「矛盾点」、まさに、そんなブログの引っ越し作業の結果、
100を超える記事の画像が表示できなくなり、非公開としました。
記憶を呼び起こしつつ、漸次、復活・再生させるつもりですが、
正直、皆目見当のつかない画像も多々あります。
上記のように、連続性を維持することは、このシリーズの
重要なファクターですので、時間がかかっても復活・再生を
果たさなければならないのですが、漸くこれで18作目です。
さてと、それでは、ここからが、
『ダ・ヴィンチの罠 矛盾点(改)』
の記事になります。
(以下、本文)
世紀の大傑作として『モナ・リザ』と
並び称される名画『最後の晩餐』が、
爆撃後の壁画の様子(保護用の足場と土嚢)
第二次世界大戦中のミラノ無差別爆撃という
悪夢から、辛くも逃れられたのは奇跡中
の奇跡で、この 壁画が描かれていた壁
(矢印)の周辺だけが何とか原形を保って
いるというような惨憺たる状況でした。
その残酷で悲惨とも思われる運命のなかに
あって、今日までその存在が失われることなく
残されているということは、
爆撃直後のサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
まさに、
「大奇跡」にして「超奇跡」で
あると、前の記事にて述べましたが、
爆撃後の壁画の保護と壁を支える足場
詳しくは、
『ダ・ヴインチの罠 超奇跡(改)』
を参照してみてください。
一方で、その「超奇跡」とは裏腹に、
彼の代表作とされているわりには、完成後
におけるダ・ヴィンチの壁画に対する未練
のなさはどのように考えればいいのでしょう。
以前の記事の焼き直しになりますが、
ダ・ヴィンチがこの壁画の完成に並々ならぬ
思いを込めていたことを窺わせるエピソードが
著述家であるマッテオ・バンデッロの記録の中
に残されています。
当時、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
で見習いの修道士をしていたバンデッロは、
「いつも朝早くからレオナルドはやって来て、
足場に登り、地面から高いところに描かれた
壁画に向かう。
私は何度も見た。 夜明けから日没まで
一度も絵筆を置くことなく、食べることも飲む
ことも忘れて休みなく描き続けることもあった
かと思うと、2日~3日、あるいは4日もの間
、まったく筆を持たずに作品の前で数時間も
立ち尽くし、腕を組み、心のなかで人物像を
検討したり、吟味したり、仔細に 判断をした
うえで批判していることもあった。
ミラノ・スカラ広場のレオナルド・ダ・ヴィンチ像
また、
太陽が一番高い正午頃に、突然の衝動に
駆られたレオナルドが、コルテ・ヴェッキア
から出てまっすぐにサンタ・マリア・デッレ・
グラツィエ修道院へやって来るのを見かけ
たこともある。 そんな時、彼は日差しを
避けて歩くことも頭になく、そのまま足場に
よじ登り、絵筆を取って画面に一つ、二つ
筆を入れると、また、去って行くのだった」
このように、他の現場にいてもなにごとか
思いつくと仕事を放棄して駆けつけることも
何度かあったようなのです。
こうして、
いつ、いかなる時でも壁画のことが頭から
離れなかったという意味で、心血を注ぎ、
一心不乱に制作に没頭していた様子
の完成前のダ・ヴィンチの懸命さに比較して
完成後に発生したカビや絵の具の剥落に
対し、補修をするでも、アドバイスをするでも
ない、まったくもって壁画の修復や保存
に関心のない態度との落差は、不自然さ
を通り越して異常としか思えません。
『最後の晩餐』修復前 www2.odn.ne.jp
まるで、ボロボロになって消えて無くなって
しまえばいいとでも思っているかのようにも
感じられるほど冷淡なのです
『最後の晩餐』完成後のダ・ヴィンチ
の足跡を簡単に辿れば、完成と前後して、
『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』デッサン画
『聖アンナと聖母子』の習作とされる
『聖アンナと聖母子と幼児ヨハネ』
が1498年に描かれています。
『聖アンナと聖母子』修復後
翌1499年のフランス軍によるミラノの侵攻を
機に、ダ・ヴィンチはミラノを離れ、各地を転々
とした後、1500年にフィレンツェに戻ります。
50歳になった1502年には イタリアの統一を
目指すチェーザレ・ボルジアに仕え、
「建築家兼技術総監督」として、多くの兵器を
考案します。
チェーザレ・ボルジア
1503年、フィレンツェ軍の活躍を描く大壁画
『アンギアーリの戦い』の様子を
ピーテル・パウル・ルーベンスの模写
ルーベンスの模写に彩色
フィレンツェ政庁舎(ヴェッキオ宮殿)五百人
