Mr.トリックの科学・自然・子育て論議

どんな科学マジックでもすぐそのトリックが見破られるMr.トリックが、科学や自然それに子育てについて語ります。

頭の中をアップデートしない限り追いつけない

2020-08-28 05:54:07 | 日記

新興感染症といえるコロナ感染症の終息がなかなか見えてこない。
一方では、日々続く猛暑や豪雨などの気候変動。
涼を求めて山に入ろうとすればツキノワグマやイノシシなどの野生動物との遭遇。
いったい、この先どうなるのかそれに対して自分はどう構えていくのか、さほど中味の詰まっていない頭を日々ふり絞る。
自分の仕事としている親子や子どもたち向けにガイドしたり話をしたりする場合にもこの頃はこれらの問題を避けて通れない。
それでも、気づいてきたことはある。
それは、考える頭の中をアップデートし続けることで見えてくるものがあると。
アップデートとは、いうまでもなく、ソフトウェアを更新してスマホやパソコンのシステムを最新の状態にすることだ。 
頭の中をソフトウェアと比較するなんて・・・・とも思われるかもしれないが、常に最新の情報や知識を取り入れ、なおかつ柔軟な思考ができるような状態にしておくといったらよいのかもしれない。
そのためには日々研さんだ。
研さんを進めていくためには、次の3つがポイントになると考えている。

➀人から学ぶ
②本や図鑑など書物から学ぶ
③自然のフィールドから学ぶ

➀はいうまでもない。
周りの方々にはそれぞれの分野で、これまで蓄積されてきた深い知識や技術を持っている方が多い。
キノコと言えばこの方、粘菌と言えばこの方などその方の顔を思い出す。
直接教えをいただけるにこしたことはないが、必ずしもそうはいかないだろう。
その方が主催ないし講師となる観察会でも良いだろう。
直に学べば、その方の人となり生き方まで吸収できる。
もちろん、今の時代なら、電話やSNSを使って学ばせてもらったり教えを請いたりできる。
ただし、教えをいただいた以上はお礼だけでなくすぐに自分でも調べてみることが大切だ。
簡単に「食べられるか食べられないか」「名前は○○だ」がわかったからといって自分で確かめてみなければそこで思考が止まってしまう。

②は、一人でもできる。
私はできるだけ多く本を読むようにしている。
雑誌や小説などをのぞけば月10冊程度だろうか(おそらくこれでも不十分だ)。
本代がかさめば図書館から借りることにしている。
今は図書館同士がネットワークでつながっている。
お目当てのものが図書館になければ市内の図書館それでもなければ県立の図書館で検索してもらえる。
たいがいは、それで間に合う。
私がしばしば頭を悩ませているのは、生物の同定だ。
持ち合わせの図鑑でもそれが古ければ古いほど正しい情報に行きつかないこともある。
例えば、昔は食用であったが今は毒キノコのスギヒラタケの場合がある。
だから図鑑は新しいものがよい。
それとて、たまに間違った記載がある。
図鑑はその分野に関して1冊だけではなくできれば3冊あればよいだろう。
ネット検索は信用できるものが良い。
ネット上には、怪しい情報もありふれているからだ。
自分の考えを骨太にするには、確固とした哲学を持っておられる方の著作がよい。
最近、私が読んだ著作では、「虫とゴリラ」(養老孟子・山極寿一著・毎日新聞出版)が印象に残っている。
大切だと思った箇所はそのページに折り目を入れて再度見直したりノートにその部分を書き出したりしている。
書き出したものをあとで見返すとそれだけでも自分の考えにしっかりとつなげることができる。

