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2005年・盛岡クラシコ物語第一章

2005年というのは岩手サッカーにとって激動の始まりだったといえる年である。

岩手県サッカー協会が東北各県に先駆けて法人化したのはこの年の4月。そのことを知ってすぐに盛岡タイムスさんに書いた。

また、グルージャ盛岡のT1昇格で盛岡ゼブラとの盛岡ダービーが実現した年でもある。
そのころ最初のダービーマッチを前に、街の人々に話を聞いたり、両方の関係者を取材したりもした。

そして始まった史上初の盛岡ダービーマッチ、グルージャの猛攻をゼブラが耐える形でスコアレスドローに終わった。この時期オラはゼブラのサポーターというものに迷いを覚えており、ゴール裏ではなくメインスタンドで見ていた。
が、試合後あたかもオラがゴール裏にいたかのようなことを送る人間がいた。彼によれば、オラがゴール裏でメガホンを使ったとか。オラは2011年現在肉声だけで勝負している人間、メガホンを使ったことはない。
どうやら岩手日報の夕刊にゼブラのサポーターがメガホンを使ったことに対するクレームが載ったようで、それを聞いたオラはいろんな意味でもやもやした。

決着をつけようとした10月の第2ラウンドで、ゼブラはグルージャに負けた。あのとき青森方面のサッカーファンがオラの大文字を撮影していた。これ以降敗戦=大文字という図式ができたんだと思う。
あの試合の後、当時のグルージャの武藤監督がゼブラのサッカーを批判していた。守ってばかりの(これは僕の勝手な言い方かもしれないが)「ひきこもり」のサッカーだ、そう言ったのだ。確かにそれはあるかもしれない。グルージャと互角にやってて、よその県のチームに負けるというのはおかしい。
また、(今はグルージャも天皇杯でJチームと戦えるのだが)岩手県は当時天皇杯未勝利で全国のサッカーファンから嘲笑されていた。このときもJFLの佐川印刷に松江で2-4の敗戦後だったから、武藤監督の発言もただのゼブラ批判と言えなかったんじゃないかな?


ところがグルージャが大瀧直也や西洋祐らの給料未払いでゴタゴタが起こり、経営陣が刷新されることになった。結局吉田暢監督でチーム自体は今も存続しているのだが、ここでもし盛岡ゼブラとの合併という手段があったらどうなっていたのか…
武藤監督や斉藤乙らはFCガンジュ岩手を設立、ここもいま岩手のNo.1を狙えるクラブのひとつにまで成長した。

この2005年がひとつのターニングポイントだったのは、ファン・関係者全員が認めるところだろう。

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