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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 無礼講

 このページの画像は、故あって表示されませんが、

連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、

別途、新しく作り直すことにしました。

 同じ内容ですが、画像はその限りではありません。

  新たなページは、

 『ダ・ヴィンチの罠 無礼講(改)』です。

 (以下、本文)

 

 Hey Jude, don't make it bad
   (なあ、ユダ、 悪く考えるなよ)
 Take a sad song
      and make it better

   (悲しい歌でも、マシにしようぜ)

 Remember to let her into your heart
  (彼女を心の中に受け入れるんだ)
 Then you can start to make it better
  (そうすれば、きっと良くなっていく)

 パウロがヨハネの息子のために作詞・作曲
したと言われている名曲『Hey Jude』
(ヘイ ジュード)は、実になんともまあ奇妙
で、とても意味深歌詞なのです。

 パウロはポールマッカートニー
のことで、ヨハネはジョンレノンですが、

 要するに、この歌は、

 

 ビートルズ最大ヒット曲で、
B面にあるレボリューションが示す
ように、ある意味では革命的なのです。

 Judeはドイツ語ではユダ(ユダヤ人)を
意味します。

 もちろん、

 ポールはそんなことなど知らずに歌詞
綴ったものと思われるわけですが ・・・

 Song(歌)の部分を未来世の中
Her(彼女)をイエス・キリストに置き換えて、

 それでは、続きを見てみましょう

  

 Hey Jude, don't be afraid
 You were made to go out and get her
 The minute you let her under your skin
 Then you begin to make it better

 (ねえ、ユダ、恐れないでさぁ
 彼女のところへ行ってあげなよ
 彼女を受け入れてあげるんだ
 そうすれば、いいことが始まる)

 And any time you feel the pain

 (たとえどんなにつらく苦しいと
  感じる時間が続いたとしても)

 Hey Jude, refrain
 Don't carry the world upon
 your shoulders
 For well you know that it's a fool
 who play it cool
 By making his world a littie colder

 (なあ、ユダ、あきらめるなよ
  すべてをひとりで背負い込む
  ことはないんだ
  クールに賢ぶった連中なんて、
  愚かなだけのやつらさ
  自分の世界を冷たいものに
  変えてしまうだけだもの)



 Hey Jude, don't let me down
 You have found her now
 go and get her
 Remember to let her into your hesrt
 Then you can start to make it better

 (ねえ、ユダ、がっかりさせるな
  ようやく見つけた彼女を今すぐ
  思いっきり抱きしめてやるんだ
  心の中に受け入れるんだよ
  そうすれば、良くなるはずさ)

 So let it out and let it in

 (素直なままに、受け入れて
  あげれば、それでいいんだよ)

 Hey Jude, begin
 You're waiting for someone
 to perform with
 And don't you know
 that it's just you

 (さあ、ユダ、やってみなよ
  誰かが手伝ってくれるのを
  待ってるつもりなのかい
  おまえにしかできないこと
  じゃないか)



 Hey Jude, you'll do
 The movement you need is
 on your shoulder

 (なあ、ユダ、わかるだろう
  すべてはおまえ次第で
  変わっていくんだよ)

 Hey Jude, don't make it bad
 Take a sad song and make it better
 Remember to let her under your skin
 Then you'll begin to make it better

 (なあ、ユダ、悪く考えるなよ
  悲しい歌でも、マシにしようぜ
  彼女をギュッと抱きしめてさ
  そうすれば、きっと良くなって
  いくはずだよ ・・・)



 いかがでしたか

 歌を未来に、彼女をイエスに変えれば、 

 そのまま

 「為すべきことを今すぐしなさい」
というイエスの言葉に葛藤するユダ
耳元に流れて来る悪魔の、あるいは天使
の囁(ささや)く歌声のように聞こえませんかquestion2
  
 当然のことながら、

 ポール・マッカートニーにはそんな気持ちは
さらさらもなかったのですが ・・・

 さて、宿題にしていた

 ヤコポ・バッサーノ(Jacopo Bassano)による
『最後の晩餐』の場面ですが、


 『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ 1546年

 裏切り者としてまれているユダ
どこにいるのでしょうか

 という問題でしたね。

 ご覧のように、この絵画にはそれまでの
『最後の晩餐』とは著しく違う設定
での夕餉の状況が展開されています。



 従来からの厳粛なる雰囲気のなかで、
それぞれが決まった席に収まる構図ではなく、

   

 もまわり会話も盛んでもたけなわ

           

 といった無礼講の様相を呈しています。

 

 その意味では、疑心と動揺と驚きの渦中に
あるダ・ヴィンチの『最後の晩餐』にも
一脈通じるところがありますが、



 ヤコポ・バッサーノはこの絵画(構図)で
何を表現したかったのでしょうか

     