③は、最近特に大事だと思うようになった。
いうまでもなくフィールドの自然は、一日として同じ姿を見せない。
毎日変化しているのだ。
できれば「マイフィールド」と呼べるフィールドを持ち、毎日歩いてみるのが良いだろう。
とはいっても毎日となると容易ではない。
私は自宅から2キロメートル先の真人公園ならびに真人山をマイフィールドと呼んでいる。
5分でも歩けば生物の変化に驚かされてしまう。
それを自分一人のものにしまっておくだけではなくマイフィールドを自然観察会のフィールドにしてしまう。
それによって、より多くの方に身近な自然にも不思議や変化があることに気づいてもらうことができる。
また、フィールドの自然には、自然の摂理というものがたくさん隠されている。
これほどの香りがする草木になぜこのイモムシが食草とするのか他のイモムシはなぜ来ないのかまるで競合しないようにそれぞれがそれぞれの草木を食草としていることに驚いてしまう。
なぜ、この花はこんな形をしているのか、それはある種の昆虫に花粉を運んでもらうための形であったり光をより多く集めるための形であったりする。
秋に赤い実を付ける植物はなぜこれほどまで赤くするのか、そこにはその赤色につられて野鳥たちがやってくる。
おまけにまるごと食べられても種子は消化されない仕組みで野鳥の糞まるごと移動先の場所に落とされてしまう。
自然の中を観察しようとすればするほど不思議だが実にうまくできていることに感心してしまう。
自然の見せる姿は、私たちヒトが生きていく上で大切なことを教えてくれているような気がしてならない。
自然は、先生なのだ。
だから、私も努めて自然の中に入っているといってもよいだろう。

とここまで書いていたら、それでもフィールドの中に入っていくことの魅力を十分書き表せないでいる自分に気が付いた。
こうなればアップデートし続けるしかない。
頭の中がアップアップしない程度にね・・・・

おまけ。より多くの方に楽しく伝えるにはユーモアを忘れない。

※写真は冬虫夏草。まだ詳しくは解明されていません。


虫の音に季節の移り変わりを感じる

2020-08-19 05:59:25 | 日記

日中、どれほど残暑が厳しかろうとも秋の到来を感じてしまう。
それは、昼夜の時間の変化であり朝夕の涼しさからである。
と同時に、夜鳴く虫たちの音を聞いていると今年も夏が終わるのかとしみじみ感じてしまう。
夜、少しだけ窓を開けて休んでいると夜通し鳴く虫たちの声が聞こえてくる。
不思議なことに、鳴き声を聞いていると様々な思いが重なってくる。
それは、過ぎ去った時間と共に浮かぶ身近な人の存在であったり様々な思い出であったりする。
私たち日本人は、それを古来、俳句や歌などに表してきた。

      窓の燈の草にうつるや虫の声 (正岡子規)

日中のセミの鳴き声とて同様である。
一口にセミといっても時間の移り変わりと共に鳴き声も変わってくる。
5月のエゾハルゼミの鳴き声が終わるや否やヒグラシやアブラゼミの鳴き声が聞こえてきた。
ほどなくニイニイゼミの鳴き声も加わった。
今は、ミンミンゼミやエゾゼミがしきりと鳴いている。
まるで、時間の経過と共に少しずつ変化するセミたちの合唱団のようである。
これもまた多くの俳句に歌われている。

   秋風にふえてはへるや法師蝉(高浜虚子)

昨年の2月から3月にかけて、ニュージーランドでホームスティした時のことだ。
ニュージーランドは、南半球に位置するから、季節は日本と全く正反対だ。
2月から3月といえば、日本でいうと8月から9月にかけてというイメージだ。
夜、わずかに開けた窓の外からコオロギなど虫の音が聴こえて来た。
ホームスティ宅のベッドで横になりながら、その音を聞いていた。
日本で聞いていた時のようにどこかもの悲しく寂しささえ感じるあの音だ。
翌朝、夜に聴こえる虫の音をどう感じるかとホームスティ宅の主人に聞いてみた。
主人は、迷わず一言で答えた。
「Noisy!」
毎日、往復1時間弱かけ歩いて英語学校に通っていた途中、必ず通る公園で聞いていたおそらくアブラゼミの仲間だろう鳴き声についても思い出した。
そこで、主人に続けて聞いてみた。
セミの鳴き声はどう感じるかと。
答えはやはり
「Noisy!」
だった。
ホストファミリーの主人は、とても親しみやすく親切かつ紳士的な方ではあったが、それとは全く関係なくおそらくニュージーランドの方々にとっては一般的な答えであったのかもしれない。