大広間に、描き始めます。
アンギアーリの戦い 人物習作 blog.livedoor.jp
この頃に『最後の晩餐』に比肩しうる
「罠」の宝庫にして、双璧の名画
ダ・ヴィンチが描いたとされるデッサン? wikipedia
とされる『モナ・リザ』の創作が開始
されたと考えられています。
ダ・ヴィンチが描いたとされるデッサン? taesunworld.com
1506年頃、二枚目の『岩窟の聖母』
(ロンドン・ナショナルギャラリー版)が完成、
この頃には『モナ・リザ』も、一通りの
『モナ・リザ』と『アイルワースのモナリザ』
完成をみたものと思われます。
1507年には、ミラノ時代のパトロンであった
ルドヴィコ・スフォルツァを失脚に追い込んだ
フランス王ルイ12世の宮廷画家になります。
1508年に『聖アンナと聖母子』の
創作を開始し、
下絵のデッサンと『聖アンナと聖母子』
1510年に『聖アンナと聖母子』が
完成します。
下絵のデッサンと『聖アンナと聖母子』(修復前と修復後)美の巨人たち
また、この頃に弟子のメルツィを養子にした
ようなのですが、1513年、時の権力者である
ジュリアーノ・ディ・メディチの庇護のもとに
多くの芸術家が集まるローマ(ヴァチカン)に
ダ・ヴィンチは工房をかまえることになります。
この頃になると、
『最後の晩餐』の画面全体にカビ
が発生し、薄っすらとした黒い陰影が出来て
いて、あちらこちらで絵の具の剥落が起こり
始めていたとされていますが、
『最後の晩餐』修復前 ameblo.jp『最後の晩餐』
ダ・ヴィンチは何の行動も起こしません
遠いフランスの地にいるのならばともかくも、
ローマであれば、仮にダヴィンチ自身がミラノ
に駆け付けられなくても、弟子を派遣するとか
補修や保存(管理上)のアドバイスをするとか
の手段や方法はいくらでも可能だったはずで、
それがどうしても解せないのです。
例えとして適切でないかもしれませんが、
子どもに障害があるからと言って冷淡にも
見捨てて顧みない親がどこにいるでしょうか
もちろん、例外なく、100%そうだと言う
ことではありませんが、全身全霊を傾け、
一筆入魂の思いで描き上げた作品に
愛着がないわけはないのです。
しかるに、
『最後の晩餐』修復前(白黒写真) amazing-trip.xyz
肝心のダ・ヴィンチ自身が壁画の保存に
無関心なのはどうしたことでしょうか
顧みられることがまったくないのは、不自然
以上に異常であり、矛盾以外のなにもの
でもありません。
この「矛盾点」に対する小生の答えは
ひとつしかありません。
何もせず自然にまかせたのです。
朽ち果てるもよし、破壊されるもよし、後世の
修復家たちによる補修や保存など、すべてを
為すがままの自然の管理に委ねたのですが、
むろん、
そこには彼なりの計算と思惑があって、
そのための保険・担保が最期まで手もと
に置いて手放さずにいた3枚の油彩画と
『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者聖ヨハネ』
青写真としてのデッサン画です。
そして、1513年には最後の作品となる
『洗礼者聖ヨハネ』の制作が始まり、
1516年に完成したとされています。
『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年
この頃には、すでに、
ダ・ヴィンチの左手のマヒは悪化する
一方で、もはや限界の状態にありました。
この年に、若きフランス国王フランソワ1世に
招かれ、ダ・ヴィンチは弟子のメルツィを伴って
再びフランス(アンボワーズ)に移り住みます。
ドイツではマルティン・ルターによる
宗教改革が始まり、
1519年5月2日、故郷から遠く離れたフランス
はアンボワーズ城近くのクルーの館において、
ダ・ヴィンチは永遠の眠りにつきます。
ダ・ヴィンチの死を看取るフランソワ1世
(ヴァザーリ等による架空の物語です)
こうして、
画聖の誉れ高き、レオナルド・ダ・ヴィンチの
67年と17日にわたる人生が終わりました。
「解剖して分かったことだが、
人間は死ぬように出来ているのだ」
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
(ふむふむ ・・・)
ちょ、ちょっと、待ってください
ところで、
この間におけるダ・ヴィンチの創作時期には
奇妙な共通点が見られます。
『最後の晩餐』を急いで完成させた
1498年に『聖アンナと聖母子』の
下絵として、隠し絵やミラーイメージを駆使した
『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』