 以前の記事にて、

 『最後の晩餐』の完成後に間もなく
して起こった絵の具剥落腐食
およびカビ発生という事態に直面
しても、ダ・ヴィンチが何らのアクション
も示さなかった理由として、

 それこそがダ・ヴィンチの大いなる「罠」
の仕掛けであったからで、カビ発生
絵の具の剥落も、すべて計算ずくのうえ
での出来事だとしたならばどうでしょう

 というような推理展開しましたが、

 このヤコポ・バッサーノの絵画の中にも
計算された仕掛けらしき小道具(アイテム)
の数々が散見されます。



 ひとつしかない大皿には 頭だけの子羊の
丸焼きが置かれていて、リンゴも、取り皿も、
ワイン入りのデカンタも、ナプキンも、パンも、
ワイングラスも、ひとつだけしかありません。

 しかもそれらは手前左の男のために用意
されたかのように配置されているのですが、

 このセッティングには何か意図するものが
あるのでしょうか

 それとも、単にテーブルの上をすっきりと
したかったからでしょうか

 それにしては無礼講のようにも見える
使徒たちの騒々しさとの整合性もリアリティ
も保てませんし、アンバランスです。

   

 室内には、タバコの煙こそないものの酒の
ニオイや男の体臭が充満していそうなのに、

 こちらに背を向けてワインを飲んでる男が
ひとりいるだけで他には飲食する様子もなく、
ガヤガヤとした喧騒の中で互いの会話の声
だけが響いているようなのです。

 さて

 グラス類は、ワインを飲んでる男のものと
テーブルに置かれたワイングラスの二つが
あり、ナイフはイエスの隣にいる男(ペテロ)
が握る分(白枠内)も含めて三本ありますが、

   

 いずれもその刃先(切っ先)はイエス
方に向けられています。

 何やら、いわくありげな作者の意図らしき
ものが感じられますが ・・・

 要するに、

 グラスが二つ、ナイフが三本ある以外は
すべて単品の一つなのです。

 但し、

 ペテロの持つナイフは刃が反っていて、
テーブルナイフというよりは小刀(短剣)に
近いものかもしれません。

 そうなるとグラスが二つにテーブルナイフ
が二本だから、二人分のセットでしょうか

 聖書での記述はともかくもモチーフとして
用いられる場合での『最後の晩餐』
における主役「イエスユダ」で、
ペテロヨハネ準主役といった
役回りとなるのがほとんどでしょう。

 二人分とはイエスユダでしょうか

 ならば、 

 こちらに背を向ける左から3人目の人物
がワインを飲んでいるようにも見えますが、
彼がユダということになるのでしょうか

 さらに、

 テーブル上の品々(パンや料理や飲み物)
やナイフ・ナプキン等が手前左の男のため
にセッティングされているように見えるのは、
彼がイエスだとでも言うのでしょうか

 そう言えば、イエスが最も愛した弟子と
されているヨハネ(居眠りしている少年)と
件(くだん)の男の衣装は、なんとも瓜二つの
ペアルックではありませんか

 しかしながら、

 もうひとつあるテーブルナイフは手前右の
男の方向にありますよね。

 ことほど左様に、

 混迷や矛盾のオン・パレードで、ユダ
特定する特徴の数々が方々にばら撒かれ
撹乱させるかのように配置されています。

 事実、この問題に寄せられた解答(回答)
多種多様で、さまざまな推理から
いろいろなかたちでのユダなる存在
指摘されています。

 詳しくは、

 『ダ・ヴインチの罠 醍醐味』
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/522.html

 のコメント欄を参照してみてください。

 ちなみにユダを表現する図法としては、

 1 イエス自身がユダを指し示す
 2 イエスから食べ物(パン等)を
   受け取ろうとしている
 3 ユダだけに光輪がない
 4 他の弟子たちから孤立するか、
   テーブルの反対側に置かれる
 5 ヒゲや衣装が漆黒に塗られる
 6 銭袋を隠し持つか、握っている
 7 黄色い衣装かマントを着させる
 8 赤茶色の頭髪や肌を浅黒く描く
 9 犬や猫に関連付けて描かれる

 などの特徴が挙げられますが、これらの
いくつかが組み合わされて裏切りを強調し
非難するのが決まり事のようなのです。

 ところで、  

 メインキャストとしてのイエスユダ
ペテロヨハネの四人は大抵の場合、
画面の中央付近に描かれます。

 そう考えるとイエスの隣で肘をつく黄色い
服の男もユダの候補だし、ナイフを持つ
ペテロの横で「違う、俺じゃない」
と手首を振ってる黒髪の男もかなり怪しい。

 さらに言えば、ナイフの刃先をイエス
に向けるペテロらしき人物がユダで、
先の黄色い服の男がペテロであるとも
言えなくもないわけで、テーブルの反対側
に陣取る左右の男に関しては、もう今さら
言わずもがなの話でしょう