つくづく日本人であることの感性の深さを思わざるを得なかった。
だからこそ、日本人は古来から俳句などに季節の変化を映してきたのだろう。

先日は、真人公園で土中から出て来たばかりのセミの幼虫を見ることができた。
アブラゼミだろう、ソメイヨシノの木を目指して歩いている。
思わず、家に持って帰ってふ化の様子を観察してみようかとも思ったが、一緒に観察する相手がいるわけでもなし、やめた。
このセミが数年もの間、土中で暮らし、今まさに飛び立とうとしているチャンスなのだ。
しかも成虫の時期は短い。
最近の研究では、1か月ほどという報告もあるが、それとて私たちのライフサイクルと比べたら短いことに変わりはない。
それを思えば、とても観察しようという気も起こらない。

再び、あのセミの幼虫が歩いた場所を歩いてみた。
あのセミは無事ふ化し、子孫を残すことができただろうかなどと思いを寄せながら、夏の終わりを感じていた。

    鳴き立ててつくつく法師死ぬる日ぞ(夏目漱石)


子どもの役割・大人の役割

2020-08-13 05:45:56 | 日記

先日は、全国森林インストラクター会を通じて、zoomによるオンライン会議なるものに初めて参加し、終始エキサイティングな時間を過ごすことができた。
会議の内容も文部科学省(以下文科省と記述)の委託を受けた子どもの自然体験事業についての説明でありそれを受けた質疑応答であったが、私も自身の考えを表明することができ、充実した90分となった。
同時に、このコロナ禍の状況にあり、いかに日本の子どもたちの自然離れが進み、それに対しての文科省の危機感が強いものかを目の当たりにすることができた。
私たちの立場は、あくまでも学校教育をサポートすることにあるが、それにしても子どもたちの自然離れはこの間、ますます進行していると感じた。

私は、自分のフィールドを中心に、6月以降、細々とかつ大胆に自然観察会を進めているが、申込者の数からいっても昨年までのそれとは全く違うほどの多さであり、それはいかに自然の中で遊ぶこと・学ぶことを欲しているかを十分感じさせるものであった。
それは、保護者(大人)の願いであり子どもの欲求でもある。
だからこそ、私自身も改めて身の引き締まる思いを感じていた。
もはや「子どもを教え導き育む」といった公の仕事からは身をひいた私であるが、今自分のやろうとしている活動がただの楽しさを超えて子どもを育むことにつながっているのではないかと強く思えるようになっていた。

最近、読んだ稲垣栄洋さんの著書の中に「子どもの役割」として次のような記述がある。

 子どもの役割は明確です。それは、「大人になること」です。しっかりとした大人になるために、しっかりとした子ども時代を過ごすことです。それが子どもの役割なのです。それにしても、最近は人間も大人と子どもの区別がつきにくくなりました。大人びた子どもらしくない子どもが増える一方で、大人になりきれない子どもじみた大人が多いように思えるのが気になるところです。(稲垣栄洋「生き物が大人になるまで」大和書房より)

また、稲垣さんによるとイノコヅチ(ヒユ科)は、その葉を食べようとするイモムシに対して、イモムシの成長を早める成分(ある種の昆虫変態ホルモン)を含んでいるという。それによって、十分な葉を食べることができずに早く大人(成虫)になってしまったイモムシは小さな成虫にしかなれないのだという。

