日々の戯れ言、それからシネマ

およそ3年ぶりにブログを再開

ラブ娘

2012-11-30 22:58:42 | 子育て
娘が赤ちゃんの頃、なかなかかわいいと思えなくて、そんな自分はどこかおかしいんじゃないかと思って
かなり悩んだ。

ひたすら泣く赤ちゃんをどう扱っていいかわからず、その泣き声をうるさいと感じ、
赤ちゃんが泣いているのに、それをうるさいと思う自分がとても嫌だった。

子どもが生まれたらきっと溺愛するだろうと思っていたのに、溺愛どころか全然かわいくなくて、
ニッコリ笑った顔をかわいいと思うことはあっても、それは束の間で、二人でいる時間が長くなるとすぐにイライラしていた。
まあ、今もイライラするけど。

一人でいるほうが気楽だったし、できれば長い時間一緒にいたくなかった。
何よりそう思ってしまうことが悲しかった。



けれど5歳になった今、娘は間違いなくかわいい。
憎たらしい口のききかたにカチンときたり、すぐに怒ったり、イライラして娘にあたってしまったり、
そんなことも日常茶飯事だけれど、それでも間違いなくかわいい。

会えない時間が長くなると、今頃何をしているかな、と考えたり、早く会いたいな、と考えたり。
一緒にあんなことこんなことしたいな、って考えたり。

部屋の中で絵本を読んだり、歌を歌ったり、一生懸命おしゃべりしたり、
そんな姿を見ていても、つくづくかわいいなぁと思う。

もしかして今が一番かわいいんじゃないか、とも毎日思う。

一昨年に買ったガウン。2年前はゾロゾロと引きずっていたのが、今やツンツルテンに短くなっている。本当に大きくなった。
「大きくなったね」と口にする。「そんなに早く大きくならなくてもいいんじゃないの?」というと
いつものごとく「勝手に大きくなるんだよ!」と返ってくる。

疲れることもいっぱいいっぱいあるけれど、やはりかわいい。
あと2年3年して小学生になったら、もっと生意気度がアップして、見た目も幼児から子どもに変わってしまうだろう。

そう思うと今が一番かわいいような気がしてしまう。
絵本を読むその読み方とか声の感じとか、書いているおえかきとか、「3人で一緒にねようよー」と小さな声で言うところとか、

とにかく何もかもがかわいい。

今は私の中で“娘”がブームになっているだけか…? 自分の娘に“ブーム”とか言っていいのか?



私たちはよくケンカもする、年齢差を感じない対等なケンカ(笑)

