もし地図がそこに有られたら
広げながら見ていただけるとわかりやすい。
泊まった場所は岩手県一関市藤沢町。
そこからまず沿岸部を目指して行くのだが
まず初めに出てくる町は気仙沼市。
あの日甚大な被害を受けたその町を目指す。

突如目の前に表れた船に息子驚愕の様子。
これは正直度肝を抜かれ正に被災の象徴。
思わず息を飲んでしまった2人である。
気仙沼市は宮城県北東部に位置する大きな町。
昨日泊まった辺りは何もないと記載したが、
この街は本当に立派な街であった。
この後、息子と痛感した事が「天国と地獄」
津波が押し寄せてしまった地域と、
逃れた地域の差が余りにも激しい事だ。
気仙沼市でも被災していないところは
普段の生活が成り立っているのだが、
この船が打ち上げられた地域は余りにも惨い。
とはいえ、この周りで逃れたという言葉は、
今、平穏そうに見えるから言えるのであって
実際はあり得ない表現なのかも知れない。

何度となく見たこの車の残骸。
こんな鉄のかたまりの無惨な格好に
思わずため息しか出ない2人。
これこそ聞くと見るとでは大きな違いだ。
国道45号線を北上する。
岩手県と宮城県の県境辺りなのだが、
何度となく小さな集落が流された痕跡を見る。
その度に息子の「あーぁ」と言うため息。
彼なりにいろいろ感じているのだと実感する。
決定的な違いを見たのはその直後である。
奇跡の一本松が見えてきたときである。
余りにも広大な「何も無い」土地が広がる。
壊滅的と聞かされてきた陸前高田市は、
正にその言葉通り、全てを打ち砕き飲み込み、
そして海へとさらっていった様が
今1年4ヶ月経た今でも余りにもよく分かる!

写真を色々撮ったのだけれど、
やはり写真ではその光景は伝えられない。
道路や標識だけが整備されてはいるが、
あとは遙か彼方の山裾まで全てがさらわれている。
この時の息子の一言。
「何も進んでいない・・・」

中学校の余りにも無惨な姿にも
「ここに通っていた生徒は無事だったのだろうか」
色々な思いが交錯しているようであった。

息子の何も進んでいないという言葉。
私も正直そう思うところも沢山あった。
ただ、この上の写真の通り、
電柱だけが道路に沿って立ち並び
ライフラインから復旧しているという
実感は得ることが出来た。
もちろん、この陸前高田市と言うところ、
名古屋市が全面協力をしていると聞く。
名古屋市で企業経営をする者としてそれは誇りに思うし、
職員の人達の努力に敬意は当然表したい。
ただ、この光景を見て、
もっと国がやるべき事があるだろう!と
心を痛めて思うのが普通であるとも思った。
湾岸部から暫く広く続く平地が
思わぬ大きな災害となったで有ろう想像する
この街の痛々しさが何より心に突き刺さった。

僅かに残った鉄筋の建物も、
最上階まで壊滅しているのは恐ろしいこと。

息子が愕然とした野球場のこの景色。
恐らく立派な施設であったろうも、
ずたずたと言って良いほどに崩れていた。
息子がしばし眺めていたその光景が
私には目に焼き付く一駒でもあった。

こんな事で順位をつけるのは失礼だが、
この集合住宅の悲惨さが私は一番苦しかった。
明らかに4階までが水を受け、
全部の部屋が空洞化してしまったこれは、
思わず手を合わせずにはいられないほど、
痛々しい光景であった。
ここから北上は断念し南下仙台を目指す。
再び気仙沼を通り抜け何度となく
小さな街が流されている光景を見る。
改めてだが1年4ヶ月も経ったとは
なかなか思いがたい光景で有るが、
逆に言えば今でもこの様な状態、
当時は想像を絶するものであったのだとも
感じることが出来るのである。

がれきはいたる所で積み上げられている。
分別がされ堆く積み上げられているそれは、
有る意味人間のエネルギーを感じる。

国道45号線と併走する気仙沼線。
こんな橋脚までも一飲みしてしまう
津波の恐ろしさを改めて実感する。
鉄道が走っていたであろう場所を歩くも
とても鉄道が走っていたとは思えぬ光景。
復旧にどれほど時間がかかるのであろうか。

