☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
女の子は女の大人になるし、男の子は男の大人になるが、それはかなり「面白い試み」にちがいなく、
それだけでよいのであって、父はべつにお前達二人が姉弟だなどということを教えているのではない。
「親」というものが女の子を生んだのに、それが男になったりするほうが面白いのであって、親子の
関係がそんなふうにだんだんなくなり、夫婦関係や恋愛もそうなっていくのはよいことだ。
「相手がいやになつたら注射一本かなんかで相手と同性になればそれまでのこと、お前達は自由に
女にも男にもなれるのだ」
『二列目の人生 隠れた異才たち』池内紀(2008)集英社より
現在、日本では成人年齢が18才になっています。
成人であれば、保護者の了承がなくても法的な手続きをとることができ、事実上一人前の大人として扱われることになっています。
私が学生の時には成人年齢は20歳でしたが、成人式が過ぎても学生のうちはまだまだ子供。社会に出て働き始めてからやっと一人前だという考え方が普通だったような気がします。
「成人である」ということが、社会で行動する時にどれくらい自分を助けてくれるかは人にもよりますし、はっきり分かりませんが、少なくとも、大学受験の年である18才の時に未成年であり、保護者である親の意向に逆らうことができず、周囲の人々もそれを是とする環境で努力せざるを得なかった私自身の経験からすると、今はだいぶ生きやすい社会になっているのかもしれません。
「親にとって子どもはいくつになっても子ども」という考えがありますが、いつまでも変わらない環境を好む人がいます。
親子関係、兄弟関係、師弟関係、学校や職場での上下関係。そういった立場をいつまでも保とうとする人たちがいます。
しかし、子どもはいつか大人になり、弟もまた兄と同じく社会人として自分の人生を歩き始めるのです。
「親にとってこどもは―」という言葉は微笑ましくもあり、ある種狂気のようなものも、私は感じます。
私の父は昔から「親は親だから偉い。子どもは口ごたえせずに親に従うもの」という持論があり、たとえ自分が間違っても決して謝ることはありませんし、あまつさえ他人に責任を擦り付けたり、後始末を押し付けたりしていました。
その理不尽で不誠実な態度は今でも根本的に変わることはありません。
一人暮らしできる経済力がない私は、仕方なく実家で父と同居していますが、日常的に目につく父のそんな言動に対しては、なるべく見ないように、聞かないように、いわゆるスルーして過ごしています。
しかし、実家から出て別に所帯を構えている兄が久しぶりに父に会い、相変わらずの父の身勝手な振る舞いを見るとイライラするのか、大声で怒鳴りつけたりして、たちまち修羅場になります。
そんな兄のことを父は発達障害だと言いますが、父自身が理屈ではなくただ大声で子どもたちを怒鳴りつけ、時には叩いたり突き飛ばすなどの暴力をもって子育てをしたのだから、兄が暴力的な解決策しか学習していないのは当然のことではないでしょうか。
大人になった兄は、父と同様に相手を大声で怒鳴りつけることしかできないのです。
それは、発達障害ではなく、父の教育の賜物だと思います。
親が自分自身の失敗に対して、妻や子どもを怒鳴りつけることで有耶無耶にし、責任をとらず、反省もせず、それで上手くやっている姿を見て育てば、自分もそうして良いのだと学習してしまう子どもだっているでしょう。
一方で、私のようにそれは間違いだと思い、そのような行動をとらないようにしよう、あるいは父のような人間にはなりたくないと思う子どももいるということなのです。
一つの教育法で、すべての人間を同じように育てられるわけではありません。
私の家族の場合、兄は父の悪い部分を習得した大人となり、父は昔と変わらぬまま、子どもが大人になったことを理解できない「親」であり続けているのです。
30歳くらいの頃、私は人は変われるものだと信じていました。
というのも、私自身がそれまでの人生で、いろんな人に出会い、いろんな経験をし、いろんな教訓を得て、考え方や生き方を変えてきたので、他の人も同じだろうと思っていたのです。
しかし、40代になった今は、何があっても変わらない人は変わらないのだということを知っています。
実際に、そういう人たちを目の当たりにしたからです。
誰も他人の生き方を変えることはできません。それは家族間においてもです。
自分から変わりたい、変わろうと思わない限り、人は変わらないのです。
そして、自分を変えることなく、相手を変えたいと思っている人間が、この世には少なくないということも事実です。
自分を大切にするということは、そういう類の人間が土足で入り込んで来ないように、自分の心を守るということだと思います。
「自由に女にも男にもなれる」というのは、今話題のLGBTにおける性転換の話ではなく、誰でも男の視点にたって、あるいは女の視点にたって、相手の立場にたって、物事を考えることができるという意味なのではないでしょうか。
親子間でも夫婦間でも、そんなふうに考えられたら、その関係性は良いものになるのかもしれません。
ヒトコトリのコトノハ vol.69