 おそらくはヤコポ・バッサーノには彼なり
思惑目論見があったのでしょうが、



 そこに「正解」はなく、ユダ
ではなく、どこにいるのかとあれこれ
詮索させるのが目的であって、それを
後世の人々が楽しんでくれるのを歓迎
していたのではないでしょうかpeace

 詰まるところ、ユダ誰かと言えば、
初めから手前右の男であったと思われる
のですが、ユダ何処と問われれば、
それこそユダはそこかしこにいて、考え
が及ぶ範囲内の者はすべてがユダ
候補者であり、ユダなる分身
あって、イエスも含め、ここに描かれた
全員が裏切者であるユダと同じだと
言いたかったのではないでしょうか

 何故にイエスも含めるのかと言えば、
それはイエスの描き方に悪意という
違和感を覚えるからですが、

   
 
 薄ピンクのドレスシャツに黒いショール風
のガウンを纏った姿は使徒たちの衣装とは
隔絶した雰囲気を醸していて、コメントの中
にもあったのですが、どこかペテン師もどき
の胡散臭そうなにせ者に見えてしまうのは、
ヤコポ・バッサーノの絵筆の誤りでしょうか

 余談ですが、スペインが生んだ超怪しい

   

 大天才サルバドール・ダリ


   っ、
 

 見えて仕方がないのですが ・・・ ase2

 まあ、それはそれとしても、

 ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』での
イエス姿にも同種違和感
覚えるのです。

 

 生気覇気もなく、ただ、うなだれて
タメ息を吐きそうな半開きのからは
どんな言葉が洩れ聞こえてくるのでしょう。

   

 少なくともそこには神々しさも高貴
欠片微塵も感じない(まが)い
イエスが立っているだけのように
思えるのですが ・・・

    
        イエスの習作

 いやはや、

         

 その話は長くなりますので別の機会
して、ヤコポ・バッサーノの絵画に戻せば、

   
         up_slow
 禁断の木の実とされるリンゴを画面
の中央に配置したのも、エデンの園での
アダムとイヴの失楽園の物語を暗示
しているのかもしれませんね。

 つまり、

 全人類に負わされた原罪があるが
ゆえに全員ユダになりうるのだと・・・



 さて、こうして、ああだこうだ言ってみても、

 実際のところでは、

 ヤコポ・バッサーノの『最後の晩餐』
には、作者の魂胆などまったく何も存在
せずに、『Hey Judo』勝手な解釈で
意訳したのと同質「こじつけ」による
曲解に過ぎないものかもしれませんよね。

 なぜなら、真実はヤコポ・バッサーノ本人に
しか分からないことで、あくまでも推測の域を
出るものではないからですが、

 然は然りながらも、小生が、

      

 この問題を通して訴えたかったことは、
ヤコポ・バッサーノの『最後の晩餐』
「ふんぎり」「踏ん切り」では
なく「糞切り」であると勘違いさせる
ような小道具(アイテム)がふんだんに
盛り込まれた絵画であって、ダ・ヴィンチの
『最後の晩餐』とは違った意味合い
での形式による確信犯的なテイストや
フレーバーに満ち溢れていることです。

 要は、それらの小道具に振り回されての
牽強付会我田引水なる解釈
に陥ることなかれということであって、

        

 裏を返せば、そうした要素がダ・ヴィンチ
『最後の晩餐』には至るところに
余すことなくバラ撒かれているのです。

 したがって、

 細心なる観察眼をもってダ・ヴィンチ
『最後の晩餐』「謎」に挑んで
欲しいと願うからこそ、

 それが

 革命的革新的なるダ・ヴィンチの
「罠」本質(正体)を見抜く力
なると考えたからなのですが、

 浅はかでした。ごめんなさい 🙇

 皆さんの方が何枚も上手だったようです。

     
      (しょうもな ・・・)