のデッサンが青写真として描かれ、
「罠」の存在を示す天に向けた人差し指
を大胆にも強調(主張)させていますが、
同時に、それは人類への警告の意味や
シグナルだったのかもしれません。
その点に関しては、
『ダ・ヴインチの罠 青写真』
を参照してみてください。
かくして、
1498年には青写真としてのデッサンを
1503年には『モナ・リザ』を
1508年には『聖アンナと聖母子』を
1513年には『洗礼者聖ヨハネ』を・・・
『モナリザ』 『聖アンナと聖母子』 『洗礼者聖ヨハネ』
というように、それからキッチリと5年毎に
上記した保険であり、担保としての3枚
の絵画の制作を開始しているのです。
それは、何のためかと言えば、
絵の具の剥落や腐食の他にも事故など
による外的な破壊やその他の要因によって、
『最後の晩餐』に仕組んだ「罠」の
トリックが失われてしまった場合における
保険や担保だったわけなのです。
なぜならば、
『最後の晩餐』の遺産を引き継ぎ、
さらにそれを進化・発展させた「罠」と
その解読・解明の方法が仕込まれている
絵画ですから、自分が死んだあとに養子で
あり、弟子であるメルツィにその遺功を
引き継いで貰いたく、最期まで手もとに残して
置いていたというのが小生の推理です。
また、
この間には絵の具が流れ落ちるという災難
により『アンギアーリの戦い』の
ルーベンスによる模写
大壁画に隠した秘密の造作として
の「罠」は無念にも諦めざるを得ず、
ペテロの右腕の習作
『最後の晩餐』CGペテロの右手の部分
・・・ って、おいおい、
(それ、ペテロの右手じゃね)
そ、そうですが・・・
反転すれば同じです。
『アンギアーリの戦い』については、
などを参考にしてください。
そして、
なにかと曰く付きの『レダと白鳥』は、
『レダと白鳥』の模写 チェーザレ・ダ・セスト
『モナ・リザ』にその意図を託して
自らの手で廃棄処分にしたようです。
『レダと白鳥』については、
などを参照してみてください。
いやはや、またしても予告内容とは食い違う
展開ですが、あながち的外れや見当違いでは
なく、問題の人差し指を立てるトマス ・・・
いやいや、本当は大ヤコブの右手
とも、決して無関係ではないのです。
大ヤコブの習作
たとえば、
① Bartholomew バルトロマイ(Bartlomeo)
② Andrew アンデレ(Andrea)
③ Thaddeus タダイ(Tadeo)
④ 無記名〔小ヤコブ❓ Jacob the Less〕
⑤ 無記名〔ユダ Judas〕
⑥ Peter ペテロ(Pietro)
⑦ 無記名〔イエス Jesus〕
⑧ 無記名〔ヨハネ John〕
⑨ Jacob the Great 大ヤコブ(Iacobs Maggiore)
⑩ Thomas トマス(Tomaso)
⑪ Matthew マタイ(Matteo)
⑫ Simon シモン(Simone)
⑬ Philip フィリポ(Filippo)
( )内は判読されたイタリア語表記の使徒名
〔 〕内は推定される使徒名です。
鏡文字で書かれた使徒名
こうした
ⒶやⒷでの人物の描写や名前にしても、
定説となっているⒸの使徒名も ・・・
『最後の晩餐』初期の模写
Ⓒにおいての番号は頭部の位置ではなく、
席の順に割り振られていて、
①バルトロマイ、②小ヤコブ、③アンドレ、
④ペテロ、⑤ユダ、⑥ヨハネ、⑦イエス、
⑧大ヤコブ、⑨トマス、⑩フィリポ、
⑪マタイ、⑫タダイ、⑬シモン、となります。
これは現在知られている使徒の名前と同一
ですが席順設定のため、ユダとペテロおよび
トマスと大ヤコブが逆に表記されています。
要は、「罠」から
目を逸らすためのアリバイ作りや、
あらぬ方向へと誤誘導するための
撒き餌(コマセ)でもあるわけです。
「十分に終わりのことを考えよ。
まず初めに終わりを考慮せよ」
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
次回では、引き続き、その辺りについての
突っ込みを入れたいと考えています。
「なんでやねん !!」
画像元: domani.shogakukan.co.jp
その
「ツッコミじゃありません」
「突っ込んだ考察をする」
ってことですよ
… to be continued !!
画像元: shanti-phuia.net
画像元:shanti-phuia.net
回内(右手)と回外(左手)のイエス
出典:hatenablog.com
『洗礼者聖ヨハネ』部分 1513-1516年
20200807mispronunciation-w640