世界にある様々な神話は「口承による有史以前の歴史」と言ってしまうのは相当雑ですが、現代の我々が神話と呼ぶその時代を生きた人々にとっては、神話の世界は彼らと彼らの祖先が経験した事象だったのではないでしょうか。後世にそれら言い伝えが長らく語り継がれるうちに、主となる物語を大きく崩すこと無く、後の諸相をも交えつつ編纂されたと思えます。
アポロン神 1987年 1000ドラクマ紙幣
アステカ ケツァルコアトル神
エジプト九柱の神々
稗田阿礼と太安万侶
くじら座 130億光年かなたの「Himiko」
磤馭慮島(おのころじま)地球
前回書いた「先ず神話という真実があってそれに沿った形で事実が起こる」と矛盾して「事実を繰り返すことでその内に真実が生まれた」かのように聞こえますが問題ありません。事実から真実が生まれたのではなく、人間が真実を事実の中に垣間見ているのでしょう。つまり人は事実を見つめることで真実の影を映し見るのでしょう。そうすることでしか真実を求められないからです。
アポロン神 1987年 1000ドラクマ紙幣
ギリシャでは彼らの神話を学校で教わるそうです。当然のことであって、素晴らしい教育だと思います。今はユーロですが以前の貨幣にも肖像が採用されています。しかし日本では改訂された学習指導要領を小学2020年、中学2021年、高校2022年から適用するけれど神話教育が未だに十分と言うにはほど遠く嘆かわしいことです。
アステカ ケツァルコアトル神
エジプト九柱の神々
世界にある神話はその地域に生きた人々の自然観や人生観を映した経験に基づく歴史物語なのでしょう。英語では「myth」、これを『ロングマン英英辞典』で見てみると〈an ancient story that is based on popular beliefs or that explains natural or historical events〉とあります。〈広く親しまれ普及した真理に基づく、又は自然現象及び歴史的事象を説明する古代の物語〉といった感じでしょうか。しかし、そもそも「神話」という語彙は日本の「神語(かむがたり)」と比較差別化するために外国語を訳した語です。我が国の「神代の伝承(神語)」は「神話」というような哲学や歴史的事象の考察に留まらず太古から現代にまで脈々と繋がる精神生命の源泉なのです。その精神生命は宇宙の誕生つまり神々の成りました瞬間と同時に生まれ神々によって「大切に大切にそれはそれは大切に」我が子を愛するように守られ、その瞬間と何ら変わらず今もその精神は守られ生きているのです。我々日本人は神と共に顕現する森羅万象に神を映し大切に大切に愛し接してきました。森羅万象ということは人間も亦神の一部なのです。日本の神話は「神話」と呼ぶにはあまりにも尊厳且つ悠久であり日本の歴史に生命を与えて諸外国の単なる物語に過ぎない「神話」とは明らかに異なっています。
稗田阿礼と太安万侶
日本の神話を見るとなると『古事記』と『日本書紀』でしょうか。両書を「記紀」と呼び、どちらも天武天皇の時代に編纂され始めました。使われている言語や表現方法又は神話の記述割合等いろいろと違いはありますが内容は同じです。ならば何故違う方法で二書にまとめたのでしょうか。よく言われているのは古事記が国内向けで天皇陛下の正当性を示し、一方で日本書紀が国外向けに日本を知らしめる為という分け方です。古事記は漢字の意味を踏まえつつ大和言葉を万葉仮名で表され、これは外国人には全く読めません。これは日本語をアルファベットで表したローマ字みたいなものですね。日本書紀は漢文部分もありながらも倭の要素がかなり入って完全な漢文でなく支那人にも理解困難なのですが漢文体なので国外向けと言われる一因なのでしょう。しかし上記した日本神話の意義を考えると秘伝中の秘伝とも言える国体の極意をわざわざ国外に教えることをするでしょうか。そもそも彼らには理解不可能でしょうから尚更です。そこで下の様に解釈すればどうでしょうか。「記紀」の内容は必ず子々孫々まで伝えなければならないこの上なく大切なものなので違った手段(言語)で残したという考えです。私たちも大切な家族の写真等は色々なメディアに記録保存して消滅しないようにバックアップ等して工夫するでしょう。「神語(かむがたり)」は絶対に失うわけにはいかない日本の魂ですから複数の手段で万全を期したのではないでしょうか。失えばいずれ我々の日本は必ず滅びます。滅びるとは日本の魂が滅びるということです。肉体はコピーされ生き続けられるでしょうがそれではまさに単なる生物でしかありません。人が人である所以はそこに神々に通ずる魂が存在するからでこの魂こそが人間の本体なのでしょう。その魂が日本人にだけ備わっているのです。「大和魂」と呼ばれ、我々を人間足らしめる生命そのものです。戦後、ただの生物と化した見た目だけの日本人がほしいままにのさばる光景を我らの祖先が見たらどう感じるでしょうか。武漢コロナウィルス有事で得手勝手な振る舞いをする不届き者の多いことからも戦後日本の堕落をうかがえます。日本人の魂は祖先と繋がり神々と繋がっています。この魂を放棄し生ける屍となることは自分自身を殺すだけでなく同時に先祖や神々をも殺すということなのです。
くじら座 130億光年かなたの「Himiko」
「天地開闢(てんちかいびゃく)」天地の初めの時。〔【闢】ひらく、押しひらく〕
「記紀」の何れも説いています。先ず天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)次に神産巣日神(かみむすびのかみ)が成りました。神が産まれることを「成る」と言います。この三柱は独り神で成りませると直ぐに身を隠したまひき。神の数えかたは「柱」、独神は性別のない神です。身を隠すという意味が分かりませんね。これは神自らの身を隠したと読んでしまうと意味不明になってしまいます。「身」とは神と共に生まれた森羅万象を指すのかもしれません。【身】は象形文字で「人がみごもった(妊娠した)」形を示して「物のまん中」という意味もあるそうです。【隠】という文字の成り立ちを調べると、【隱】の略式で、こざと偏は「丘」の意、文字右側のつくり部で4画目までは「上から覆った手」、その下の5~7画目が「工具、道具」、その下の8~10画目「∋」みたいな部分は「下から支える手」、最後に「心臓」です。両手で工具を覆いかくすことから「かくされた大切なもの」そしてそれを「心配する」という意味も表すようです。そして「たまひき」とは「給う」のことで「上位から下位へ物や恩恵を与える、授ける」と言う意味があって単に動作主への尊敬の意を表するだけではありません。「身を隠す」とは「胎児を優しく包み込み守る」ことではないかと思えます。胎児とは森羅万象のことで宇宙の形而上及び形而下全てのもののことです。これを神々が始まりの時から今日そして永遠に守っていて下さるということです。古事記と日本書紀にそう書いてあります。両書ともに漢字の意味を一文字一文字大切に使われていると思います。時には暗号のような箇所が有ったりしますし現代人にとっては謎の多いもので無限の広がりを感じます。
最初の三柱の神々の後に成った二柱の神々を合わせての五柱を別天神(ことあまつかみ)、そして別天神の後に国常立神(くにのとこたちのかみ)を始めとする十二柱を神世七代(かみよななよ)と呼びます。神世七代の内の国常立神と豊雲野神(とよくもののかみ)そして先に成った別天神は独神ですが神世七代の残りの神々は五組の夫婦の神々です。その内の最後の夫婦神が「伊奘諾尊(伊邪那岐命)いざなきのみこと(いざなぎのみこと)」と「伊弉冉尊(伊邪那美命)いざなみのみこと」です。この二柱の神によって国生み神生みが行われるのです。
磤馭慮島(おのころじま)地球
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