 ところで

 コメントにあった配置配列とは、

 ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』の配列
と同じ配置にユダがいるということですね。




 つまり左隅がバルトロマイで、手を挙げて
いるのが小ヤコブ、ワインを飲むアンデレが
いて、手前左の男がユダとなるわけです。

 次いで、

 ナイフを握るペテロに、居眠りする少年の
ヨハネがいて、中央のイエスとなるわけで、

 以下、片肘をつくトマスに、大ヤコブがいて、
銭袋を持つフィリポに、こちらを見るマタイが
いて、タダイの奥に寡黙なシモンがいます。

 確かに、

 これは面白い見方であって、有力な判断と
なり得ますが、前述のように推測
出ないわけで、何かダ・ヴィンチの作品との
関連性が見出されるといいなと思います。

 なにしろイチ押しのアイデアですからね。

 というのも、
 
 ヤコポ・バッサーノの絵画とダ・ヴィンチの
『最後の晩餐』には互いに共通する
メッセージがあると思われるのですが、



 ダ・ヴィンチには数多くの素描や手稿類が
残されており、実物とは微妙に食い違う内容
のメモ書きや習作との齟齬がみられます。

 は上の素描を横一列に並べたもので、



 は各人物に添えられている使徒名です。


     鏡文字で書かれた使徒名

 それらが、

 ヤコポ・バッサーノの『最後の晩餐』
に用いられた小道具の数々と同じ要素を
持ったものに思えてならないのです。
 


  『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ画

 そのなかのひとつが大皿に盛られた子羊
なのですが、

   

 その解説についてはまたということで ・・・

     

 次回では、ヤコポ・バッサーノの小道具
ダ・ヴィンチの「罠」との関連性について
掘り下げてみたいと考えています。

      
      (関連性ねえ・・・)

 空の皿に一緒に手を伸ばす二人の思惑は



 果たしてどこにあるのでしょうか

 さてさて

 「わしらの無礼講なんじゃがのぉ」

  

 「いつ始まるんじゃ」

   

 「永遠にありません !!


         ・・・


       ううむ

  【洗礼者聖ヨハネの首とサロメの物語】
 

    ズジスワフ・ベクシンスキー画

 … to be continue !!

 

コメント一覧

イマジンⅡ
ヘイ・ジュード(Hey Jude)が、ユダに対する応援歌だったとは、これが真実ならば、まさにレボルーションだね!
苺ハクション
要するに、ヘイ・ジュードとレボルーションは裏表の関係にあって、イエスとユダも表裏一体の関係にあると言いたいわけだ。
江戸川ドイル
『目論見』での1号さんからの投稿にやられたという気持ちと、どうして気づかなかったのかという悔しさが込み上げてくるんだけど、

ダブルの「D」として、兄貴が『隠し絵』のページの精査を示唆すると、続いてココナン君が『裏切者』『中性美』に並ぶ、D&Dとしてのいくつかのページの列挙をしていたけど、「Deep Design」(深謀遠慮)➡ D&Dで『目論見』とは・・・

それにしても、ここに来て、次々に「D]のページの発掘・発見が続いている感じだね!
ココナン
ダブルで「D」になると言ったら、D&Dのページも対象になりますよね。

その中で「見える事実と見たい現実・・・」という言葉と違和感がないのは、『白日夢』(Day Dream)と『妄想癖』(Delusion Dreamer)(Delusional Disorder)(Delusional Disturbance)が挙げられます。

『裏工作』(Dodgy Dealings)のチェックも必要かも。
江戸川ケイシ
いやいや、それはどうでしょう?

これだけ趣向を凝らした凝ったつくりのなかで、それでは、あまりにストレートすぎて安直すぎる気がします。

“わんばんこ”さんにしても“アウトリガ”さんにしても、「D」のページ + ダブルで「D」になるページに関連するメッセージが多いので、「見える事実と見たい現実」とは、
ここでは“ダブル・イメージ”、つまり『隠し絵』に関する「D」の秘密を示唆しているように思われます。

要するに、「『隠し絵』のページをチェックしろ!」という意味かもしれませんね。
ガブリアス・マーレン
なるほど、確かに、そういう見方も有力かもしれません。

作者自身が2年半ほど前のコメント(2017/11/13)で、

 サルバドル 救世主かと いぶかられ
      差し出す御手には 羊頭狗肉か

と、詠んでいますし・・・
ダメな便利屋
文中の真ん中へんにある「ペテン師もどきの胡散臭さそうなにせ者に見えてしまう」というフレーズと、その後の余談として登場するサルバドール・ダリの原意は救世主・ダリで、その風貌や言動にからめて“超怪しい”人物としています。

つまり、ヤコポ・バッサーノの描くイエスがダリに似てるとして、暗に、イエスは偽のメシア(救世主)だということを「見える事実と見たい現実・・・」に重ねているのではないかと思いますね。

そんなイエスのために身を捨てて、裏切り者の汚名まで着たユダに「そんなに落ち込むな」と言っているとか・・・
ココナン
ここにも“わんばんこ”さんの謎めいたコメントがあって、ずっと、その意味を探っていました。