大人気ない母は、すぐに娘に向かって「ブース」なとど暴言を吐く。

たいていは「ブスって言ったら自分がブスなんだよ」と冷静に切り返される…。

いつだったか、頭にきて「まったく、憎たらしい! このドブス!!」とありえない暴言(ごめん、娘)を吐くと

「ドブスってなんだよ…」とポカンとする娘。

どうやらドブスという言葉にはあまりなじみがないらしい。しかし、その後すぐにこう切り返してきた。

「わかったよ、ドブスっておかめ納豆のことでしょ!?」


「おかめ納豆ー!!」とその場にいた私と妹で爆笑。


確かにおかめ納豆のパッケージにある、あの下ぶくれのお顔に対しては、そういう表現もあるかもしれないなぁ、などと妙に納得するも

「でも、あのおかめ納豆のお顔はさ、昔は美人て言われてたんだよ」となぜかおかめ納豆をフォローし始める私。

「そうだ!平安時代とかはさ、あの顔が美人だったんだからぁ」とさらに力強くいう。

「平安時代ってなんだよ!」と怒り気味の声でいう娘

「お公家様がいたころだよ」と、ますます幼児にわからない話になってきたところで


「大丈夫、おくさん(娘のニックネーム)はドブスじゃないし」と私。

「さっきドブスっていったじゃん!」とふくれる娘。

そうだ確かに言った。「あ、うそうそ。そんなこというおかあさんがドブスだよねぇ」とごまかそうとすると

「おかあさんはドブスじゃないよ~」と涙声になる娘。

「おくさんもかわいいよーう。ドブスなんて言ってごめんなさい…」

「いいんだよ、おかあさん」   「よくないよ…」



本当に、こんなコントみたいな会話をしてるから疲れるんです。トホホ。

でも、かわいい・・・

ザッツ・エンターティナー

2012-11-26 11:59:49 | 子育て
以前近所に住んでいた友人が母娘で遊びにきてくれた。

5歳の女の子同士、お互いその日をとてもたのしみにしていたけれど、

半年間の空白がある分、最初はどこかよそよそしかった。

私の娘がいろいろ誘ってはみているが、友達の娘Mちゃんはまだ緊張しているのか、なかなか

口を開かない。

子供たちというのはだいたいそんなものなのだけど、日が傾いてきて、そろそろ帰る時間を

気にし始める頃になって、ようやく二人が馴染んできた。

最初は自分のママに耳うちするような感じでしかおしゃべりしなかったMちゃんが、

もはや腹の底から声を出している。

娘がおえかきでお尻の絵を書いたことがはじまりで、

子供が大好きな「うんち、おしっこ」ネタになり、絵を書いては即興で歌と芝居(?)を考え、

それをかわるがわる二人で披露していた。

娘の三枚目ぶりに私も驚いた。

奇妙な踊りと歌でお客さんを楽しませ、まるでエンターティナー!

