おのごろ嶋雑記

摂津と播磨、阿波と紀伊の狭間にあって四方睨みの淡路島の歴史と民俗。海の向こうを見て育った淡路人。ここからの話題を発信。

「おいでてつかはれ」いま洲本の文化は旬のとき

2011年10月18日 | 淡路
(1)図書館市民まつり すもと よみがえる町 未来の都市
     ~市民と図書館の豊かなつながり~
10月22日(土)23日(日)10時-16時於;洲本市立図書館、主催;図書館市民まつり実行委員会

<図書館市民まつりのチラシ> *画像をクリックすると拡大します(以下おなじ)。


 季節は仲秋、文化の華爛漫のときである。
 この季節の目玉はなんといっても洲本の「図書館市民まつり」だ。このイベントは毎年この時期に行われているが、今年はチラシに見るように22日、23日の2日間、図書館内と施設内の広場で43点もの演奏、演技、展示、講話、体験教室など音と色彩、語りと造形のページェントをくり広げる。さらにこの催事に協賛して、会場前の市民広場では、「秋のとれたて収穫祭」「洲本城まつり」「フリーマーケット」が行われるという。まさしく洲本の市民文化の祭りだ。ぜひ、足を運んで、文化の秋を楽しんで欲しいものだ。


 今年は図書館市民まつりだけではない。観たい聴きたいのメニューが多々ある。手元に資料があるものを紹介しておきたい。
(2)第15回戸塚ししゅう展
       10月19日(水)~22日(土)・洲本市文化体育館展示室
      主催;戸塚刺しゅう協会淡路島地区

<展示会案内のハガキ>


 すでに始まっているが「戸塚ししゅう展」がおもしろい。布地や糸を使っての工芸品の展示は淡路では見る機会が少ない。今回の展示で興味をそそられたのは、案内のハガキにあるように、淡路島の歴史的景観や鳴門大橋などを題材に、絵具による絵画のように刺繍で形象していることだ。その発信するものをゆっくり見てみたい。


(3)遍照院文化講座
     「木食観正上人 ~淡路が生んだ近世最大の生き仏~」
      10月29日(土)午後4時・所 海月館・会費 無料
        主催:遍照院・遍照院龍華の会

<講座案内のチラシ>


<観正上人の行状を報じる当時のかわら版>


 この講演会は、聴き落とせない。
 講座の中味は、淡路島が生んだ奇人、江戸時代後期に活躍した木食僧(もくじきそう)観正上人(かんしょうしょうにん)の話である。この僧侶、洲本の生まれで船乗りだったが故あって島を出奔、やがて修行者となって洲本へ帰り遍照院(当時は地蔵寺)で剃髪し観正と名乗った。その後、諸国修行を重ねたすえ江戸にで、法力をあらわして一躍有名となり“今弘法”と評判になった。
 観正上人が淡路島へ里帰りしたときは大歓迎を受けたという記録が残っている。このとき高田屋嘉兵衛とも会って歓談しているほどだ。
 今回の講義は、ゆかりの遍照院主催。講師の西海(にしがい)先生は、この観正研究の第一人者で、研究のため洲本へもしばしば見えている。
 講座は10月29日(土)だが、申込みは22日までに遍照院へとなっている。
    

(4)里山竹林コンサート
   ~竹林にこだまする民族楽器の音色は詩心湧く自然との共鳴~
     10月30日(日)午後1時30分~3時30分・洲本市千草 小林宅・参加費;1,000円 
  主催;NPO兵庫環境資源ネットワーク

<竹林コンサートのチラシ>


 この竹林コンサートは、会場も演奏内容もそうめったに出会えるものではない。都会でのストリートミュージックは駅ビルの片隅などで時折見かけるが、これは竹林のなかでの演奏である。さらに、竹林とくれば竹林の七賢人という故事が遺るように、隠者、清人がたむろするところが竹林。そこで奏でるのが連琴(れんきん)という珍しい楽器。これは洲本の人によって江戸時代に発明された楽器というのだから、このコンサートにはなおのこと興味をそそられるのだ。
  今回、洲本の連琴舎がその連琴の演奏を聞かせてくれる。ぜひ聴きに行きたいと思っている。この日は他に、ケルト・ハープと歌、韓国民族音楽の演奏もある。賢人、清人にはなれずとも、竹林の中で世俗をはなれたひと時を過ごしませんかというのが主催者のこころ。場所は千草の里山の麓にある小林宅。

  