単純にこれをヒトに当てはめることはもちろんできないことであるが、多くの示唆を含んでいると考える。
そんなことを漠然と考えているうちに、NHKのテレビ番組「アファンの森よ永遠に~CWニコルからのメッセージ~」に出会った。
生前、ニコルさんが築き上げた業績は大きいのだが、中でも番組終わりの場面で東松島の小学校づくりに関わっていたことのスケールの大きさは、筆舌に尽くしがたい。
森を作る活動は子どもを育てていたのである。
森も子どもも1年やそこらで育つものではない。
それこそ、手をかけ声をかけ見守っていく中で育んでいたのである。
到底、ニコルさんの真似は誰でもできるものではないが、微力な私でも何かできるかもしれないーそう元気づけてくれた番組であった。

子どもはかわいい存在だ。
子どもが大人のまわりにいるだけで、大人を和ませ、エネルギーを与えてくれる。
その役割は大きい。
だからこそ、大人は守ってあげなければならないし、守られる存在なのだろう。
同時に、子どもは未来を生きる存在だ。
守ってくれた大人がいなくなっても生き続けていかねばならない存在だ。
だとしたら、今を生きる大人の役割は見えてくる。
子どもを育んでくれる自然は?環境は?
守るべきものは?あるべき姿は?

昨年、観察し続けたカンムリカイツブリ、今年観察したノスリどちらの親も生まれてきたヒナをとことん守り、育てていた。
だが、ある時期が来ると自立を促していた。
それは、どんなに子どもが親に甘えようとも厳しい親の姿を見せていた。
カンムリカイツブリもノスリも野鳥であり、自然の一つの姿である。
私たちヒトが彼らと違うところは、およそ20年という長い時間をかけてする子育てである。
また、親だけが子育てにかかわるわけではないことも違う。
学校という存在をのぞけば、「おばあさん仮説」を引き合いに出すまでもなく、祖父母や近所の方のみならず、さらには地域の方々の力が大きいだろう。

こんなことも頭の片隅に入れながら、自然観察会をもう少し続けてみよう。
そのうち、「それは大切なことだ」「私もやりたい」という方が現れてくることを願いながら。

※写真はカンムリカイツブリ親子。親の背中に乗り、守られている子ども。


里山のフィールドワーカーでありたい

2020-08-05 06:13:50 | 日記

 自宅から2キロ先のマイフィールドと呼ぶ真人山(まとやま・標高391M)に通い続けてもう30年あまりになる。
 現職時代は、多忙な仕事のゆえ、頻繁に通うどころでなかったが、それでも時間を見つけては歩いていた。
 退職してからは、生物記録を取ることを目標に歩き続けている。
 今年も1月1日以来、8月3日で45回を数えた。
 これを多いとみるかたいしたことはないと見るか様々な見解はあるだろうが、年間目標を100回ととらえるならば、決して多くはないだろう。

 ここ数年は、備忘録をかねて真人山を歩いては、見つけた生物を記録してはフェイスブックで発信し続けている。
 それほど自然度の高い里山とは思えないが、たまに出会うだろう珍しい生物たちの姿に喜んでいる。
 時には思わぬ動物、たとえば冬場にひょっこり現れたニホンリスの姿には癒やされていた。
 さほど自然度の高い里山でなくても春夏秋冬歩き続けることによって新たな発見があるものだ。
 ところで、発信したフェイスブックでは、少なくない方から、
「真人山ってたくさんの自然があるのですね。」
という声をいただくが、これは真人山に限ったことではないと考える。
 今、住んでいるどんな場所にも里山(ここでは、「里山」をシンプルに人間の活動とつながっている多様な生き物たちが住む生態系ととらえたい)と呼ばれる場が広がっているはずだ。
 それが私にとっては、たまたま真人山であるわけだ。
 だから、住む場所が真人山から遠ければそれが違う場所であって良いわけだ。
 そこにはそれぞれ、そこで暮らす多様な生物の姿が見られるはずだ。