ふだんあまりみない姿だけに新鮮だった。

同じ年の、しかも波長が合っていると思われる友達がきてくれたので

何かのタガが外れて全身を使って、その時間を愉しんでいるように見えた。

親といえでも、大人の力では娘のあの要素はなかなか引き出せないような気がする…。



娘のたったひとつの願い

2012-11-24 15:05:34 | 子育て
昨日の夜のこと。

一緒に蒲団の中でくっついて寝ていたら、カチャリと鍵を開ける音。

「あ、おとうさんだ! しーっ、しずかにしようね」と娘。

タンタンと階段をあがってくる足音が近づいてくると

「あ、しずかにしとこうね、おかあさん」とささやく。

そのまままた階段を下りていく音がすると今度は

「おとうさん!」と呼ぶ。返答がないのでもういちど呼ぶ。声が返ってくる。

「おかえりなさい」と娘。

そのまま眠ろうとするも、お父さんの動向が気になるのか落ち着かない様子。

そしてこちらはだんだん眠くなってくる。

「あのさ、おとうさんと寝てもいいかなぁ?」と聞いてくるので

「うん、別にいいよ」と答える。部屋のドアを開け、娘が階段を下りていく。しばらくは

話し声が聴こえてきていたが、突然娘の声が泣き声に変わった。

それもオイオイと悲しそうに泣いている。早く寝なさいと叱られたのかな、と思ったが

大きな声は聞こえてきていない。階段を上ってくる音が聞こえ、再び娘が顔を出す。

私が寝ている蒲団にダイブするかのように泣きながら飛びこんできた。泣いている理由を聞いても答えない。

「黙ってたらわからないよ。いやなことか悲しいことがあったら、ひとりで考えないで言ってごらんよ」

と言うと、しばらくシクシクとないたあと、

「お父さんと寝ようと思ったけど、やっぱりお母さんと一緒に寝たくなっちゃった」と娘

「そっか、お父さんとも一緒に寝たいけど、お母さんとも一緒に寝たいんだよね。」

私が答えると娘は涙目でうなづく。

「三人で寝たいよーう」とオイオイ泣きながら云うので、お父さんを呼ぶことにする。

部屋は狭いし、帰ってきたばかりで風呂にも入っていないお父さんは、娘の枕もとに坐る。

娘は右手で私の手をとり、左手でお父さんの手を取る。



「おかあさん、ママって呼んでみてもいい?」と言う。

ウチは最初から「おかあさん」で貫いてきた。ママという柄でもないし。

「えぇぇー! はずかしいけどいいよ」

と言うと小さい声で何度も「ママ」とつぶやく。

仕方ないのでそのたびに、いつもは出さない優しい声で

返事をしてみる。次に左を見て「パパ」とお父さんに言う。

「保育園はパパママって呼ぶ人が多いんだよ」と娘。

「そうだねー。そのほうがおおいね。おかあさんはママは恥ずかしいからおかあさんて呼んでもらってるけど、ママって呼びたくなったら別にそう呼んでもいいよ。似合わないけど」

「おとうさんはパパでもいいよ」とお父さん。

娘はうれしそうに笑って、右手で握った私の左手と左手で握ったお父さんの右手を

自分の体の上に持ってきて、手をつながせた。

エェ!? と思ったが払いのけるわけにもいかないので、そのままにさせておく。

何度も左右を見て、満足そうにニッコリと笑った。

「あたちはいつもこうやって3人で寝たいし、3人で一緒にごはんも食べたいなぁ」と娘が言う。





いつも「仲よくしてね」と云ってくれるけどそんな簡単な願いをなかなか聞いてあげられない。

小さな娘の一大決心で、お母さんとお父さんの手をつながせたのかな。

あのオイオイと泣いていた悲しそうな泣き声に娘の思いがつまっているような気がした。


今朝はまた、いつもどおりなんとなく機嫌がよくないお母さんと

いつもどおりのお父さんに戻ってしまった。

ガッカリさせてしまっただろうか。

あたちが手をつながせてあげたけど、仲よくなっていないな…とか思っているか?

自分が非力だとか思っていないか?

つい考えてしまう。



仮面夫婦は嫌だが、もう少し普通にできればそれでいい。


娘の心からの笑顔を見れるかどうかも己次第。

人生どう考えたってもう後半。もう少し肩の力を抜いて

ゆるりと生きたい…んだけどね


クリスマスと父の思い出

2012-11-21 22:24:47 | 日記
小学校2年の冬までサンタクロースを信じていた。

その存在をみじんも疑っていなかった。

でもその年のクリスマスの日、

父親が仕事場で私と弟のプレゼントを用意していることを目撃してしまった。

当時は狭い借家に住んでいて、仕事場がそのとなりにあった。

と記憶しているけど、あの狭い敷地に家と仕事場があった、なんてことがあるのか? と今思った。

もしかしたら仕事場は別の場所だったのか?   

でも小2の1月まで住んでいたその家は小さな平屋で、私の記憶によると部屋が2つと狭い台所があって、小さな庭があって、

父の仕事場が同じ敷地内にあって、父はよく庭で看板を作る作業をしていた。

いつも丸首のシャツにジーンズをはいて、

右耳の上に鉛筆やボールペンを挟んでいて、それがうまいこと乗っかっていて、

父が仕事をしている間も落ちずにずっと耳の上に挟んであって、必要になると父はそのペンをとって、図面に何やら書き込んでいた。

その姿が好きで、マネをして耳の上に鉛筆を挟んでみるのだけど、うまくいかなくてすぐ落ちて、

なんとなくそれだけで「おとうさんスゴイな」と思っていた。

そうやって父親が庭で仕事をしている様子を弟と一緒に眺めていた記憶がある。

そしてたぶんその姿を好ましく思っていた。

みんなのお父さんは背広を着て会社に行くけど、うちのお父さんは違っていた。

小学校の授業で、お父さんの仕事についてそれぞれ紙に書いて発表したことがあったけれど、

多くのクラスメイトが会社員(サラリーマンだったのかな?)と書く中で

「看板屋」と書いたことも覚えている。

みんなが「へぇ~」というような声を出した。

子どもの頃はおとなしくて消極的でとにかく目立ちたくない気持ちが強かったけれど、

そのときは「看板屋」と書けることをちょっと嬉しく思ったような気がする。

けれど、今になって思うとお父さんがいない子はどうしたんだろう? 