だけど『無礼講』って頭文字が「D」になるページでもないのに何故だろうって思いながら・・・

そしたら、Drink as equals が、無礼講という意味だと今日、偶然にも知ったんです。

ですから、ここでのコメントも「D」の秘密に関するヒントや道しるべの可能性が高いと思うのですが、まだその意図が掴めません。

誰か、わかる人がいたら教えてください!
わんばんこ
「見える事実と見たい現実・・・」

この空しいギャップに悩むのが処世なれど、

“詠み人知れず”さんも歌います。

「Hey Jude don't make it bad」
(なあ、ユダ、そんなに落ち込むなって)
不明不詳
なるほど、なかなかのお手前かと・・・

お返しに乾坤なる世界に一首。

神の世は 映るに違いて いたずらに
     見える事実と 見たい現実

(詠み人知れず)
透明人間2号
「されば、どーれ」で始まるこの散文とも定型詩ともつかない一文には、内心ドキッとしていましたが、「告発者」をアップするまではコメントを控えていました。

その後も不明不詳さんが詠むところの、失礼、詠み人知れずでしたね。

和歌形式の詩には興味津々で、むらさき納言さんとの相聞歌のようなやり取りも面白いと思います。

そこで、僭越ながら、この一文を小生風に歌で詠めば、

サルバドル 救世主かと いぶかられ
     差し出す御手には 羊頭狗肉か

 以上、お粗末でした。
不明不詳
されば、どーれと見てみれば「この人はダリ」?
怪しいと臭ってくるね!
羊の頭に伸びるダリ(イエス)の左手・・・

(詠み人知れず)
デッキブラシ
自分で調べて理解し、それをさらに磨く。
そうデッキブラシでブラッシュアップ!
ゴスペル999
カタカナ語の氾濫には問題アリだが、皆な甘すぎるぜ!

分からないことは自分で調べる。 これが基本。
江戸川ドイル
なんか強え~、ポヨヨンちゃん。 只者じゃないね!
透明人間2号
皆さんの推理も一段落して、問題提起やコメントも落ち着いてきたようなので、記事への修正や変更の心配はもうなさそうですね。

ココナン君、ご心配をかけましたが、今日は日曜なので、これから記事の仕上げに勤しもうと思います。

それから、むらさき納言さんの質問に返答するとすれば、大いに関係があると言えます。

あまり使われないカタカナ語には日本語での注釈や意味の明記が必要でしょうね。
ポヨヨンさんの言いたいことはよくわかりますよ。
江戸川ケイシ
どうぞお好きなように解釈してください。
ゴスペル999(キューキューキュー)さん。

なるべく分かりやすい日本語を使うように心掛けますね。 ポヨヨンさん。
むらさき納言
なるほど、本質を突くわけね。
確かに、ポヨヨンさんの言うように、馴染みのうすい横文字(カタカナ語)には注意が必要なのかも、出来れば外国語表記には和訳が欲しいのも事実だし、出来ればコメントを読む人みんなに理解してもらいたいのも確か・・・

そういう自分もアウフヘーベンなんて言ちゃったけど、即座にゴスペルさんから用法が違うと指摘されちゃいましたが、対立する解釈から1ランク上の高次に到ろうというくらいの意味合いでした。
でも、やっぱり日本語の方がわかりやすいですよね。
ポヨヨン
英語やヨコ文字はよくわかんない。
なんか面白そうなんだけどムズい。

    で・・・。
ゴスペル999
おお、謎かけと来たか!
コク深くプレミアムな味わいであったということか?
それとも、半分程度の小さなカップサイズのようなものだという意味か?

ちなみに、ゴスペル999(キュー・キュー・キュー)
なんだがねえ!
江戸川ケイシ
ゴスペルというネーミングからは想像し難いほどの高ピーな物言いはポーズですか?

スリーナイン(999)さん!

エスプリの効いたプレゼントは深煎りのエスプレッソのようで、とてもデミタスでした。

OKですよ! みのるさん。
みのる
むらさき納言さん、ケイシさん、ゴスペル999さん、かえって気をつかわせてしまいすみません。

今後ともご遠慮なく、よろしくお願いします。
江戸川ドイル
Let's wait and see. とか、Let's see how it goes. なんだと思うよ!

様子見でしょうが!  コメントの内容次第では記事の変更が云々とかなんちゃら言ってたから。

ココナン
9/30以来、何の反応も応答もないし、どうしちゃったんだろう? 2号さん。
更新もされてないし・・・
ゴスペル999
世の中、シンクorスイムなんだぜ!

何このフォローアップというか、ドンマイ的なコメント!