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●本日のコトノハ●
女の子は女の大人になるし、男の子は男の大人になるが、それはかなり「面白い試み」にちがいなく、
それだけでよいのであって、父はべつにお前達二人が姉弟だなどということを教えているのではない。
「親」というものが女の子を生んだのに、それが男になったりするほうが面白いのであって、親子の
関係がそんなふうにだんだんなくなり、夫婦関係や恋愛もそうなっていくのはよいことだ。
「相手がいやになつたら注射一本かなんかで相手と同性になればそれまでのこと、お前達は自由に
女にも男にもなれるのだ」
『二列目の人生 隠れた異才たち』池内紀(2008)集英社より
現在、日本では成人年齢が18才になっています。
成人であれば、保護者の了承がなくても法的な手続きをとることができ、事実上一人前の大人として扱われることになっています。
私が学生の時には成人年齢は20歳でしたが、成人式が過ぎても学生のうちはまだまだ子供。社会に出て働き始めてからやっと一人前だという考え方が普通だったような気がします。
「成人である」ということが、社会で行動する時にどれくらい自分を助けてくれるかは人にもよりますし、はっきり分かりませんが、少なくとも、大学受験の年である18才の時に未成年であり、保護者である親の意向に逆らうことができず、周囲の人々もそれを是とする環境で努力せざるを得なかった私自身の経験からすると、今はだいぶ生きやすい社会になっているのかもしれません。
「親にとって子どもはいくつになっても子ども」という考えがありますが、いつまでも変わらない環境を好む人がいます。
親子関係、兄弟関係、師弟関係、学校や職場での上下関係。そういった立場をいつまでも保とうとする人たちがいます。
しかし、子どもはいつか大人になり、弟もまた兄と同じく社会人として自分の人生を歩き始めるのです。
「親にとってこどもは―」という言葉は微笑ましくもあり、ある種狂気のようなものも、私は感じます。
私の父は昔から「親は親だから偉い。子どもは口ごたえせずに親に従うもの」という持論があり、たとえ自分が間違っても決して謝ることはありませんし、あまつさえ他人に責任を擦り付けたり、後始末を押し付けたりしていました。
その理不尽で不誠実な態度は今でも根本的に変わることはありません。
一人暮らしできる経済力がない私は、仕方なく実家で父と同居していますが、日常的に目につく父のそんな言動に対しては、なるべく見ないように、聞かないように、いわゆるスルーして過ごしています。
しかし、実家から出て別に所帯を構えている兄が久しぶりに父に会い、相変わらずの父の身勝手な振る舞いを見るとイライラするのか、大声で怒鳴りつけたりして、たちまち修羅場になります。
そんな兄のことを父は発達障害だと言いますが、父自身が理屈ではなくただ大声で子どもたちを怒鳴りつけ、時には叩いたり突き飛ばすなどの暴力をもって子育てをしたのだから、兄が暴力的な解決策しか学習していないのは当然のことではないでしょうか。
大人になった兄は、父と同様に相手を大声で怒鳴りつけることしかできないのです。
それは、発達障害ではなく、父の教育の賜物だと思います。
親が自分自身の失敗に対して、妻や子どもを怒鳴りつけることで有耶無耶にし、責任をとらず、反省もせず、それで上手くやっている姿を見て育てば、自分もそうして良いのだと学習してしまう子どもだっているでしょう。
一方で、私のようにそれは間違いだと思い、そのような行動をとらないようにしよう、あるいは父のような人間にはなりたくないと思う子どももいるということなのです。
一つの教育法で、すべての人間を同じように育てられるわけではありません。
私の家族の場合、兄は父の悪い部分を習得した大人となり、父は昔と変わらぬまま、子どもが大人になったことを理解できない「親」であり続けているのです。
30歳くらいの頃、私は人は変われるものだと信じていました。
というのも、私自身がそれまでの人生で、いろんな人に出会い、いろんな経験をし、いろんな教訓を得て、考え方や生き方を変えてきたので、他の人も同じだろうと思っていたのです。
しかし、40代になった今は、何があっても変わらない人は変わらないのだということを知っています。
実際に、そういう人たちを目の当たりにしたからです。
誰も他人の生き方を変えることはできません。それは家族間においてもです。
自分から変わりたい、変わろうと思わない限り、人は変わらないのです。
そして、自分を変えることなく、相手を変えたいと思っている人間が、この世には少なくないということも事実です。
自分を大切にするということは、そういう類の人間が土足で入り込んで来ないように、自分の心を守るということだと思います。
「自由に女にも男にもなれる」というのは、今話題のLGBTにおける性転換の話ではなく、誰でも男の視点にたって、あるいは女の視点にたって、相手の立場にたって、物事を考えることができるという意味なのではないでしょうか。
親子間でも夫婦間でも、そんなふうに考えられたら、その関係性は良いものになるのかもしれません。
ヒトコトリのコトノハ vol.69
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