先生もあらかじめそういうことをきちんと把握したうえで、ああいう授業をしたのかもしれない。



こんなこと何十年ぶりに思い出したろう。



外も暗くなってから、なぜ玄関を出て仕事場のドアを開けたのか覚えていない。

母に頼まれて父を呼びに行ったか、何か聞きたいことがあったのか、理由は覚えていないけれど、

とにかく仕事場のドアを開けたら、父がクリスマスプレゼントのおもちゃを用意していた。

「なーんだ、お父さんだったのかぁ~」と言った小2の自分。

自分の声の調子もなんとなく記憶に残っている。

父は「あ!見られちゃったか」というようなことを言った。しまった、と、バレたかが同居したような

苦笑いに近い顔をしていた。

そのときの表情も覚えているけれど、頭にはっきり思い浮かべようとすると、

どうしても今の父親の顔や髪形になってしまう。

もっとずっと若くて髪の毛もフサフサだったはずなのに。具体的に顔を思い出そうとすると

どうしても、今の75歳の父親の顔になる。といっても今も75には見えないし、改めて75って数字にすると

そんなに歳をとってしまったのか…、とむしろ驚く。

今も変わらずに看板の仕事をして、ハシゴで高いところにのぼったりしているようだが大丈夫なのか?というような思いが

頭をよぎってしまった。

母によると、父は私たちが幼いころあまり家におらず、飲みに出てばかりで、ろくに子育ての手伝いもしなかったらしいが、

私の記憶の中の父は、夏休みに海につれていってくれて、いっしょに遊んでくれた思い出が一番強い。

思い出が強い、っていう言い方は変かな?

とにかく夏がくるたびに、海に行っていた。

物心ついたときにはもう私も弟も海が大好きで、足が届かないところでも平気で泳いでいた。

泳いでいるそばをクラゲがプカプカと漂っていて、弟と二人で大騒ぎして、父が引いていたゴムボートに乗った。

母はまったく泳げないので、いつも岸にいた。子どものときは何とも思わなかったが、

母は退屈じゃなかったのだろうか? 

自分の夫と子供が楽しそうに泳いでいるのを見ているだけで幸せだったのか?

海に行くのを特に母が嫌がっていたような記憶はない。とにかく夏といえば海。海ばかり行っていた。

だから今も私は海が大好きで、行けばバリバリ泳ぐ。浜辺でくつろぐとか海にただ浮かんでいるとかじゃなく、

とにかく泳ぐ。



いつのまにか季節がずれてしまったけれど、

小2のときのクリスマスプレゼントは、私が(熊かキツネかいまだに不明の)ぬいぐるみで

チャックがついていて、洋服(なのか?)が脱げるようになっていて、結構気に入って遊んでいた。

弟はライディーンのプラモデル(っていうのかな?)、だった。

勇者ライディーン。 時代を感じる。




ベスト9から派生して考えたこと

2012-11-20 21:14:06 | 日記
今朝ニュースを見ていたら、プロ野球のベスト9が発表されていました。

今は、どんな選手がいるのかほとんどわからないぐらい、野球を観ることはなくなってしまいましたが、

父が野球好きで弟が野球をやっていたこともあり、子どもの頃は私にとって馴染みのあるスポーツでした。

選手の名前もかなり知ってました。弟と一緒にプロ野球選手大百科、みたいなの見てましたから。


今日のベスト9のニュースの中で、

平成4年のベスト9は9人中8人が西武ライオンズの選手だった…、

という映像が流れていました。

石毛選手やら伊東選手、そして森監督といった懐かしい面々が映っており、

「あーあ、確かにこの頃の西武は強かったね。西武の黄金時代だね」とテレビ相手に一人でしゃべっていると

「おかあさん、全部水色の服だね」と娘。確かにその頃の西武ライオンズのユニホームは、あの

べったりした感じの、いまひとつイケていない水色でした…。今も水色かもしれませんが…。

「そうだねぇ、このユニホームもなんか懐かしいなーあ。このころ西武は確かに強かった…」とつぶやくと

「おかあさん、これ昔のこと?」と娘。

「うん、かなり昔だね」。平成4年といえば20年前だから昔といえるでしょう。すると娘。

「恐竜がいたころ?」

!!!!!

