その時歴史は始まった

歴史を勉強しながら古代からたどりたいと思います。

ムイ文明

2009-09-17 00:12:18 | Weblog
現生人類のルーツは9万年前頃に紅海を渡り、海岸線沿いに移動し、

8~7万年前頃にはスンダランドから東アジアに到達します。

彼らがモンゴロイドを形成します。

モンゴロイドは、北方に移動する人々と、スンダランドに留まる人々に分かれ、

それぞれの気候・風土に合わせて適応します。

スンダランドは、現在のビルマの一部、タイ、カンボ ジア、マレーシア、

ベトナム、及び、スマトラ島、カリマ ンタン島、ジャワ島、パラワン島にまた

がり、全域が地続きの巨大陸塊を形成しており、全域が熱帯、亜熱帯に属し、

当時地球上で最も動植物の種類と数に恵まれていました。

更新世の人類はあらかたが狩猟採集生活を営んでいましたので、原ポリネシア族

やネグリト族・ドラヴィダ族・メラネシア族、さらにはアボリジニーや

モンゴロイド系諸部族、寒冷化が最も進行した氷河期の末期には、セム族・

インドヨーロッパ系部族までがこの地で生活していました。民族間の接触も盛ん

で、BC3万年期からBC2万年期までは世界で最も先進的な地域でした。

スンダランドは鉱物資源にも恵まれていて、金、銀 、銅の露出している鉱脈が

いたるところにありました。 山火事等による自然融解した金、銀、銅を発見

することによって、ある種族はこれらの金属の道具としての使用を思い立ちま

した。当初は祭具や族長のアクセサリーに使用されていましたが、供給が多く

なるにつれて、鏃や釣り針など生活道具に使用され、後にはナイフや鏡等も作

られるようになりました。 

鉱石を溶かして玉状にした銅をまだ柔らかい内に平たく延ばして、

後は砂や木の実などで研磨し銅鏡 が作られました。

この銅鏡製造の技法は物々交換などでスンダランド の多くの部族に広まりました。

琉球諸島に渡ったネグリト族もこの技法を持っていました。

彼らは銅鏡を太陽の化身と考え、御神体として祭っていました。

しかし、気象変動の度ごと、ユーラシア大陸に住んでいた様々な民族が

スンダランドに大規模な流入がある度ごとに、体力の劣るネグリト族は他民族の

圧力に屈する形で流出していきました。

元々彼らはカヌーによる漁労を生業としてい たので、外圧がなくても魚群を

求めて移住する習慣がありました。

彼らネグリト系の太陽祭祀族はBC2万年前後の最後の大移動で東シナ海沿岸に

やって来ました。 東シナ大陸の銅はスンダランドとの交易でもたらされました。

北方のシベリア大陸を起源とするモンゴロイドアスカ人の一部がBC20000

年期、気候の寒冷化に伴い、南下する巨大獣を追って移動し、中国大陸に到達

しました。彼らの特徴は顔の彫りが深く毛深い。血液型はO型が多くずんぐり

した体型をしていました 。

中国大陸部に進入した当初、アスカ人は尖頭器文化に代表される後期旧石器時代

の文化を有していましたが、BC19000年期になると、細石器文化に至り、

中石器時代を迎えました。

この頃になると、西方の民族との接触により遊牧の技術を獲得し、食生活も安定

してきました。当時、極地に存在した巨大な氷層のために海面は現在よりも

120メートルほど低く、

東シナ海・黄海の大陸棚は半分以上が陸塊でした。(東シナ海大陸)