吉田初三郎が描いた淡路島

2011年09月26日 | 淡路
 いま、ひそかなるブームでその道の愛好者が探し求めているのが“大正の広重”と呼ばれた鳥瞰図絵師・吉田初三郎の作品(商品化された印刷物)である。その作品は1600点以上あるといわれているが、私はそのうち淡路島を描いた絵図を探している。これまでに二点を入手しているが、残念ながら淡路全域を描いた作品にはまだお目にかかっていない。 
 鳥瞰図というのは、地形や風景を上空から鳥の眼でみたように描いた俯瞰図であるが、大正から昭和10年代にかけて日本列島全域に起った観光ブームのなかで、観光地を鳥瞰図で描いて、乗物や行路、風景や史跡の案内をする絵地図が盛んにつくられた。この鳥瞰図を描く絵師も、吉田初三郎、金子常光や山本章園のほか有名無名の沢山の絵師が競って需要に応えた。吉田初三郎以外に、幾人かの絵師の手になる淡路島の鳥瞰図も何種類かある。今回は、吉田初三郎の作品を紹介したい。

[1] 「鳴門」
 この絵の表題は「鳴門」であるが、副題が「淡路鉄道沿線名所鳥瞰図」とあるように、絵図が描く主題は島の南部を走る淡路鉄道沿線の風景や名所旧跡である。
 絵図には洲本・福良間を走る鉄道各駅の名を記し、その周辺の名所旧跡を詳細に描いている。神社仏閣などはその建物配置まで克明で、例えば、先山千光寺では庫裏、大師堂、展望台、仁王門、三重塔、本堂に東西の茶屋まで描きこんでいて正確である。沿岸風景でも、洲本大浜海水浴場に発し宮崎ノ鼻を越えて古茂江の旅館街をへて由良に到るまでのうち、古茂江(小路谷)では古城園、梅桜園、四州園の旅館名から住吉神社、由良では成ヶ島まで丹念に描いている。
 吉田初三郎は絵図作成の依頼を受けると弟子をつれて現地にきて写生をしたうえで絵図を制作したと研究書は記している。
 写真にみるように、絵図は島の南部一帯を中心に、その北辺は島の中央部にある伊弉諾神社(現、神宮)、先山千光寺、鮎原天神まで詳細に描いている。そしてさらに鳥瞰の眼は島の北端にある絵島から対岸に霞む本州までも視界の内に捉えている。
 また、絵図の表題「鳴門」の絵も細密である。狭い鳴門の海門に白波をあげ沸き立っている渦潮の描きかなどは広重ばりである。観潮船も走っている。そしてさらに、鳥瞰の眼は対岸の撫養から高松を越え遠く讃岐の金比羅神社まで見通している。
 
1、「鳴門・淡路鉄道沿線名所鳥瞰図」表紙 *以下、画像をクリックすると拡大します。


2、「鳴門・淡路鉄道沿線名所鳥瞰図」全景



3,同上部分「先山千光寺と古茂江・由良」


4、同上部分「鳴門と福良・橅養」


5、吉田初三郎の落款


6,データ
 著者 吉田初三郎
 発行人 淡路鉄道株式会社
 発行日 昭和9年4月20日
 欄外付記 昭和9年3月6日由良要塞司令部検閲済
 注 絵図裏面の「淡路鉄道沿線案内」の文章(写真入り)に付して「絵に添へて一筆」と作者の吉田初三郎が一文を書いている。
 寸法 177×583(八ツ折177×98)㍉
 付記 淡路鉄道は1966年に廃線となっている。


[2] 「梅桜園・三熊館御案内」
 洲本市の東海岸にあった三熊館と別館梅桜園ともその名は今はない。昭和25年昭和天皇が淡路島行幸の際お泊りになった梅桜園も今は姿を消し、三熊館は改築のうえホテルアレックスと名を変えている。 当時、三熊館や梅桜園が絵図にあるような幾棟もの建物が重層する旅館であったかどうか知るよしもないが、地図いっぱいに旅館の姿を大きく描いたため他の事物の省略が目立つ。例えば梅桜園がある古茂江海岸には明治期からの老舗の四州園があったが描かれていない。三熊館の周辺にも松栄館、海月館など数軒の旅館があったが省略されている。
 このことも、この絵図が主題の三熊館・梅桜園を"海の仙境"(絵図の賛語に記す)として際立たせるため、他を省略するデフォメルの手法を用いた鳥瞰図法の特徴の一つであると理解できよう。
 また、二つの旅館の周辺の見所である洲本大浜海岸や三熊山頂にある洲本城址の模擬天守閣や城石垣、中腹にある競馬場の位置などは丁寧に描いているが、一方、島の南部や北部は略画にとどめている。しかし、鳥瞰の眼は島の北端は岩屋からはるか本土の神戸・明石を、西は鳴門海峡から四国までを一望していて雄大である。


1、「梅桜園・三熊館御案内」表紙


2、鳥瞰図(全景)


