5月28日の能代市の13名の皆さんを案内して5月のネイチャーガイドはひとまず終了した。
4月22日以降、人数にして(複数によるガイドを含め)述べ265名の皆さんを真人山や黒森山それに三平の里周辺など里山を案内したことになる。
我ながら驚くほどの数であるが、問題は案内した方々にしっかり里山の魅力を伝えられたかどうかにある。
私が、いつも理想に描いていること・願っていることは次の2点である。
①より多くの子どもたちに(里山の)自然に触れてもらいたい
②より多くの方々に水辺や公園を含む里地や里山の自然を活用し親しんでもらいたい
それは完ぺきとは言えないものの貫いてきたつもりだが、あとは内容である。
ご存じのように私は、植物や野鳥や昆虫の専門家ではない。
まして、研究者とはいえない。
ただ、(里地里山の)自然と人との橋渡し役いわばインタープリターでありたいと願ってきた。
目の前で起きている自然現象をわかりやすく楽しく伝えたいと願ってきた。
そのためには、自然のこととりわけ生き物の生態を知らねばならないし、背景となる歴史や文化など理解していかなければならないと心がけてきた。
そのための日々の勉強はしてきたつもりだが、深めれば深めるほどわからないことが増えて、時にはつまずくことも多かった。
それは、参加される皆さんからの質問への解答であったり的確な解説ができなかったりしたときに痛感した。
そのたびに自宅に帰ってからは復習の連続であった。
そこで見えてきたことはあった。
それは、
「ヒトは自然の一部であると同時に植物や野鳥それに動物や昆虫など生き物はすべてつながりあって生きている」
ということだ。
当たり前といえば当たり前のことだが、ここにきてようやく見えてきた。
例えば、多くの植物は子孫を残していくためには、花粉を運んでくれる昆虫や野鳥がいなければそれは不可能である。
また、種子を運んで(食べて)くれる昆虫や野鳥がいなければ植物は子孫を残すこちができなかった。
例えば、カタクリやスミレはアリがいるおかげで、種子を親元から離れたところに運んでもらえる。
それもエライオソームといういわばアリにとっての食料付きである。
樹木の実が赤いのは、野鳥たちにとって目立つ色だからだ。
その色を目指して野鳥たちは赤い実にやってくる。
食べた後は、種子だけは消化されずにこれまた親元の場所から離れたところにフンとして運ばれる。
樹木によっては、赤い実になったばかりの頃は味がまずいだけでなく毒まで含んでいるものまである。
ところが、それは冬の寒さを通り越して食料不足となった冬のさなかに食べごろを迎える。
2月ごろ、ナナカマドやカンボクなどの赤い実がようやく見えなくなるころがそれである。
クルミやドングリなどは、ネズミやリスたちにとって格好の食料となる。
幸いなことに、ネズミやリスは貯食する習性がある。
貯食してもすべてが食べられるとは限らない。
中には地中に埋まったものがある。
それらがやがて芽を出すことになる。
先述したが、植物も「親離れ子離れ」している。
近くに親植物があれば、日陰になり水や養分も奪われてしまう。
だがそれ以上に問題なのは、近親同士で交配するという自殖が問題だからだ。
生き物には「自殖劣勢」というものがある。
自殖によって遺伝的に弱い子孫が生まれる可能性が高いことだ。
どんな環境にも耐えられる多様性というものが生まれないからだ。
だから植物によっては、オスとメスが別の株であったり中にはおしべとめしべの成熟をずらすものさえある。
それだけ自殖はリスクが高いということだろう。
それでいながら自殖は確実に子孫が残せる方法だ。
そのため、自殖と他殖の両方を準備しているものさえある(ツユクサなど)。
植物によっては、子孫を残すため上手に昆虫や動物を利用しているのがあるが、中には食べられすぎまいととげや毒をもったりするものまである(被食防御戦略)。
春を迎え、夏鳥がやってくる季節になると草木の葉が展開する季節でもある。
昆虫たちにとっては幼虫が育つ季節だ。
食欲旺盛な幼虫たちにとっては展開したばかりのやわらかい葉はまさにごちぞうだ。
それは夏鳥たちにとってはごちそうだ。
展開した葉は、野鳥たちにとっては天敵から逃れる場所となるし、食料となる幼虫たちそれは野鳥の子育てにとって絶対必要な食料でもある。
もちろん、生き物同士のつながりはすんなりと続けているわけではない。
時にはだましあい、時には人間にとって「ずるい」と思えることもあるだろう。
しかし、それは一方的にどちらが不利とか有利だとかとなるものではない。
バランスが取れているのである。
だから生き物たちは昔から今まで生き続けて来られたのである。
もし、絶滅する種がいたするとほぼ人間活動によるものであるといえるだろう。
こんな生き物同士のつながりは、まさに目の前で起きているのだ。
もっともただ野山を歩いていただけではそれは見えるものではない。
それが見えるようにしていくのが私の仕事ではないのかと思えるようになってきた。
もちろん、一見して見えないものを見えるようにするなどということは簡単にできることではない。
時には、話の内容で、またあるときには自分の撮った写真で、またあるときには目の前の痕跡で少しでも見えるように務めていくのだ。
この頃、少しずつだが自分自身の役目というものがわかるようになってきた。
6月からは里山だけでなく滝や川など水辺もフィールドとして加わるようになる。
6月7日には、里山講座も始まる。
さて、次はどんなストーリーを描いていこうか。
今は、それを想像するだけでわくわくしてしょうがない。