原始的な狩猟採集と遊牧生活を送っていたアスカ人が急速に文明化した最大の要因は、

稲を発見し その栽培法を確立したことによりました。

現在水没している東シナ海大陸棚には、当時至るところに湿原があり、そこには

ジャポニカ種の稲が自生していました。

稲の発見はアスカ人に人口の急増と、村落の形成をもたらしました。

人口が多くなると、水利をめぐる同族間の争い、北方異民族や山岳部族の侵入、

当時多数生息していた虎や狼などの猛獣による被害などのために、彼らが文明を

築くゆとりは生じませんでした。

そういう事情で定住をあきらめたその内の東方の沿岸部にいた部族は

BC18000年期になると、、対岸の琉球諸島に移住しました。 

その部族をムイ族といいました。 

奄美大島、沖縄本島、宮古島、石垣島の四島は現在よりも3倍から10倍の面積を

持つ大島でした。さらに沖縄本島、宮古島間にも大島が存在しました。

当時の沖縄地方の総面積は現在の6倍弱の18000平方キロメートルもありました。

琉球諸島に移住したムイ族は、BC16000年期、 その地で文字を発明し、

アスカ文明に先行する世界最古の文明【ムイ文明】を確立しました。

ムイ族が世界最先端の文明を持つことが可能だったのは、琉球諸島が地理的条件に

恵まれていたおかげです。

琉球諸島は、海洋性の気候のため年間を通じて気候も温暖で、台風の襲来に悩まさ

れることもありましたが、そのおかげで水不足に陥ることが少なかったのです。

北朝イスラエルVS南朝ユダ猿田彦

2008-08-15 20:08:56 | Weblog
第一回目天孫降臨 ユダヤ南朝系ガド族+イッサカル族+ゼブルン族

BC213年、秦始皇帝による焚書坑儒により、孔子・孟子の子孫、ガド族は、

イスラエル北朝系からユダヤ南朝系に転身して

燕王公孫氏(南朝系イッサカル族)の一部勢力と連合して

BC90年頃から移動再開。

焚書坑儒・・・秦の始皇帝が行った、主として儒家に対する思想言論弾圧。民間にあった医薬・卜筮(ぼくぜい)・農事などの実用書以外の書物を焼き捨て、翌年、始皇帝に批判的な学者約460人を坑(あな)に埋めて殺したといわれる。転じて、学問や思想に対する弾圧をいう。秦始皇帝は、シメオン族のディオドトス、自分のユダヤの血を隠すために、歴史改竄し真実を知る人々を殺害していった。その延長として劉邦以下の漢王室の王たちも司馬遷に【史記】を創作させ戒めに司馬遷を宮刑させた。


BC86年、ガド族猿田彦の下にイッサカル族、ゼブルン族が結集し、一行は朝鮮半島を南下して対馬に至り【高天原】と称し、天照神社を祀り、対馬高天原から船出して糸島半島へ移動して吉武高木に【旧伊勢国】を建てます。初代猿田彦命が肺結核で病死した吉武高木に【旧伊勢国】を建てます。初代猿田彦命が肺結核で病死した後は吉武高木に【旧伊勢国】を建てます。初代猿田彦命が肺結核で病死した後は
イッサカル族出身の王妃が女王となって王権を継ぎ、かなり長く君臨しました。

二代目猿田彦(ガド族)は平原に王宮を移し、【記紀】に出てくる“前の君”と呼ばれました。

猿田彦二世はイスラエル神(バアル神)を祀る太陽神殿(天照大神を祀る日代宮)を平原王墓(遺跡)に築き、八咫鏡ほか神鏡・鉄剣・勾玉などの【三種神器】を奉納しました。

彼は、この最新式な青銅器文化を持って九州一円に進出し、先住のシュメール人・苗族・港川人らを支配下に置いてきました。

BC74年頃、朝鮮の秦韓(慶洲)にいたユダヤ人亡命集団6部族が移動を始め

対馬高天原経由で九州有明海の鳥栖に上陸し、博多に倭奴国を建て、その勢力を

吉野ヶ里の地まで拡大しました。そのことをフェニキア人(海人族)から伝え聞いた

秦王率いる苗族らも合流して、秦韓シメオン族々長・大国主命を推戴して倭奴国としました。

この時、別働隊として日本海側の福島県敦賀に上陸し、滋賀県を経て奈良に入った大国主命の弟のグループがありました。

また、大国主命の父親は、佐賀県に上陸した後、別の先遺隊を率いて再び乗船しいち早く先駆けとして奈良盆地に到着しています。こうして奈良盆地の大和にユダヤ人亡命者のコロニーが初めて作られました。