奥に見えるのは駅である。
駅ならば周りには家々があり、
それなりの活気があったのであろうが
その雰囲気すら感じる事が出来ない。
海辺を走るこの45号線。
天気に恵まれたこの日の海は穏やかで、
どこまでも続くその美しいこの海に、
やはり息子も「こんな綺麗な海が・・」と。

再び何もない空間が広がる。南三陸町。
この震災で余りにも有名になったその町。
痛々しいほどの街並みは復旧ほど遠い。

報道で何度となく取り上げられた
南三陸町の防災対策庁舎。
勿論2人並んで手を合わせてきました。

テレビで幾度となく流れた病院も
解体工事が進みつつありました。
早く生まれ変わって欲しいとただただ思います。

やはりここの被災も恐ろしいほどです。
ただこうした被災地に降り立つと、
どこも全てが優しい海の香りがするのです。
きっとその部分だけが唯一
震災前と変わらぬ事なのかも知れません。

観光気分で!と、気分を害された方も
いらっしゃるかも知れません。
被災した気持を理解していない記載だと
怒られる表現があったかも知れません。
ボランティアでもしたらどうだ!と、
不満を感じられた方もいらっしゃるかも知れません。
全部自己満足じゃないか!と
呆れている方もいらっしゃるかも知れません。
でも、どうか個人の記録と寛容に捉えて頂き
何とぞご容赦下さいますようお願いします。
帰りの地下鉄で
「良い経験をさせてくれてありがとう」と
息子に言われ、連れて行って良かった!
と思った今回の2人旅。
1日でも早い復興をただただお祈りします!
広げながら見ていただけるとわかりやすい。
泊まった場所は岩手県一関市藤沢町。
そこからまず沿岸部を目指して行くのだが
まず初めに出てくる町は気仙沼市。
あの日甚大な被害を受けたその町を目指す。

突如目の前に表れた船に息子驚愕の様子。
これは正直度肝を抜かれ正に被災の象徴。
思わず息を飲んでしまった2人である。
気仙沼市は宮城県北東部に位置する大きな町。
昨日泊まった辺りは何もないと記載したが、
この街は本当に立派な街であった。
この後、息子と痛感した事が「天国と地獄」
津波が押し寄せてしまった地域と、
逃れた地域の差が余りにも激しい事だ。
気仙沼市でも被災していないところは
普段の生活が成り立っているのだが、
この船が打ち上げられた地域は余りにも惨い。
とはいえ、この周りで逃れたという言葉は、
今、平穏そうに見えるから言えるのであって
実際はあり得ない表現なのかも知れない。

何度となく見たこの車の残骸。
こんな鉄のかたまりの無惨な格好に
思わずため息しか出ない2人。
これこそ聞くと見るとでは大きな違いだ。
国道45号線を北上する。
岩手県と宮城県の県境辺りなのだが、
何度となく小さな集落が流された痕跡を見る。
その度に息子の「あーぁ」と言うため息。
彼なりにいろいろ感じているのだと実感する。
決定的な違いを見たのはその直後である。
奇跡の一本松が見えてきたときである。
余りにも広大な「何も無い」土地が広がる。
壊滅的と聞かされてきた陸前高田市は、
正にその言葉通り、全てを打ち砕き飲み込み、
そして海へとさらっていった様が
今1年4ヶ月経た今でも余りにもよく分かる!

写真を色々撮ったのだけれど、
やはり写真ではその光景は伝えられない。
道路や標識だけが整備されてはいるが、
あとは遙か彼方の山裾まで全てがさらわれている。
この時の息子の一言。
「何も進んでいない・・・」

中学校の余りにも無惨な姿にも
「ここに通っていた生徒は無事だったのだろうか」
色々な思いが交錯しているようであった。

息子の何も進んでいないという言葉。
私も正直そう思うところも沢山あった。
ただ、この上の写真の通り、
電柱だけが道路に沿って立ち並び
ライフラインから復旧しているという
実感は得ることが出来た。
もちろん、この陸前高田市と言うところ、
名古屋市が全面協力をしていると聞く。
名古屋市で企業経営をする者としてそれは誇りに思うし、
職員の人達の努力に敬意は当然表したい。
ただ、この光景を見て、
もっと国がやるべき事があるだろう!と
心を痛めて思うのが普通であるとも思った。
湾岸部から暫く広く続く平地が
思わぬ大きな災害となったで有ろう想像する
この街の痛々しさが何より心に突き刺さった。

