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新沼健のAirmail Special

旅先で撮りためた写真を公開することにしました。

大パノラマ ナスカの地上絵

2011-11-27 06:04:15 | 1994年南米
▲ CONTAX RTS  PLANAR 85MM ハチドリ


東京自由が丘のセレクトショップ、ブティック自由が丘101の新沼健です。
仕事と関係なく、趣味で撮りためた写真を公開することにしました。

マチュピチュからの帰路、クスコに近づくにしたがって、すっかり治まっていた高山病の症状がぶり返します。

翌朝、クスコをたってリマに移動。 リマ空港で、申し込んでおいたナスカ地上絵への1日ツアーに参加。 本来、最少催行人数は2名とのことで、前日の確認の時点で自分一人の参加者しか無く、このままだとツアーはキャセルということで仕方なく、2名分の料金を払うことで、ツアーを開催してもらいました。

▲ CONTAX RTS  PLANAR 50MM 小型遊覧飛行機


リマからナスカへは、双発のプロペラ機で海岸線を南下。 小型遊覧飛行機に乗り換えて、上空1-200メートルからナスカの地上絵を見学。

▲ CONTAX RTS  PLANAR 85MM ハチドリ


▲ CONTAX RTS  PLANAR 85MM 花


▲ CONTAX RTS  PLANAR 85MM 犬


▲ CONTAX RTS  PLANAR 85MM 猿


▲ CONTAX RTS  PLANAR 85MM 宇宙人


竹内まりやの「Love Songs」というアルバムに、ナスカの地上絵を歌った「磁気嵐」という曲があるのですが、その歌を聞いていた大学生時代、こうして自分がナスカの地上絵をみることが出来るとは思っていませんでした。
こうした機会をくれた社長に感謝ひときわでした。
翌日、リマから帰国の途につきました。

1994年 南米編 終わり



空中都市マチュピチュ 世界遺産

2011-11-24 05:30:56 | 1994年南米
▲ CONTAX RTS  DISTAGON 25MM マチュピチュ全景


東京自由が丘のセレクトショップ、ブティック自由が丘101の新沼健です。
仕事と関係なく、趣味で撮りためた写真を公開することにしました。

バスを降りてからガイドの後をついていくこと10分、狭い山道を登って降りると突然視界がひらけ、空中都市マチュピチュが全容を現しました。
テレビの映像、書籍の写真どおりなのですが、実物が眼前に迫ると感動ひとしおです。





▲ CONTAX RTS  DISTAGON 25MM


▲ CONTAX RTS  PLANAR 50MM インカ時代当時のままの精緻な石組み建造物


▲ CONTAX RTS  PLANAR 50MM インカ時代の土台の上の最近修復した石組み


▲ CONTAX RTS  DISTAGON 25MM 段々畑


▲ CONTAX RTS  DISTAGON 25MM









▲ CONTAX RTS  DISTAGON 25MM


空中都市マチュピチュでの滞在時間は、3~4時間に過ぎませんでしたが、高山病の症状もピタリと治まり、とても充実していました。
名残り惜しいのはやまやまでしたが、列車とバスを乗り継いで、クスコに戻りました。 

ナスカへ 続く


空中都市 マチュピチュへ

2011-11-02 22:27:03 | 1994年南米
▲ CONTAX RTS  DISTAGON 25MM マチュピチュ


東京自由が丘のセレクトショップ、ブティック自由が丘101の新沼健です。
仕事と関係なく、趣味で撮りためた写真を公開することにしました。

クスコとサクサイワマン観光の翌日、マチュピチュへの日帰りツアーでした。

高山病の症状は一向に和らぎません。 頭は重く、息苦しさは相変わらずです。
何度もマチュピチュ観光をキャンセルして、ホテルで寝ていようかと悩んだのですが、いくら寝ていても高山病は治らない、何が何でもマチュピチュへ行こう、と気合を入れ、ツアー集合場所の駅前まで行きました。 そこは間違いなく鉄道駅であったのですが、列車の代わりに 30~1時間ほど バスに乗り、別の鉄道駅に到着。 そこでマチュピチュ行きの列車に乗りました。

