悪をするわけが無いのです。無限の幸せを与えたくて与えたくて堪らない神さまが、「幸せの扉を開く鍵」を隠したりはしないのです。その反対なのです。既に「幸せの扉を開く鍵」は、みんなの手に握り締められているのです。「幸せになる為の秘訣」即ち「真理」は、簡単明瞭でわかりやすいものです。
 それではその秘訣・鍵とは何でしょうか? それは『言葉』です。『言葉を正しく使う能力』は、すべての人に既に授けられているのです。その能力を駆使すればよいのです。幸せになりたければ、「ああ幸せ!」「幸せです!」「無限の幸せで一杯!」・・・というように、幸せという言葉をできるだけ沢山、断定的に使うことです。そうすると心に幸せな感じが芽生えてきて、その幸せ感がだんだんと大きく膨らんでくるのです。
 心が幸せになってくると、自然にニコニコと笑うようにもなってくるのです。こうなれば占めたものです。幸せは自然にどんどんと集まってくるのです。それは身(幸せな笑顔)・口(幸せな言葉)・意(幸せな心)の三つの働きが、大きな磁石となって、幸せを引き寄せるからです。
 もっともっと大きな幸せを手にしたければ、宇宙のすべてに対して、褒め讃え・感謝し・喜びを表現することです。なんて素晴らしい! 本当にありがとう!とても嬉しい!というように、身・口・意の三つに表現できれば、宇宙のすべてが大きな幸せを、次から次へと届けてくれるのです。神さまがみんなに与えようとしている幸せは、『無限の無限の幸せ』であって、あなたがどれほど大きな幸せを掴もうとも、他の人の幸せをマイナスするようなちっぽけなものではないのです。この世的にも大きな幸せを自分のものにしてゆかなければ、神さまの御心には叶わないのです。
 真実の最高の無上の幸せとは、『悟りを開く』ことです。それは『全大宇宙のすべてのすべては既に悟っている!と実感することです。その為には「みんな悟っている! みんな祈っている! みんな救われている! みんな光輝いている! みんな無限の無限の幸せで一杯!」と礼拝し、褒め讃え、感謝し、喜び続けることが大切なのです。


65 神さまに生かされている人間

2010-11-14 05:11:32 | 日記

 人間が「自分の力で何かをしている」と思っているとすれば、これほど愚かしいことは無いのです。呼吸について考えてみれば、そのことがよく判るのです。人間が呼吸は自分の力でしているのだと考えて、絶え間なくハーハーハーハーと一所懸命に努力したとしても、これにどれほどの価値があるのでしょうか? まして夜も眠らずに、努力して呼吸をしている人が仮に存在するとしたら、愚の骨頂と言えるのではないでしょうか?
 呼吸は人間がことさら意識してしなくても、内なる生命力(神の力)によって、自然に正しく行われているものです。反対に意識しない時の方が、自然の理に叶っていて、必要に応じて相応しい呼吸になっているのです。このようにすべて、内なる神の力に任せ切った時にこそ、最も理想的な生き方となるのです。
 人間が「これは自分の能力である、これは自分の努力である、これは自分の意志力である、・・・・・・」と言っているもののすべてが、実は内なる神より流れ来っている、神の力以外の何ものでも無いのです。それなのに人間が勝手に『神の力』を自分の力であると嘘吹いているのです。だから「これは自分の力である! 自分は偉いのである!」と偉そうに言えば言うほど、その愚かさが目立ってくるだけのことです。それは傲慢で鼻持ちならぬ醜い姿でしか無いのです。
 人間は神さまに対して、もっともっと謙虚に、どこどこまでも謙虚にならなければならないのです。神さまの大恩に対して、もっともっと感謝の心を深めてゆかなければ、忘恩の徒・恩知らず・大泥棒・鬼畜にも劣る奴・等々と罵倒されても、文句一つ言えないのです。
 すべての人間が、神さまから『無限の無限の幸せ』を、既に与えられているのです。その真実に気付いている人、気付いていない人、感謝している人、感謝していない人、等の違いはあっても、これは厳然たる真実なのです。この『無限の無限の幸せ』は、一体どこにあるのか? 自分自身でしっかりと見極めてゆく必要があるのです。人間が幸せを与えられているのは、その人間が何か立派な善いことをしたから与えられている、というような条件付きの与えられ方では無いのです。善人にも悪人にも、どんな人にもすべて平等に、無条件で無限の無限の幸せは、既に既に与えられているのです。ああそれなのにそれなのに、まだ『無限の無限の幸せ』に気付かない人が多いのは何故でしょうか? それは謙虚な心で感謝することを怠っているからです。
 人間は神さまに生かされているのです! 愛されているのです! 護り導かれているのです! 只只感謝を深めてゆきさえすればよいのです。それ以外に必要なものがあるでしょうか? 何も無いのです! ありがとうございますと感謝する自分に戻れば、自然に理解できるのです。