3、鳥瞰図(部分)


4、吉田初三郎の落款


5、データ
著者 吉田初三郎
発行人 三熊館
発行日 昭和9年3月25日
寸法 175×630(六ツ折 175×107)㍉



(参考)
[3]「日本鳥瞰中国四国大図絵」

 この大絵図は表題のとおり、東は近畿、西は九州に挟まれた中国四国を、多くの島嶼を抱え複雑な海岸線を描く瀬戸内海を中央に挟んで描いていて、眺めているだけでも楽しい鳥瞰図である。
 先の二点の絵図と違い、描く範囲が広域なので鳥瞰の視点は非常に高々度にあり、淡路島も小さくしか描かれていない。しかし,主な町村や名所旧跡の位置は記している。 
 今のところ、吉田初三郎が描く淡路島は、先の二点以外この図絵があるだけなので参考のために取上げた。


1、 収納紙袋表紙写真



2、 鳥瞰図部分 淡路島とその周辺



3、データ
 副題 大阪毎日新聞大正16年元旦付録
 著者 吉田初三郎
 発行人 大阪毎日新聞社
 発行日 昭和2年1月1日
 寸法 276×1068((八折 276×135)ミリ



















明兆顕彰会の総会があり、淡路の三偉人について講演をしました。

2011年05月03日 | 淡路
 去る4月30日、明兆顕彰会の第2回総会を塩屋の西来寺(せいらいじ)で開きました。会員は230名ですが、当日の出席者は50名程。会議は、これからの活動として、明兆生誕660年(生年は1352年だから2012年で660年)にむけての記念事業3件、単年事業として①来年3月の東福寺涅槃会参詣、②島内の明兆ゆかりの遺蹟遺物めぐり。初回は淡路市志筑引摂寺(いんじょうじ)の伝明兆画幅の拝観(交渉中)、③会報の発行などを決めました。
 記念事業の3件は ①明兆顕彰碑の建立、②「明兆通り」の設定、③明兆作品の里帰り展の実現、です。この記念事業はどれひとつとっても大事業です。事業を具体化していくなかで、このブログを通じてみなさまにご協力をお願いをすることもあるかと思いますが、よろしくお願いします。



[淡路の三偉人の肖像・左から服部嵐雪、明兆、高田屋嘉兵衛]
ところで、この総会の前座として、私が「淡路の三偉人について」という講演をしました。このことに少しふれておきたいと思います。
 淡路の三偉人という呼称は、淡路の人にとってもあまり耳になじんでないことばだと思いますが、その3人とは、室町時代の画家明兆(みんちょう)、江戸時代前期の俳人服部嵐雪(はっとりらんせつ)、江戸時代後期の豪商高田屋嘉兵衛(たかたやかへい)をいいます




[重野安繹撰並書「淡州三偉人賛並序」]画像をクリックすると拡大します。

 この淡路の三偉人という呼称とその人選は明治41年になされました。この3人を選びだした人は、当時、文部省の修史官を務め東京帝国大学教授でもあった文学博士重野安繹(しげのやすつぐ)で、この方が明治41年に選定命名しました。3人を選定した経緯を語る資料は残っていませんが、この3人の肖像画に添えた重野博士の賛語幷序言を記した画軸があり、これを複製した印刷物が残っているので、選定の結果とその理由は明々なのです。
 でも、淡路に縁が薄いであろう東京の学者がどのようにして3人を選定したのか疑問がわくところです。しかしその当時は、大学者が選んだことでもあるし、また3人の人選も妥当なところと思っていたのでしょう。ところが、大正、昭和と時代が流れるなか、3人のうちの1人は賀集珉平(かしゅうみんぺい)がよいという意見をいう人がでてきました。でも、つぶやき程度で大きな話題にはならなかったようです





[明兆の自画像]




[服部嵐雪の肖像]



[高田屋嘉兵衛の肖像]


 そして現在、最初の選定から百年になろうとしています。時代が変われば偉人観も変わってくるでしょう。明治以降にも淡路島から沢山のすぐれた人物を輩出しています。今ちょいと書き出すだけでも、田中正平然り、三島徳七然り、安倍喜平然り、西川光二郎然り、永田秀次郎然り、岩野泡鳴然り、大内兵衛然り…です。
 先覚者の顕彰は、先人に払う敬意と感謝の表現であり、後進の大切な仕事です。そして、先覚者の功績とその生き様は、後進に誇を与えてくれます。勇気と活力とそして自信を与えてくれます。
 そうした意味で、今の時代にふさわしい淡路の偉人―偉人という表現はちょっと古くさいと思うのですがーを3人とは云わず改めて選び出し、淡路島の誇にしたいものだと思うのですが、あなたはどう思われますか。