写真で見るマチュピチュは、相当な高地にあるように見えましたが、実際は、クスコよりはるかに標高が低く、マチュピチュに近づくにつれ、体調が劇的に回復しました。



▲ マチュピチュ遺跡最寄駅 標高2000メートルとあります CONTAX RTS  PLANAR 50MM


▲ CONTAX RTS  PLANAR 50MM


駅からつづら折りのハイラムビンガムロードをバスで一気に上り、いよいよマチュピチュ遺跡と対面です。


つづく

クスコとサクサイワマン

2011-10-17 20:57:20 | 1994年南米
▲ CONTAX RTS  PLANAR 50MM サクサイワマン


東京自由が丘のセレクトショップ、ブティック自由が丘101の新沼健です。
仕事と関係なく、趣味で撮りためた写真を公開することにしました。

一晩寝れば、体が高地に馴れるのではないか、そんなささやかな望みは、目覚めと同時に打ち砕かれました。
翌朝も息苦しさは相変わらずで、体も重く、階段を登り降りするのも休み休みです。
朝食も喉を通らず、高山病に効くという「コカ茶」をがぶ飲みしても、インカコーラを飲んでみても高山病の症状は一向に和らぎません。

リマで予約していた、クスコと周辺遺跡の半日ツアー、直前までキャンセルしようかと思っていましたが、せっかくクスコまで来たのだからと参加しました。
外の冷たい空気に触れると、少し元気になりました。









▲ CONTAX RTS  PLANAR 50MM サクサイワマン




▲ CONTAX RTS  PLANAR 50MM インカの水道?




▲ CONTAX RTS  PLANAR 50MM インカ帝国 精密な石組み


▲ CONTAX RTS  PLANAR 50MM 路上モデル モデル代1ドル請求されました



マチュ・ピチュへ つづく

クスコでクスケーニャ

2011-10-09 05:26:12 | 1994年南米
▲ クスコ全景 CONTAX RTS  DISTAGON 25MM


東京自由が丘のセレクトショップ、ブティック自由が丘101の新沼健です。
仕事と関係なく、趣味で撮りためた写真を公開することにしました。

ラ・オロヤ精錬所訪問の翌日から、有給休暇をいただき、インカ帝国の首都であった、クスコに飛行機で移動しました。
 
クスコも標高が高く、街全体が富士山頂並であるとのことで、リマの人達からは、「走らず、ゆっくり歩く」よう注意されていましたが、飛行機をおりた瞬間から息苦しく、走れと言われても走ることは出来なかったと思います。 また、街を走り回る自動車は、高地用にエンジンが調整されていないようで、ほぼ例外なく、もうもうとした白煙をあげていて、そのせいか、空気もひどく悪かったように感じました。


▲ CONTAX RTS  PLANAR 50MM


到着したのが午後であったこともあり、この日はホテル周辺を散歩するだけにしました。

リマの人達から、クスコには、クスケーニャという美味しいビールがあるから、是非飲んでこいと言われておりました。 
夕食の時、それを楽しみにしていたのですが、既に高山病の症状が出ていたため、美味しいと感じることが出来ず、ビールも食事もほとんど残してしまい、部屋にやっとの思いでたどり着き、シャワーも浴びずにベッドにもぐりこみました。

後日、リマで飲んだクスケーニャは大変美味しかったのを付け加えておきます。

つづく

ラ・オロヤ精錬所訪問

2011-10-03 09:00:33 | 1994年南米
▲ 出荷を待つ亜鉛地金 貨車はリマ近郊のカヤオ港まで直行


東京自由が丘のセレクトショップ、ブティック自由が丘101の新沼健です。
仕事と関係なく、趣味で撮りためた写真を公開することにしました。

工場訪問は、おおよそ2時間ほど続きました。

▲ 工場長の好意で、部外者以外立入禁止の「銀の部屋」へ入れていただきました


▲ 電解槽から引き上げられた鉛板 鉛色でなく、ピカピカに光る銀色です


▲ 地元のローカル局よりインタビューを受けるI社長


わずか2時間ほどの見学ではありましたが、高山病と悪い空気(スモッグ)のため、かなりくたびれました。


つづく

ラ・オロヤ精錬所訪問

2011-10-01 15:22:23 | 1994年南米
▲ CONTAX RTS  DISTAGON 25MM ラ・オロヤ精錬所


東京自由が丘のセレクトショップ、ブティック自由が丘101の新沼健です。
仕事と関係なく、趣味で撮りためた写真を公開することにしました。

セントロミン・ペルー社の主力工場である、「 ラ・ オロヤ精錬所」は首都リマから200キロほど離れた、アンデス山脈の山中にあります。
標高は4千メートル近く、富士山頂より高いところにある非鉄金属の総合精錬所で、周辺にある銅・亜鉛鉱山から採取した鉱石を、銅・鉛・亜鉛と、副産物である、金・銀の貴金属及びマイナーメタルに精錬しています。