第三回目の【天孫降臨】ユダヤ人ガド族3百人

ユダヤ人亡命集団ガド族三百人が対馬高天原から船出して、利根川下流域の霞ヶ浦=衣河流海(茨城県)に渡来しました。彼らは鹿島灘にある明石海岸の大鳥居近くに上陸して椿神社(祭神は猿田彦命)を建て、猿田(猿田彦命の兄弟に因んだ地名)などにコロニーを作りました。そしてこの地を聖地として【常陸の高天原】と称するようになりました。

BC30年頃、続いてゼブルン族4百人が薩摩半島から渡来し、鹿島灘周辺に上陸しました。この時、天津甕星(あまつみかほし)らは常陸の大甕などにも移住しています。


イエス・キリスト日本渡来

BC34年、イエス・キリスト(37歳)が【日本への布教】を立志し、同族ゼブルン族50人と共にインドを船出、安南のオケオ港経由で東日流十三港(つがるとさみなと・古代の大貿易港)に上陸しました。一行は、津軽→鹿島→熊野→伊勢のユダヤ人コロニーと移動しながら布教活動を続けていましたが、イエス・キリスト本人が結核に侵され、津軽戸来(へらい・新郷村)の沢口家に於いて59歳で亡くなりました。



(高句麗国の建国)

インド十六王朝時代の釈迦族の後裔、製鉄部族、宛の徐氏が北扶余後期王朝の穢王となってその前期王朝の扶余族・ウガヤ王朝と争い、結果BC37年に始祖王朱蒙(東明聖王)によって卒本に高句麗が建国されました。

(穢王一族、熊本に【多婆羅国】を建てる)

紀元一年、その高句麗にいた北扶余の穢王一族が、穢族の一部を率いて亡命し日本海沿いに南下して対馬経由で北九州博多に上陸しました。彼らは既存勢力の旧伊勢国や大国主命の倭奴国に遠慮して一旦阿蘇山系にコロニーを作りましたが、族長の陝父らはさらに下って熊本に多婆羅国を建てました。この多婆羅国は、この後、朝鮮半島南部に逆上陸して分国の多羅国を建てますがその建国を担ったのは扶余族のウラルトゥ人(ウガヤ王朝系の人々)で、この多羅国が成長して百済国となり後に百済国初代王神武の系譜が現在の天皇につながっていきます。

【倭の大乱】

147年、後漢に圧された高句麗(北倭人)が倭奴国(ユダヤ人)および東表国(南倭人)を攻撃しました。当時の東表国(エブス王朝)は、朝鮮半島の金官加羅国とワンセットの文化圏とする海人族の千年続く【天の王朝】で、倭奴国は、その同盟国でした。その時、東表国エビス王は海部知男命でしたが、これより高句麗と敵対関係になり東アジアの覇権を競う東夷諸族の争い=【倭の大乱】が始りました。



163年、東表国エビス王海部知男命は、シメオン族倭奴国大国主命と連合して高句麗と同盟していたガド族猿田彦らの旧伊勢国を攻撃し、その首都吉武高木・平原遺跡および太陽神殿を破壊して古墳内の超大型青銅鏡を悉く破砕しました。

この時、秦始皇帝の末裔・大国主命が率いるシメオン族の兵士ら30名の攻撃部隊は、あらかじめ用意した20丁の鉄斧ですべての神鏡を徹底的に割ってしまいました。

大化の改新はなかった!