「いやあ、そこまで昔じゃないな」

「そうか、恐竜はいなかったんだんだ…」

「うん、いないね。お母さんが高校生ぐらいだからもう恐竜はいなかったよ…」


20年前は昔ですが、恐竜がいたのも、娘のいうとおり昔のこと。

一口で“昔”といっても、人によってとらえ方も感覚も違うので、どれが正しくて

どれが間違っている、という話ではない。

でも“昔”= 恐竜がいたころ

っていうのは、さすがに子ども。と感心しました。

でも、「恐竜がいたころ?」と言われたときの意外さと驚きと面白さを感じたときの気持ちを

うまく言い表せない。つい、「さすが子ども」なんていうつまらない言い方でまとめてしまったけれど。




詩人である平出隆さんの叢書を購入したところ、

バックナンバーが昨日2冊、今日2冊届きました。

私が注文した分は、すでに7冊は既刊なので、全部一気に送られてくるのかな~?と思っていたの

ですが、こうやって少しずつ送ってきてくださるところが、なんかとてもいいです。

 

今日届いた『門司ン子版 ボール遊びの詩学』中で、

平出さんが最近の子どもたちに「ロクムシ」という遊びを知っていますか?

というアンケートをしたら、知っている子どもがいなかったという話を書いてらっしゃいました。

この文章を読むまで、私も「ロクムシ」という遊びがあったことをすっかり忘れていました。

「ロクムシ」はいつの間になくなってしまったのでしょうか? 

今度、甥っ子や友達の子どもに会ったら、私も聞いてみたいと思います。


平出さんが説明している「ロクムシ」と私の記憶の中の「ロクムシ」は

少し違う気もするのですが、じゃあ、自分が遊んでいた「ロクムシ」はどんなルールだったか?

と考えると、きちんと説明できない。

他にも「ロクムシ」ぐらいのスペースでできる違う遊びがあった記憶がかすかにあるけれど、

思い出せない。

小学校3~4年頃、いろんな遊びをやったように思うがはるか記憶の彼方。

覚えていなくても仕方がないけれど、記憶力はいいほうだと思っていたから、

遊びそのものが思い出せないのは、なんとなくショックだな、と今感じている。

自分の記憶力はいいほうだ、なんていうこと自体が単なる自分の思い込みなのかもしれない。


記憶力と関係あるかないかわからないけれど、子どもの頃に習ったピアノ、

中学時代にブラスバンドでやったフルートは今もどうにかこなすことができる。

ピアノを弾く指はたどたどしく、一番練習していた頃の半分にも及ばないけれど、譜面も読めるし

一応は指が動く。

フルートは音が出しにくい楽器だけれど、これも、かすれた音ながら出すことができるし、指づかいもきちんと覚えている。

少し続けて吹いていると、出る音もだんだんマシになっていく。

昔=子どもの頃に覚えたことは、頭にも体にもきちんと記憶されていて、すぐに取り戻すことができる。

でも大人になってから覚えたギターや三線は、ちょっと弾いていないときれいさっぱり、

あっという間に忘れてしまう。

そういえば、やっぱり低学年のときに習った水泳は今もきちんと体が覚えていて

たまにしかプールに行かなくても、そこそこに泳ぐことができる。

でもたぶんランニングは……、

40の手習いで始めたことだから、あっという間に体からリズムが抜けちゃって、

既に走れなくなっているかもしれない。