僅かに残った鉄筋の建物も、
最上階まで壊滅しているのは恐ろしいこと。

息子が愕然とした野球場のこの景色。
恐らく立派な施設であったろうも、
ずたずたと言って良いほどに崩れていた。
息子がしばし眺めていたその光景が
私には目に焼き付く一駒でもあった。

こんな事で順位をつけるのは失礼だが、
この集合住宅の悲惨さが私は一番苦しかった。
明らかに4階までが水を受け、
全部の部屋が空洞化してしまったこれは、
思わず手を合わせずにはいられないほど、
痛々しい光景であった。
ここから北上は断念し南下仙台を目指す。
再び気仙沼を通り抜け何度となく
小さな街が流されている光景を見る。
改めてだが1年4ヶ月も経ったとは
なかなか思いがたい光景で有るが、
逆に言えば今でもこの様な状態、
当時は想像を絶するものであったのだとも
感じることが出来るのである。

がれきはいたる所で積み上げられている。
分別がされ堆く積み上げられているそれは、
有る意味人間のエネルギーを感じる。

国道45号線と併走する気仙沼線。
こんな橋脚までも一飲みしてしまう
津波の恐ろしさを改めて実感する。
鉄道が走っていたであろう場所を歩くも
とても鉄道が走っていたとは思えぬ光景。
復旧にどれほど時間がかかるのであろうか。

奥に見えるのは駅である。
駅ならば周りには家々があり、
それなりの活気があったのであろうが
その雰囲気すら感じる事が出来ない。
海辺を走るこの45号線。
天気に恵まれたこの日の海は穏やかで、
どこまでも続くその美しいこの海に、
やはり息子も「こんな綺麗な海が・・」と。

再び何もない空間が広がる。南三陸町。
この震災で余りにも有名になったその町。
痛々しいほどの街並みは復旧ほど遠い。

報道で何度となく取り上げられた
南三陸町の防災対策庁舎。
勿論2人並んで手を合わせてきました。

テレビで幾度となく流れた病院も
解体工事が進みつつありました。
早く生まれ変わって欲しいとただただ思います。

やはりここの被災も恐ろしいほどです。
ただこうした被災地に降り立つと、
どこも全てが優しい海の香りがするのです。
きっとその部分だけが唯一
震災前と変わらぬ事なのかも知れません。

観光気分で!と、気分を害された方も
いらっしゃるかも知れません。
被災した気持を理解していない記載だと
怒られる表現があったかも知れません。
ボランティアでもしたらどうだ!と、
不満を感じられた方もいらっしゃるかも知れません。
全部自己満足じゃないか!と
呆れている方もいらっしゃるかも知れません。
でも、どうか個人の記録と寛容に捉えて頂き
何とぞご容赦下さいますようお願いします。
帰りの地下鉄で
「良い経験をさせてくれてありがとう」と
息子に言われ、連れて行って良かった!
と思った今回の2人旅。
1日でも早い復興をただただお祈りします!
この言葉ですべてを表せますね。(^-^)
なったことと思います。
私自身もいろいろな意味で良い経験でありました。
そうであってくれることを願いたいです!
読ませていただき、ありがとうございました。
愚息も南三陸町で、震災後初めて収穫できたワカメの出荷準備のボランティアをさせていただきました。
秋口に帰省する際、今回は列車にする、と連絡が来ましたので、多分立ち寄ってくるのではないかと思っています。
細かいことは全く言わない息子ですが、他人様のお世話になり、顔付きが多少でもかわっていれば、親としてこんなにありがたいことはありません。
あおやき家の男旅、かっこいいです!
南三陸は本当に大きな被害を受けておられました。
明らかにうちの坊主も色々考えさせられたと思います。
息子君、素晴らしいことですよ!
きっと一回りも二回りも大きくなって帰省されるのでは?
楽しみですね!
ドンドン情報が少なくなってきている今。
このような写真やコメントは改めて向き合うきっかけになります。ありがとうございます。
まだまだ応援が必要ですよね。
自分たちに出来ること、今一歩、二歩でも三歩でも踏み出して、支援していきたいですね。
本当に忘れ去っていってしまうことが
一番良くないことですよね。
全く進んでいない部分もあって、
やはりそうであってはいけないと思います。
被害の範囲がこんなに広いというのは
行かないととても分からないことでした。
少しでも早い復興を祈ります。