 その地でじっくり年間通して歩けば見えてくるものがあるのだ。
 だから、とことんその地を歩き通すことにしたいものだ。
 いわば春夏秋冬自分のフィールドを観察し続けたい。
 そして、五感を通してフィールドで感じられるものを大切にしたいのだ。

 現京都大学総長であり、霊長類学・人類学者の山極寿一さんは、フィールドワークの心得として次のようなことを述べておられる。
 少し、長くなるが引用したい。

 (フィールドワークの)心得の二つ目は、動物の五感で周囲を見るということです。
 <中略>
  ただ、言うは易し。サルの五感を使うことを阻む要因は、実はサイズや能力の違い
 だけでありません。今を生きるぼくたち人間は、実際の五感で感じる世界ではなく、
 フィクションのフィルターを通して自然を眺めています。その大きな要因となってい
 るのが言葉です。たとえば、木々に葉を見たとき、ぼくたちは「緑の葉だ」と思いま
 す。実際には、ひと口に「緑」といっても、色は一つではありません。「赤」と呼ぶ
 実がすべて同じ色でもありません。「緑」「赤」という言葉があるために、「緑の葉」
 「赤い実」として括ってしまっているだけです。自分の視覚で捉えたものを、自分が
 もっている言葉に翻訳してしまう。この時点で、フィクションに変えてしまっている
 のです。
  逆にいえば、人間同士が経験を共有できるのは、言葉によってフィクションをつく
 ることができるためなのですが、フィールドワークではあえてそのフィクションを頭
 の外に追いやることが必要不可欠です。言葉をもたないサルと行動を共にして、サル
 の視線を追ってサルが見たものを視覚で捉えたら、それをあえて言葉に翻訳をしな
 い。これがフィールドワークの極意です。
 (山極寿一「スマホを捨てたい子どもたち」ポプラ新書より)

  「動物の五感で周囲を見る」ことなどは誰でも簡単にはできることではないだろうが、その域に達せられたら、人間社会や人間という存在そのものが全く違ったものに見えてくるに違いない。
 そして、実はそれが今の時代に生きる私たちに課せられた課題解決のための糸口につながっていくことになると感じてしまうのだ。
 もっとも、かの宮沢賢治には、それが見えていたのだろう、しかもそれを言葉にできている。

 こんな視点で、写真にも収められたら良いだろうなといつも思う。
 それは、写真の「美しさ」を超えて、訴えてくるものがあるに違いない。
 なかなかそのような写真など撮れないのだが・・・・
 
 もう20年以上も前の話になるが、大館市を起点に一人白神山地の山に通い続けたことがあった。
 それは、いつも大館を早朝3時過ぎには出発し、日の出と共に登山を開始するものであったが、途中、登山道であっても様々な動物たちが目の前を通り過ぎていくのを目にした。
 中でも藤里駒ヶ岳の山頂でのことだ。
 遠くに見える日本海をぼーっと眺めていると山頂すぐ下の方から今まで聞いたことのない鳥だろう鳴き声が聞こえてきた。
 そのとき、ふと大きな鳥が目の前に現れたのだ。
 イヌワシだった。
 おそらく若いイヌワシだったろうが、あまりにびっくりしてただ息をのんでいた。
 それ以上にイヌワシの方が驚いたのだろう、イヌワシが一瞬まるでホバリングするかのように羽ばたきながらちらりとこちらを見たのだろうかすぐに向きを変えて遠くの山に飛んで行った。
 それも驚くほどの速さで。
 あっという間の時間だったろうが、不思議な時間だった。
 それ以来、目の前にイヌワシが現れたなどということは一度もない。
  当然の成り行きだろうが、カメラが目の前にありながら、ついに写真を撮ることなどは忘れていた。
 もしかすると私も人であることを忘れて野生の一つになっていた時間だったかもしれない。
 白神山地でなくともこれからもマイフィールドに通い続けるだろう。
 無駄な努力だと思いながら、野生の動物になりきったつもりで観察し続けたい。