2008-08-12 16:23:30 | Weblog
663年8月末、白村江の戦が起こり、日本軍
(倭国・秦王国・荒吐五王国/三国の連合水軍)

3万人が唐40万人・新羅5万人の連合軍に敗北しました。

その結果、日本の三大勢力圏は全て唐・新羅連合軍に占領され、

倭人の国々は中国人および朝鮮人の植民地にされました。

664年5月、唐の鎮将・劉仁軌が率いる4千人および新羅の

鎮将・金ユ信が率いる4千人の占領軍が九州の倭国へ侵入しています。

彼らは大宰府に筑紫都督府を構え、日本列島への占領軍政を開始します。

こうして秦王国の近畿地方にも新羅軍多武峰の花郎軍団が進出しました。

668年、唐・新羅連合軍は漢城(平壌)を陥し、高句麗を滅亡させますが、

670年6月に、唐軍は復興した高句麗軍と再び衝突したのを機に朝鮮半島

全体の征服をもくろみ新羅と対立するようになります。

672年、新羅は唐との協定を破り、百済の熊津(ゆうしん)都督府を

陥落させました。

その結果、百済の王侯・武士・軍属らの4万人が雪崩を打って九州倭国

へ亡命しました。そして、同年672年、新羅占領軍に対する秦王国の戦、

即ち近江の【壬申の乱】が起こりました。

これを【日本書紀】は、「弘文元年六月、壬申の乱が起こった。大海人皇子、

大友皇子を近江に滅ぼす。翌天武元年二月、大海人皇子、飛鳥浄御原宮に

即位して天武天皇となる」と記します。

ですが、その実態は、秦王国に於ける【壬申の乱】のことでした。この乱の

首謀者大友皇子は【日本書記】によって百済王豊璋(天智天皇のモデル)の

子とされていますが、実は東漢氏(やまとのあやし・ユダヤ・レビ族)出身

の秦王国最期の天子でした。この天子の指揮を受けた秦王国軍は、侵入して

きた新羅軍(源花・郭務ソウが率いる花郎軍団)と一ヶ月も勇敢に戦いま

した。この時、大王家に忠誠心が強かった蘇我氏の一族は、この王と最期

まで運命を共にしましたが、秦氏およびシメオン族らの諸部族が花郎たちの

統率力を見てこの戦の無意味さを悟り、一斉に寝返って新羅軍に降服した

ため、王家の軍は孤立して総崩れとなったのです。これより以降、秦王国

の豪族たちは新羅側の軍政に協力していくようになったのです。

そのため、機織部の秦氏およびユダヤ・ダン族のグループは敗北し、雪崩を

打って秦王国の分国地・関東地方へ逃亡しました。やがて彼らは、鹿島神宮

や静神社の機織部領域付近、蘇我、行徳および秦野付近などに散居して逼塞

しました。

ところが後に【国史】は、この経緯を時代をずらして【蘇我入鹿暗殺】

事件とし、秦王に忠誠であった蘇我氏一族が滅んだように修史しました。

さらに秦王国の滅亡を、時期を遡らせて皇極天皇の御世の出来事とし、

中大兄皇子と中臣鎌足を登場させるという架空の【大化の改新】劇を創作

したのです。その事件は、占領軍新羅の本国の史実【ヒ曇の乱】をモデル

にしたものでした。

日本 10

2006-01-30 20:33:10 | Weblog
古代から数多くの氏族が権力を握っては滅びていった栄枯盛衰の歴史の中で綿々と皇室と根強いパイプを持ち続けている一族が「秦」の一族。遥か古代イスラエルをルーツに海から陸から日本にやってきた渡来人の多くを占めていたのはこの人々だった。灌漑技術、土木技術、建築技術、冶金技術、農業技術、統治能力、貯蓄能力、交易能力、職工能力を持った秦氏は、その中で大きな比重を占めていたのは養蚕、機織の技術であり、秦氏の富の源泉の一つでもあり、秦氏のハタは機織のハタで京都の太秦には蚕野社である木島神社がある。秦氏こそ「絹の道」、シルクロードの支配者であった。秦氏はその財力、知力、権謀術数で、あるときは百済勢力、あるときは新羅勢力、あるときは高句麗勢力をバックアップし、常に権力に近い位置を占めていたのである。対立する二つの勢力のバックにいて、どちらが勝っても権力者の勢力に付くことが出来た。今でも皇室関係者の中に数多く存在して宮内庁式部職楽部はその典型。今を時めく東儀秀樹氏の祖は秦河勝。秦河勝といえば聖徳太子の名プロデューサーとして知られている秦の首領。聖徳太子は実在していないから、総ての偉業は秦河勝が成したのだろう。彼が編纂したとする「先代旧事本記」について書いてある本を読んだことがあるが(本物は神代文字で書かれている)七十二巻もあるという学問書には、地球だけに止まらず宇宙の全ての叡智が書かれている。崇高で高度な内容は驚くばかりだ。 現代数学も物理も超越している。「五鎮三部」という理で森羅万象を解き明かし、陰陽の循環、人間誕生の神秘、五臓六腑のできる順番からDNA遺伝子まで書かれ、知恵と気の流れ天の巡りを把握して活かすオンリーワンの方法。