しかしまあ、何だな。
「Don't worry about it. Minoru!」ってことか。

ところで、プレゼントお気に召さなかったのかな? ケイシ君!
江戸川ケイシ
犬か猫かに対する「正解」云々の話なら気にしないでください。
ドイルも言っているようにどっちつかずの曖昧な描写をすることがヤコポ・バッサーノの狙いであって、その目的はイマイチわかりませんが、彼の『最後の晩餐』での描写と密接に関りがあることは確かだ思うのです。

多分、その辺りのこともあって、ここでの問題として提示したのだと推察しますが、『エマオの晩餐』が持ち出されるとは2号さんにとっては想定外だったようですね。

時々、みのるさんが推奨される絵画はいろんな意味で参考になるし、何らかのかたちで役立っていると思います。

もっと2号さんを困らせてあげましょうよ! その方がきっと面白い記事を書いてくれると思いますよ!
むらさき納言
何か誤解されているようですが、不快だなんて、そんなつもりは毛頭ありませんよ。

みのるさんの推理や説明には気づかされたり教えられることが多いですから、それを不快に思う人はいないでしょう。

「ずっとコメントを控えていましたが」、この文章がいけなかったのかな?
みのる
既成の解釈にとらわれず自分の目で見て判断して答えを出すというスタンスを持っていると思っていただけに、前の投稿で、既成の解説をあっさりと正とした自分に落ち込んでいます。

皆さんと推理をしあうのが楽しく、既成観念を押しつけるつもりはありませんでした。自分のコメントで不快に思われてたら、ほんとに申し訳けないです。
江戸川ケイシ
正解とかそういうことではなくて、そもそも正解を求めてはいないとする、むらさき納言さんの意見に賛同します。

このブログ記事を定期的に読んでいる人は常識人ではあっても常識に縛られない人たち、言い方を換えれば、アカデミックな見解や専門家やオーソリティの言葉をそのまま鵜呑みにするのではなく、少なくと自分で考え納得できる答えを得ようとする人たちであって、そうでなければ、とうの昔にスルーしているはずなのです。

そして、この問題を宿題にしたのも、記事の後半での、然は然りながら小生が … で、空の「ふきだし」が描かれた先生風の人物のイラストがありますが、その何も書かれていない「ふきだし」に自由な発想と自在な意見を求めたものと思われるのです。

はなはだ勝手な推測ですが、そのあとで、ただし、我田引水や牽強付会に陥るなと釘をさしていますが、ひとことで言えば、「正解」にこだわるなということだと思います。
むらさき納言
ずっとコメントを控えていましたが、犬なのか猫なのかの件に関しても、ユダが誰で何処にいるか?の宿題にしても、本文中にあるように「正解」はないのだと思います。

仮に、ヤコポ・バッサーノにとっての正解があるのだとしても、2号さんは正解を求めているのではなく、「解」に辿り着くまでの道筋と言うか、物の見方や切り口を問題にしているのであって、そうした見方の延長線上に本来の求める「解」としてのペテロのナイフの持ち主や天を指し示す人差し指の謎を解く糸口が見つかるのだと思います。
みのる
自分が猫×猫といってたエマオの晩餐の件ですが、キンベル美術館のサイトの解説では、犬×猫になっていました。
ケイシさんが正解です!
江戸川ドイル
すっかり人気者だね。ポヨヨンちゃん!

以前に、ポヨヨンちゃんの質問は「本質を突くなあ」って言ったのは兄貴ですが、「やられた」とも言ってました。
そっちはゴスペルさんの弁証法とやらの話ですが・・・

ただ、ユダは誰かと言えば、一義的には手前右の男だけど、すべてがユダであることも想定してヤコポ・バッサーノは描いていたのかもしれないと思うようになってきました。

兄とみのる氏の見解が分かれる『エマオの晩餐』の犬と猫ですが、耳や鼻は猫のようですが、特徴的な長いヒゲがありませんし、目も猫の目ではないように見えます。毛は茶系のぶちで、これは犬によく使われている毛色です。身体はモフモフしていて子犬のようですが、太った猫でもあり得る体型です。

要するに、そこにヤコポ・バッサーノの狙いがあるのでしょうか?
ポヨヨン
なんか、コナン君や一休さんみたい。
あっ、ジャーロック・ホームズだったっけ?
ゴスペル999
以前にも誰かが言っていた気がするが、ポヨヨンさんの疑問は、実に本質を突いている。

そう。なぜ、緑の服の白髭の人物に裏切者がわかっていたのか?

この時点で、わかっていたのはイエスだけです。

では、この人物がイエスなのか?

手前右の男がユダであり、それを指で知らせているとすれば、必然的にこの人物がイエスということになりますが、

この人物がイエスでないとすれば、手前右の男は裏切り者ではないか、あるいは、この指をさすような仕草にはそうした意図がないことになります。

人差し指の別解釈として、こんな弁証法はいかがかな?