淡路島の自然を愛する会を応援しよう

2011年04月19日 | 淡路
 先日、淡路島の自然を愛する会の総会があり、久しぶりに仲間の顔を見たくなって出席をした。
 この会、会員は正会員64名、賛助会員16名、そのうち島外会員が数名いる。現在、会長の村上旭さんが入院中のため会長代行は人形寺祥弘さんである。その活動は、公費の援助は受けず年額2千円の会費収入のみで運営している健気な会である。
 事業活動の中核は三熊山の市有地を400平方米ほど借りて平成15年に開園した「淡路島野生植物保護園」の管理運営と貴重植物の自生地調査、島内各地へ出かけての写真展などによる啓蒙活動だ。
 なかでも、保護園の維持管理は大変だ。1月から12月まで毎月2~3日は作業に出ている。その仕事は、野生の貴重植物の育成、増殖だが、このためには園内及び周辺の樹木の枝切り、栽培植物の水やり、雑草除去、落葉除去と腐葉土作りなどの作業が欠かせない。
 また、貴重種の自生地調査も行っていて、今年は、大日ダム、諭鶴羽山、先山、柏原山などへのフィールドワークが計画されている。報告を聞くと、これらの活動に参加する会員は10名足らずで顔ぶれは毎年ほぼ同じだという。もっと多くの会員の参加と若い人の加入が欲しいとは、会員が高齢化するなか会の運営を一身に背負って奮闘している喜田剛史事務局長の弁だ。
 



淡路島の自然を愛する会のチラシ



淡路島野生植物保護園のチラシ
      画像をクリックすると拡大します。

淡路島に自生する草花で貴重種のいくつかを紹介します。写真は愛する会の提供です。
【参考文献】
『成ヶ島の植物』細田龍介(成ヶ島探検の会)編著・平成17年3月・兵庫県洲本市発行
『美しい淡路の花と緑』南光重毅著・平成19年3月・淡路県民局発行




[ハンカイソウ 樊かい草]
名は、大型な草であることから中国古代の武将樊かい(はんかい)になぞらえて名付けられた。多年草で花期は5~7月。



[オオルリソウ 大瑠璃草]
名は瑠璃色の花がさく大型の草から名付けられた。花期はあ6~7月。



[ツルニンジン 蔓人参]
根が朝鮮人参に似るところから名付けなれた。多年生の蔓草。花期は9月。



[スズシロソウ 清白草]
名は花がスズナ(大根)に似ているところから名付けられたという。多年草。花期は3~4月。



[ウラシマソウ 浦島草]
浦島太郎が釣り糸を垂れている姿に見立てたところから名付けられた。多年草。花は濃紫色。花期は4~5月



[アオテンナンショウ 青天南星] 
葉も花も緑色をしているところから名付けられた。
日本の固有種で、近畿地方から西に分布し兵庫県内の自生地は淡路島だけである。多年草。花期は4月。


東日本大震災に思う

2011年04月06日 | 日記
 3月11日東日本を襲った地震と津波、そして原発損壊による放射能汚染。この三重苦に加重するような政府や東電の右往左往するその場しのぎの対応。被災地域の方々の辛抱も大変なものだと思う。
 こんなとき、今朝のラジオを聞いて、わが身につまされる思いをした。それは、避難所でのトイレの問題だ。
 ラジオの語り手が伝えるのでは、そこの避難所は900人が避難しているのだがトイレが5、6ヶ所しかなく、行列で待たねばならないというのだ。それだけでない、日本式の便器に支えのないボックス状の便所で、みな便所へいくのが厭で水分をとるのを控えているという。
 この報道を聞いて、もし、前立腺肥大症を抱え薬を飲みながら排尿とつきあっている自分ならどうなるのだろうかと思って暗然とさせられた次第。過日の自分だが、外出先で、常飲の薬の効果がなくて極度の頻尿症状になり、1時間に10数回トイレに駈けこんだことがあった。日常でも、夜間には数回は通う。こんな自分がもし避難所に置かれたら、まずはトイレ問題に適応できず命を縮めることは必至だと思うとともに、おなじ病の被災者の方はどのようにしておられるのだろうかと胸が痛むのだ。
 これは救援物資を積み上げたからとて解決はしない。被災者への支援には、こうした弱者への配慮のある救援をして欲しいと思うのだ。そしてこれは、市民ボランティアではどうすることも出来ないことで、政治の問題だと思う。大臣や国会議員が、仮設住宅や仮設トイレ、風呂などの建設資材を積んだトラックに建設業者と同乗して被災地に乗込んだというような情景が現出すれば、国民はこの国の政治に曙光を見いだすことができるに違いないのだが……。