日本 9

2006-01-30 20:29:45 | Weblog
234年神武死後、再度倭の大乱起き、神武の妻、卑弥呼(公孫度の娘・ユダヤ人)を共立して邪馬台国を建て、公孫度が建国の日向・西都原を都とし統治す。一方東表国は洛東江流域に金官伽羅を造り朝鮮半島と九州を支配するが356年、その王族の奈勿王が独立して新羅を建てた。その新羅と安羅(公孫系)の挟撃によって金官加羅は滅ぼされ、安羅が加羅国を併合して新しい倭国を造り、新羅と対立するようになる。その後は、朝鮮半島と日本列島の支配権を巡って、高句麗(穢族系)、新羅、百済、倭国が争い、・唐の援助を得た新羅が、まず百済を滅ぼした。倭国は、その百済を復興させるために軍隊を派遣し、白村江の戦いになる。倭国を破った唐・新羅連合軍は、勢いに乗って一気に九州へと攻め込み、大宰府に筑紫都督府【占領軍】、GHQのようなもの】を構えて倭国を占領する態勢に入った。668年新羅は唐と協力して宿敵・高句麗を滅ぼすと、672年唐の熊津都督府行政官となっていた百済王・隆の軍を破り倭国へと追放した。この一連の事件が「壬申の乱」で大海皇子と大友皇子のことはフィクション。この壬申の乱後、倭国に進駐していた新羅王族たちは九州の倭国と大和の秦王国を合わせて、近畿地方に「日本国」を建国した。その後、縄文時代からの先王朝=天の王朝の歴史が抹殺され新羅天皇が有史以来続いてきたとする「日本紀」が作られ唐へ提出された。676年に新羅は唐を破り、唐は熊津都護府と安東都護府を遼東に撤退し朝鮮半島への進出を断念。日本をも支配下に治めた統一新羅が誕生し新羅王を天皇とした。が、後に報復した百済派の道教系天皇が秦氏の協力を得て「日本紀」を下敷きに度々、改竄して出来上がったのが「日本書紀」それに合わせて「古事記」も作られ、百済王たちが天皇になるように謀った。「日出ずる国の書」は、聖徳太子とは関係なく秦王国の国王アマタリシヒコが出したものであり、これが中国文帝開王の怒りを買ったのである。中国史料との整合性のために架空の人物にキリストの誕生説話を加えて聖徳太子像ができた。蘇我氏と物部氏の争いも実際は朝鮮南部における新羅と百済の抗争を両者の宗教抗争に表現したもの。「大化の改新」も海向こうの朝鮮半島の新羅で起こった事件を准えたものだった。天智天皇は新羅武烈王・金春秋がモデル、天武天皇は蓋蘇文。【金ヒ信、郭務綜棕】をミックスしたのが藤原鎌足とし、藤原氏の族祖とした。彼等はユダヤ系レビ族やヒッタイトであった。武士の起源は熊本に【多婆羅国】を造った徐福の子孫ニギハヤギの兵団(シュメールの祭祀官または書記)が分裂して一つはサンカの道を選び、もう一つは源平武士団に転じた。