参考までに、江戸川ケイシ君へのプレゼントとします。
みのる
すみません、下三行は内容がダブってます!消すはずだったものですので無視してください。ミス続きでお恥ずかしい・・・。
みのる
ポヨヨンさん、

この絵の中でユダが誰か知っているのは、描いたヤコポです。

緑のおじいさんが12弟子の誰かも判別できないし、おじいさんがユダが裏切ることを知っていたというよりも、ヤコポが、右後ろの弟子らの視線と指を使ってユダへのヒントを追加したと推測します。




ユダのように見える、怪しい人物は複数いますが、その複数の中でどれが『ユダ』なのかわかっているのは、この絵を描いたヤコポです。

ポヨヨン
そうかあ、ありがとうございます。
でも、なぜこの緑の服のおじいさんは、その男が裏切り者だとわかったんだろう?
江戸川ケイシ
本来の話の筋とユダとは直接関係はないと思います。
「ユダ探し」の問題は、「ユダ捜し」であって捜査のプロセスを実習させる目的であるように感じます。

皆さんが指名するユダの中には、想像もしていないような人物(内容)や、そんな風に思うんだとか、まったく気付かなかった視点からの指摘もあれば、なるほどと唸らされるものとか、いろいろです。
自分自身、一つの絵をこんなにも細かく観察したことはなく、それでも、みのるさんの言う右奥の2人の男に対しては指摘されるまで、そんな風には見ていませんでした。
そして、今、考えていることは緑の服の人物の人差し指に対する別の解釈はないか?です。
たとえば、「指を痛めちゃったよ」「どれどれ」とか、つまり、その指が右手の親指と人差し指で支えられていなければ、話は早いのですが、そうではなく、同様のことが犬と猫にも言えて、みのるさんは猫に、私には子犬に見えるわけです。
要は、意図してそういう描き方をしているのであって、「「正解がない」とはそれを指していっているのだと思います。

手前右の男をユダの最有力のように描いてはいても、真実はヤコポ・バッサーノにしか分からないのです。
みのる
むらさき納言さん、
「ユダはどこか(誰)?」という問いに対しての今回の記事に、何かすっきりしない雰囲気を感じましたので、作品を解釈するための別の材料を示したのであって、まだ「ユダはどこか?」の話の続きです。
『子羊の頭~ヨハネが持つとされるナイフ』に関しては、透明人間2号さんが目にとめた解釈ですので、今のユダの話が関連するのかどうかは自分には判らないです。次の記事が待ち遠しいです。

あと、ポヨヨンさんの言うこちらを見る視線についてですが、右側奥の二人は顔を正面に向けていますが、ユダを見ていると思います。二人の内、白髪の緑の服の人の左手を見てください。右手を添えていますが、左手の人差し指だけが伸びていて前を指しています。

猫と犬の視線がこっちを向いているのは、ゴスペルさんのおっしゃるように「鑑賞者に訴えかけている」のでしょう。
何を訴えかけているかというと、当時、この作品を見るクリスチャンたちに
「あなたはイエスを信じるか?疑わないか?裏切らないか?猫と犬、どっち側だ?」ってね。

ケイシさん、
ユダの銭袋も小さく描かれてますし、実際にコメントの数々によってユダに見える人物が複数いるわけですし、「エマオの晩餐」をみて、「最後の晩餐」はヤコポの意図があると思います。
ただ配色に関しては、なんともいえません。
絵って見る人によって、「見える部分、気になる部分」って結構違うものです。自分は服の色は気にしてませんでしたから。

こちらのブログの内容は、自分とは異なる観点がいろいろあって面白いです。

「エマオの晩餐」の2枚のうちの猫×猫ですが、子犬?かとも思いましたが、彼の他の作品の犬や猫を見ていくと、犬は「Two Hunting Dogs」のタイプの耳が大きな犬ばかりでしたので、猫×猫と判断した次第です。見落としがあったらすみません。

犬と猫が一緒に描かれた作品としては他に「The Entry of the Animals into Noah’s Ark」と「winter」がありますので、画家名と一緒に検索すれば見られます。犬と猫の参考までに。
江戸川ケイシ
なるほど、参考になります。
ところで、みのるさん。 ヤコポ・バッサーノの作品の中でも『最後の晩餐』はちょっと異質だと思われませんか?
テイストというか、全体のトーンが暗く寒色系の配色に特色があるのですが、この絵はオレンジやピンクに萌黄色など明るい配色でアクティブです。
構図が複雑なのは彼の特徴で何らかの意図を感じさせます。
それを2号さんは問題として取り上げたのでしょうが、ひとつ確認したいことがあります。
『エマオの晩餐』ですが、2枚とも犬と猫ではないでしょうか?
むらさき納言
話が違う方向で盛り上がっているようですが、問題の絵にある子羊の頭と、偽キリストのペテン師のようにも見えるイエスと、トマスではなく大ヤコブのものだとする人差し指の件と、顔だけ登場のトマスと、ペテロではなくヨハネが持つとされるナイフとは関連があるんですよね?
ポヨヨン
他の作品を見たけど、よくわかんない。
イヌやネコやヒツジがいて動物が好きみたいだけど、2匹ともこっちを見てるのはこの絵だけです。