セントロミン・ペルーのリマ事務所を発した車列は、山道のハイウェイを飛ばします。
どんどん標高が上がり、千メートルを超え、2千メートルを超えていきます。
私の場合、標高2千メートルまではほとんど変わりませんが、それを超えると、少しづつ息苦しくなってきます。 社長のI氏は、車内備え付けの酸素ボンベを赤ん坊のように抱えて離しません。 

リマからの車列が精錬所に到着、車を降りるとき、高山病のため、異様に足取りが重かったことと、スモッグのため、異常に息苦しかったことを覚えております。 高山病の症状軽減のため、工場長公邸にてツアー全員、1時間ほどの小休止。 来客用部屋には、ごつい酸素ボンベが2本備えられていました。

▲ 技術課長より諸注意を受け、防毒マスクを渡される


▲ 写真を撮るため防毒マスクを外す


小休止の後、工場の見学です。 
社長のI氏より、フジモリ大統領以前のめちゃくちゃな経済政策のため、セントロミン・ペルー社では、設備投資の余力が無く、工場内外の環境は劣悪、と聞かされておりましたので、それ相応の覚悟はできておりましたが、見学ツアーの最初に、防毒マスクを渡され思わず絶句!!

以前に、このラ・オロヤ精錬所の数倍の規模を誇る、日本最大の銅精錬所である、日本鉱業(現日鉱金属)の佐賀関精錬所を見学させていただいたことがありますが、 防毒マスクが必要になることは、平時においては考えられません。

▲ 粗銅


▲ 銅の電解槽


▲ 出荷を待つ棹銅 まだ熱い


工場見学  つづく

リマ事務所に集合、オロヤ精錬所訪問

2011-09-30 07:40:28 | 1994年南米
▲ アンデス山中にある、セントロミン・ペルー社、標高4千メートル オロヤ精錬所


東京自由が丘のセレクトショップ、ブティック自由が丘101の新沼健です。
仕事と関係なく、趣味で撮りためた写真を公開することにしました。

この日は、リマ事務所に集合し、希望者がセントロミン・ペルー社の主力工場である、「オロヤ精錬所」の訪問です。
当然、社長と一緒に訪問です。

▲ リマ事務所 左 社長、右 営業部長


▲ 社長秘書


▲ お世話になった営業課長


▲ 丸紅からもらったカレンダーが自慢の総務課長


事務所を発し、標高2千メートルくらいまでは、元気いっぱいだったんですが.......

つづく

リマでパーティーパーティー 垣間見たペルーの事情

2011-09-28 09:34:30 | 1994年南米
▲ CONTAX RTS  DISTAGON 25MM


東京自由が丘のセレクトショップ、ブティック自由が丘101の新沼健です。
仕事と関係なく、趣味で撮りためた写真を公開することにしました。

▲ CONTAX RTS  DISTAGON 25MM


この日は、ホストであるアドルフォ氏の、友人の友人が、名人ということで焼き方をつとめました。

▲ CONTAX RTS  DISTAGON 25MM アロハの人がこの家の主人


大きなお屋敷に、プール付きの広大な庭、たくさんの使用人、邸宅であったアドルフォ氏のお家が小さく見えるほどです。

▲ CONTAX RTS  DISTAGON 25MM 奥さんと子供たち 後ろが乳母


▲ CONTAX RTS  DISTAGON 25MM キッチン










▲ CONTAX RTS  DISTAGON 25MM


ペルーの経済を動かしているのは、間違いなく、彼らとそのネットワークでした。
彼らとは、スペイン系白人のことです。 ペルー独立後も、ずっとペルーの経済を牛耳っていたのは、スペイン系白人達で「上流階級」を形成しています。
「上流階級」男性には混血もいるようですが、奥さんたちは全員、例外なく、混血していないスペイン系の白人です。

▲ CONTAX RTS  DISTAGON 25MM


「上流階級」の彼らは嫌味な奴らか? 全く正反対でした。 
とても気さくで情に厚く、幼児にいたるまで英語が堪能で、フォローできないほど話題の幅が広く、延々と飲み食いします。 

しかし、経済に対しては実にシビアで、彼らスペイン系白人の「上流階級」までもフジモリ大統領を支持していたのは、フジモリ大統領が経済の安定を取り戻したからです。
海外に向けていた投資を、ペルー国内に出来るようになったと喜んでいました。
フジモリ大統領があのような形でペルーを追われたのは、彼らとの軋轢が原因と見て間違いないでしょう。