日本 8

2006-01-26 08:29:34 | Weblog
扶余王・仇台(神武)は公孫度(ユダヤ人イッサカル人・卑弥呼の父)と連合して遼西(北京周辺)にいたが、魏の勢力に押されて帯方郡に逃れ百済国(馬韓を統一)を建て百済王・九首になった。さらに南下して214年博多近辺に「伊都国」を建て、後に神武天皇といわれる人物になる。一方公孫度も日向に投馬国を建てた。この両者は163年に「旧伊勢国」猿田彦(ユダヤ北朝系ガド族)の仇討ちを兼ね、北朝系シメオン族を押さえ込むために同盟を結んで、神武は背振山方面から、公孫康(公孫度の子)は南方の有明海から倭奴国の吉野ヶ里を挟撃した。これを受けて数年間も戦い続けた倭奴国の人達は、倭奴国王・大国主命(北朝シメオン族々長)が遠矢に当たって戦死したため、急速に戦う意欲を喪失し、出雲に逃れ、先住していた銅鐸文化のガド族を駆逐して新しい出雲王朝を建て、大社に大国主命を祀った。出雲王朝は「日ノ本」ともいわれたが、大和から北へ追われた人々は蝦夷になった。余談だが、松本清張の「砂の器」、舞台となった出雲の亀嵩の言葉は、東北弁に似ている。出雲の人々が津軽に逃れたというスサノオ伝説が推理の謎解きに使われていた。清張は古代史研究家だった。神武と公孫度イッサカル族連合軍による「北朝系倭奴国」への攻撃が163年の「旧伊勢国」ガド族消滅への報復であったとすれば、前一〇世紀に始まったユダヤ南北朝の争いは、約1000年を経て遥か東洋に舞台を移し、古墳時代早期の日本列島において再現されたことになる。これより現在まで、ずっと天皇家を中心とする権力者同士の争いが連綿と続いた。213年、神武は北倭(遼東にいた倭人)を率い、公孫度と連合して、さらに南下し、熊襲(多羅婆国・ニギハヤヒ(サンカ)軍団と戦い、一旦は敗北したものの、東表国エビス王(安日彦)の仲裁で和睦することになった。神武の伊都国と陜父や穢族らの多婆羅国は合体になった。この一連の戦いが「倭の大乱」という。大国主命と神武東征の話は、「国譲り神話」として地方の神楽に今も残る。

日本 7

2006-01-25 09:11:36 | Weblog
秦王国滅亡後のユダヤ・シメオン族亡命者ら(「失われた10支族の内8支族も同行。朝鮮史に書かれている「いにしえの亡命人、秦役(滅亡時の混乱)を避けて韓国へ来たる。馬韓、東界の地を割いて与え、辰韓とす」「その人形皆大で、衣服清潔、また宏巾細布を作る」「言語風俗異り」「鉄を出す」の記事に該当する人達)が東表国(宇佐八幡)から背振山脈一帯(佐賀県)を割譲されると対馬を経て北九州へ移動し鳥栖と吉野ヶ里にクニを建てると南越(現在のタイ・バンチェン文明国【鉄文化】)の秦王が率いる苗族たちも漢に滅ぼされた為、合流してきて、シメオン族の族長大国主命を推大して倭奴国王とした。やがて1世紀になると、先遣隊の対馬にいた奴国・猿田彦(ユダヤ北朝系ガド族)と連合して銅鐸と前方後円墳文化を伴う弥生農業の拡散に努力しながら北九州糸島半島に伊勢国(秦王国・イスラエル人の王国)を建てた。 AC1年、遼東にいた北扶余穢王一族(徐福の子孫)の知将、陜父が高句麗から亡命し南下して北九州へ上陸し熊本に「多婆羅国」を建てた。147年頃になると天の王朝【豊日国・駕洛国・金官加羅)は朝鮮南部と九州をワンセットとする海人族の強国で吉野ヶ里の倭奴国は、その同盟国だった。この頃、高句麗と敵対関係に入った。163年天の王朝は倭奴国王と連合して、高句麗と同盟していた猿田彦(ユダヤ北朝系ガド族)の伊勢国を攻め、その太陽神殿を破壊した。(破砕された超大型青銅鏡、遺跡から出土)猿田彦、山陰地方に亡命し「出雲のクニ」を造る。一方、天の王朝と倭奴国王は紀州から志摩半島に至り先住民の苗族を従えて「伊勢国」を建てた。165年、倭奴国王が高句麗次大王を殺す。そのため高句麗王には新大王が代わって即位した。この時新大王は王族達を分けて、それぞれ配したが九州の熊襲の3族、朴、昔、金は容易に帰服しなかった。この3族が後に新羅建国の主勢力になる。204年高句麗王子・発峡は北扶余穢王・饒速日命を攻撃した。そのため、エビス系穢王(実はユダヤ12氏族のガド族族長)ニギハヤヒ命がサンカ軍団を率いて日本海に移動、南下して九州熊本の「多婆羅国」へ合流。