64 運命とは信念の投影

2010-11-13 10:00:04 | 日記

 『運命とは信念の投影です』 信念の通りに、運命は形造られてくるのです。今どのような運命が現れていても、自己の運命についての責任は、すべて自分自身にあるのです。幸運も不運も、どちらも自己の信念通りに投影されているのです。他にその責任を転嫁する者は、運命の主人公・支配者・創造者としての、自己の権利を放棄しているのです。それでは運命の奴隷です。奴隷には自由が無いから、自由の無いところに真実の幸せは決して存在しないのです。
 信念とは、過去世から現在にかけて、その人が心に受け入れてきたものの集合体です。明るい・善き・幸せな信念の持ち主は、明るい・善き・幸せな運命を享受することができるのです。暗い・悪しき・不幸せな信念の持ち主は、暗い・悪しき・不幸せな運命を、嫌でも味わうことになるのです。これは宇宙の法則ですから、誰にも破棄することはできないのです。従って幸せな運命を享受したい者は、この法則を幸せになるように正しく活用しなければならないのです。
 宇宙の大神さまは、その全徳を無限の無限の大光明燦然と輝かして、みんなに無限の無限の幸せを、一瞬一瞬その装いを新たにして、与え続けて下さっているのです。これは厳然たる真実なのです。その与え続けて下さっている無限の無限の幸せを、どれだけ心に受け入れるかは、一人一人の自由なのです。心に受け入れた程度に比例して、一人一人の幸せが定まるのです。いつも神さまに心を向けて、感謝し続けている人には、無限の無限の幸せで一杯という運命が、必ず訪れてくるのは当然です。逆に神さまを無視し、神さまへの感謝を怠っている人には、心に幸せを受け入れなかった結果として、不運が訪れてくるのも、これまた理の当然なのです。
 今七難八苦に見舞われ、地獄の責め苦に呻吟しているとしても、それは過去の自分が神さまの愛を心に受け入れなかった結果です。だから自業自得であり、誰の所為でもなく、自分自身に全責任があるのです。自己に全責任があると気付かなければ、運命を好転させることはできないのです。自己に全責任があると気付きさえすれば、後は簡単です。神さまの愛を、神さまの助けを受け入れて、自己の信念を明るい・善き・幸せな信念に修正してもらえばよいのです。
 過去に積み重ねて来た無限とも言えるマイナスの信念を、すっかりプラスの信念に置き換えてもらう為には、神さまへの真剣な感謝の積み重ねが必要です。その感謝の程度に比例して、この世に噴き出して来る大難を小難に、また大難を無難にと修正しながら、運命のひな型である信念を、根本から大きく改善して下さるのです。


62 『神と共に生き、神と共に在る』霊主体従の生き方

2010-11-12 05:18:10 | 日記

 真実の幸せは、『神と共に生き、神と共に在る』時にのみ見出すことができるのです。我欲を捨て、本心の自己を生きる、即ち、"霊主体従"の生き方になった時にのみ、真実の幸せを得ることができるのです。その為には肉体に巣くう我欲煩悩の毒蛇を全滅させ、この肉体を神の住まう荘厳なる宮殿となさなければならないのです。一切の邪念・一切の私心を捨て去り、一切の所有を神にお返しし、『すべてを神の御心のままに』と、自己の生命をも投げ出さなければならないのです。即ち神の御心を実現する為には、どんな艱難辛苦をも厭わず、歓喜して奉仕するという覚悟が要求されるのです。
 人類救済・世界平和の為には、生命を投げうってでも、勇猛邁進するという真剣な心を起こした時に、神の愛・知恵・勇気・力が自己の内から湧き出て来るのです。その時に、『神と共に生き、神と共に在る自分を見出して、無限の無限の幸せで一杯となるのです。
 我欲煩悩をどれだけ満足させても、決して真実の幸せは得られないのです。我欲煩悩の欲求は、どこまでもどこまでもエスカレートして、止まるところを知らないのです。その上に有限のものを奪い合うのですから、その欲求が叶えられることは皆無に近いのです。欲する通りにならなくて、四苦八苦するのが、我欲煩悩の本質です。
 八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)(八大煩悩) を退治しなければ、草薙剣(クサナギノツルギ)(本心)を得ることはできないのです。草薙剣(本心)を天照大御神(宇宙絶対統一神)に奉献しなければ、神我一体とは成り得ないのです。八俣遠呂智を狭き門(祈りの道)に誘い込み、酒(真理のエキス・祈り言葉)を飲ませ、酔わしめて、切断する時に初めて、草薙剣(本心・感謝の心)を手にすることができるのです。その草薙剣(本心・生命)を天照大御神に奉献した時から、『神と共に生き、神と共に在る』自分となるのです。
 須佐之男命(肉体の自分)が、自分の考えで行動している時は、闘争の連続であって、その結果は大混乱の極に達し、世の中を真っ暗闇にしてしまったのです。天照大御神の分身の八百万神の至誠の行事によって、天照大御神(大調和)は再び御出現になり、その時に諭し導かれて、自己の非を深く悟り、大御神に絶対信順しようと一大決心するのです。そして草薙剣を天照大御神に奉献することによって、大御神に対して至忠・至孝・至悌という、絶対奉仕の道を忠実に歩むことになったのです。こうして須佐之男命は天照大御神と一体化して、須佐之男命の一切の行動は、天照大御神の御行動となったのです。ここに天照大御神以外に、須佐之男命を認めることができないことになったのです。
 つまり天照大御神がすべてのすべてとなり、一切は天照大御神の御神業となって、天照大御神の御心のままに、至善至美至妙完全円満完璧大調和の御尊容が出現するのです。