日本人の私からすると、少々複雑な感情を持たざるを得ません。
この屋敷に来るまで、信号待ちの度にネイティブ(インディオ系)の物売りの幼女が車に駆け寄り、「買って、買って」と呼びかけるわけです。 かたや、お屋敷の庭でプール遊びです。 
彼ら(ネイティブ)としては、生まれて以来、ずっとそのような状況が続いているので、スペイン系白人のみが経済を支配することや、考えられないほどの経済的格差が現実に存在しても、格別に不思議とか不合理とか思っていないようです。 
かえって、この家の使用人たちは、綺麗な仕事ができて幸せである、と思っているようでした。

植民地になるってこういうことなんだ、日本人が日本人でいられるのは、明治維新をやり遂げた、当時の日本人のお陰だ、本当にありがとうございます、ホテルに戻ってしみじみそう思いました。

▲ CONTAX RTS  DISTAGON 25MM



つづく

リマでパーティーパーティー

2011-09-23 11:46:54 | 1994年南米
▲ リマ郊外の会員制リゾートクラブにて


東京自由が丘のセレクトショップ、ブティック自由が丘101の新沼健です。
仕事と関係なく、趣味で撮りためた写真を公開することにしました。

パーティはリマ近郊にある、会員制のリゾートクラブで行われていました。
フジモリ大統領就任前は、ゲリラが跳梁跋扈する相当危ない地域で、長い間閉鎖されていたそうです。
まだ、再開されていませんでしたが、ゴルフコースも併設されているそうです。





日も落ち、肌寒くなってきたこともあり、会場をアドルフォ氏の友人宅(大豪邸)に移してパーティーは続きます。







そろそろ日付が変わるかという時に、パーティーはようやくお開きになり、アドルフォ氏の運転でホテルまで無事帰還しました。
週末に酔払い運転がとても多い、というのを実地に見た訳でした。

そして、翌日もバーベキューパーティへ


南米へ 1994年 夏

2011-09-11 17:52:58 | 1994年南米
▲ リオデジャネイロ イパネマ・ビーチ


東京自由が丘のセレクトショップ、ブティック自由が丘101の新沼健です。
仕事と関係なく、趣味で撮りためた写真を公開することにしました。

1994年8月、 社命によりペルーへ出張しました。

当時の勤務先がペルーの国営非鉄金属精錬会社の東アジア地区代理店をしていて、代理店会議に出席する社長のカバン持ちとして、ペルーへ出張しました。

南米は初めてということで、経由地のブラジルとペルーで、有給休暇の取得を特別に認められました。 社長とは現地集合・解散、当時は景気が良かったのです。

成田ーロサンゼルスーブラジル・サンパウローペルー・リマという飛行経路でした。
成田発8月17日、夏休み真っ只中で満席のヴァリグ・ブラジル航空でロサンゼルスへ。
給油の後、サンパウロへ。 サンパウロでストップオーバーし、国内線でリオデジャネイロへ。

海岸沿いのホテルに宿を取り、早速、眼前のイパネマ・ビーチを散策。
小学校高学年くらいの少年少女が、学校の授業なのか、かなり本格的に、素足でビーチサッカーをやっていました。

さすがサッカー王国ブラジル。 ボールの周りに集団ができて、ひたすらボールを追い回すだけのような、お子様サッカーではありません。 皆きちんとポジションどりしてサイドからは、狙いすましたような綺麗なセンタリングが上がります。

ドイツとフランスを一緒に旅したN君は、高校時代、サッカー部に所属していましたが、高校生時代のN君たちより、ブラジルの小学生の方がテクニックがありそうに見えます。
こんなにレベルが違うんじゃ、日本はブラジルには20~30年は絶対に勝てないな、と思いましたが、マイアミの(嬉しい)奇跡はその2年後に起こりました。

そんなことを思いつつ、ぶらぶら散策を続けると、ある中年女性がしきりにポルトガル語で話しかけてきます。 ポルトガル語はわかりません、英語で話してください、そういっても、おーっと言って、天を仰ぐ真似をして離れて行きました。

少し行くと、別のご夫婦にしきりに話しかけられました。 そのご夫婦は、身振り手振りで、カメラをバッグにしまえ。 そう言っているようなので、そのとおりにすると満足気に去って行きました。 イパネマ・ビーチは、世界的に有名な観光地でありますが、また、ひったくりの多さでも有名だということを、その後ホテルのスタッフに聞きました。
写真を撮るたびにカメラをバッグから取り出すのはとてもめんどくさいものですが、郷に入れば郷に従え、言われたとおりにして、トラブルを避けることにしました。

▲ CONTAX RTS  PLANAR 50MM


市内でタクシーを雇い、キリスト像を見学。 キリスト像から見下ろすリオデジャネイロは、素晴らしい眺めでした。

▲ CONTAX RTS  PLANAR 85MM  コパビーチ


リオデジャネイロ つづく