日本 6

2006-01-24 08:07:29 | Weblog
遡ること約3500年前、エブス人(エビス・殷人のことを漢民族は夷と呼んだ・シュメール人)とヒッタイト人(鉄族)は、フェニキア人と共に九州東側海上(日向灘・豊後水道)を通って国東半島に上陸した。彼らは、国東町重藤の海岸に莫大な砂鉄層が存在していることを発見すると、この地にコロニーを設けて、先住民に農業文化を普及させると共に殷文明(シュメール文明)のための製鉄基地を建設し始めた。同地の砂丘に大量に存在していた砂鉄を原料とし、地元の薪を燃料とし、西南の風をタタラとして縄文鉄の「ナマコ鉄」を造り、武器や農具の鍜鉄製品に仕上げていった。その際、湊川人など縄文人を奴隷として使った。そして、この鉄製品を中国商人との交易に支払う「貨幣」として活用した。これが北九州における水田稲作農業の始まりであった。水田稲作にとって、鉄器は、なくてはならないものであった。水田を作り、大量に稲を刈り、脱穀するのには、鉄製道具が、最も適切であるから。それらの需要をまかなうため、国東半島の重藤に造られた製鉄基地は、重要な役割を果たしたが、その資源も無尽蔵というわけにいかず砂鉄や燃料資源の豊富なサブ工場の適地を求めてヒッタイトは、各地に移動を繰り返したと思われる。そのサブ工場で良質の「縄文鉄」を生産し、これを国東半島の基地に転送し加工して鍜鉄製品に仕上げたのだろう。各種の鍜鉄製品を運んだのはエブス人(恵比寿・胡・蛭子・戎)やユダヤ(大物主の命・米俵を担ぐ大黒さん)の商人たちであり、その由来は、「エビス・大黒」として現在も各家庭に祀られている。日本は古代から太陽崇拝(アマテラス)と、されてきた。北王国イスラエルもまた太陽礼拝が盛んだった。これが神武以前の先王朝であり、天の王朝であった。 製鉄基地は殷の東表国となりエビス王家として続いていった。
東表国=天の王朝の列島支配は、1000年以上も続いていたという。彼等の伝導による世界最古の縄文土器も発掘されている。

日本5

2006-01-24 08:06:28 | Weblog
BC 213年、秦の始皇帝(ユダヤ人・シメオン族・ディオドトス)が思想・言論の自由を抑圧し、方士や儒者460人余りを生き埋めにする焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)事件が起った。この時、焚書坑儒の対象にされた孔子(ユダヤ人のラビ、エリア)・孟子系のユダヤ、ガド族は始皇帝のシメオン族とは敵対関係に入った。結果、ガド族は南朝系に接近して北朝系と争うようになった。
BC1020年、周が建国した頃、列島は、縄文晩期にあたる。江南の会稽(かいけい)に住んでいた王充(おうじゅう)という人の「論衡ろんこう」という書に、周の初めの成王の時代、倭人が帳草(鬱金草ウコン)を献じてきた・・・とある。帳草とは神おろしの儀式に使う酒に入れて香りを出す草といわれている。すでにこの頃、倭人は中国との交流があったということになる。中国は、5000年の歴史といわれてきたが、それは虚構であったようだ。孔子はエリヤ、孟子はアモス、列子はプラトン、荘子はアリストテレス、皆シュメール人である。儒学はユダヤ人ラビの「ジュウ学」、殷はシュメール人、周はアッシリア人、秦はバクトリア人のオリエント史がモデルであった。司馬遼太郎は読売新聞紙上で、漢民族は「関中台地(陜西省)に流れこんでくる、インド・ペルシア系の流入者から、今の中国武術、曲芸、さらに仏教という形而上学を学んだ。秦の始皇帝陵の兵馬俑はギリシアの技術で作られたものであり、始皇帝の時代、ギリシア文化はバクトリアを通じて中国の文化を支配していた」といったそうだ。秦帝国はアレキサンダーが作らせたバクトリア国(大夏国・大秦国)の中国における植民地であった。歴史的にアレキサンダーの大遠征を完成しようというものだった。しかし、アレキサンダーが亡くなり、従軍していたデオドトスが秦帝国の皇帝の座に着いた。始皇帝がわずか一〇年で中国大陸を支配できたのは、秦の軍隊はアレキサンダーがバクトリアに残したギリシア兵団で、当時としては世界最強の戦力だったからである。始皇帝は、すでに造られていた燕と趙の長城を繋ぎ合わせ、さらに黄河沿いに新しい長城を築かせた(万里の長城)。楚と秦の戦いも司馬遷のフィクションで、始皇帝の死後、エウチデムスがモデルの楚王項羽が、バクトリアから追撃してきて、ディオドトスニ世(胡亥)を撃ち、三世子嬰も殺し、宮廷も焼くと秦王国が滅亡。極めてギリシア的ともいえる同族戦争の結果、中国人の治め難さを知って、エウチデムス(項羽)は中国大陸を見捨ててバクトリアからインド大陸に転進したというのが真相。項羽が焼いたといわれていた始皇帝の地下宮殿も発掘され、兵馬俑が明らかにされたのは周知の事実。兵たちの像はギリシアやペルシャ様を成し、前三〇〇年頃、中国の西方にあったというバクトリアの軍隊であった。その後、劉邦らが「前漢」を建国して、棚ぼた式に秦の遺産を引き継いだ。秦帝国滅亡後、秦の王族(シメオン族と失われた10支族の内8支族も)は遼東へ逃れ、殷滅亡後、遼東半島にシュメール王族が、建国した「奇子朝鮮」頼って亡命した。

日本 4

2006-01-23 23:46:42 | Weblog
子供の頃友達と観た映画「天地創造」は圧巻だった。中でも聖書に限りなく近づけて建造された「ノアの箱舟」は、よく見ておこうね・・・と友達と確認し合ったことを覚えている。神は言った「ノア、糸杉の木で箱舟を造り、その中に部屋(複数)を設け、ピッチでその内外を塗りなさい。その造り方は次のとおりである。箱舟の長さは300キューピット、幅は50キューピット、高さは30キューピットとし、箱舟に屋根を造り、上へ1キューピットにそれを仕上げ、また箱舟の戸口をその横に設けて、1階と2階と3階のある箱舟を造りなさい」1キューピットは約50センチだから、上の数字をメートル法に換算すると長さ約150メートル、幅25メートル、高さ15メートルという大昔にしては途方もなく巨大な船になる。しかも3層のデッキがあり、各層は5メートルの高さをとる。CG撮影など無い頃のこと、すごい物を作ってしまった・・・ただただ感動して見入っていた。
この映画のラストはノアの子孫のアブラハムが、やっと生まれた一人息子のイサクを神の生贄に捧げようとして間一髪で神に許され、喜びにイサクを抱き上げるシーンだった。その後イサクはエサウとヤコブという双子の息子をもうけ、弟のヤコブは神の勅命によって名前を「イスラエル」と変えたが、彼こそが『旧約聖書』に登場する「イスラエル民族の父」となる。このヤコブ(イスラエル)は4人の妻に12人の息子を生ませ、生まれた順にルベン、シメオン、レビ、ユダ、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、イッサカル、ゼブルン、ヨセフ、ベニヤミンと名付けた。これが「失われた12支族」と云われる。