やっぱし何か意味があると思う。
前のページでのゴスペルさんの答えは参考になったけど、他の人の意見も知りたいです。
みのる
別のとこでコメントつくってたのですが、こちらにコピペする時に行間、段落を調節するの忘れてしまってて、読みにくい状態になっててすみません!
みのる
エマオの晩餐はイエスが処刑されて数日後に弟子たちの前に現れた時の話で、
ここに登場する二人はイエスの弟子ですが最後の晩餐にいた12人ではありませ
ん。
二人の弟子は、エマオに向かう道中でイエスに出会ってもなかなかイエスと気づ
かず、食事の時にイエスがパンをさき、彼らに渡すことによって、目が開けてイ
エスであることが判りますが、判ったときには姿が見えなくなったというストー
リー。

猫×猫、猫×犬の組み合わせの2枚の「エマオの晩餐」があります。
この二人の弟子は、どちらもユダではありません。

ですのでヤコポが猫を、「何の意図もなく」描いていたのであれば、最後の晩餐
での右手前の男がユダであるという根拠のポイントが(-1)減ってしまうこと
になります。

では猫をやはり意図をこめて描いていた場合について考えてみます。
意図があれば、どちらの絵も二匹の動物は二人の弟子に対応させているのでしょ
う。

まず猫×猫の場合、右の猫は怖い顔で右の弟子に寄ってきてます。左の猫は、ま
だ右の弟子から離れたところで待機して右の猫の様子を見ているようです。

三日後によみがえるといったイエスと、道中をともにしてても、それがイエスだ
と判らない二人の弟子。
「疑いの心、不信」は魔からくるものとして、猫を描いたと推測します。
ただ右の猫はより近く、左の猫は離れたところで、二人の弟子に差をつけていま
す。

猫×犬の場合、猫は魔で、犬は食卓のパンくずをもらうものですので、こちらは
さらに二人の弟子に差があるわけです。

この2枚の「エマオの晩餐」をみて思い起こすのが、十字架でイエスの左右につ
けられた犯罪者。最後の最後でイエスとともにいた二人です。イエスに向けられ
た二人の言葉は、イエスを信じるものと、疑うものとで分かれました。

戻して、ヤコボの「最後の晩餐」ですが、イエスと長い間ともにあった弟子達でさえも、
信じる者もあれば疑う者もいたと。
「ユダ」は誰かとすれば、12人の内の一人ですので、自分は「手前右」と判断し
ますが、「イエスを裏切る者、疑う者、不信仰な者」という観点で見れば、ユダ以外にもっ
といるだろ~として、ユダのように見せかけた怪しい人物を複数描いたのだろうっ
てことです。
透明人間2号
ヤコポ・バッサーノの小道具とダ・ヴィンチの「罠」との関連性ということで、エマオでの食事の場面が小道具や犬や猫の登場などのシチュエーション的に非常に似ているので、次回での解説に利用する予定でした。

ここでのコメント次第では、記事の変更を余儀なくされるかもしれませんが、現在進行形の、しかも、謎解き系の内容ゆえの宿命ですね。

コメント欄での展開を楽しみにしています。
江戸川ケイシ
ヤコポ・バッサーノの他の作品を見るのは参考にはなると思いますが、結局それも印象や推察であって、それ以上のものにはなりえない。

ただ、推測の域を出ない範囲で言えば、宗教画がメインなのと犬や猫をはじめ、動物の描写が多いこと、「エマオの晩餐」に関しては、受け取り方の違いで意見が大きく分かれると思いますが、

個人的には、定説であるユダの存在(手前右の男)を否定する材料になるとともに、ここでの問題に、さらなる混乱を招き兼ねないかもしれません。

みのるさんの意見を聞かせてください。
みのる
他にどんな作品を描いていたのか見るのも、彼の作品を理解する方法の一つかと思います。

Jacopo Bassano Emmaus
で検索した画像を参考にしてみてはどうでしょう。
ココナン
「ユダ思う、ゆえにユダあり」って、全員が主役みたいな意味ですか?

そうだとすれば、ゴスペルさんの言うことは分かるけど、むらさき納言さんの「アウフヘーベン」も用い方としては違うんだろうけど、感じは何となくわかるような、ブラッシュアップとか、ステップアップとか、みたいな。

配列が示すユダの存在だけど、証明はムリとしても、補強する手立てがあるといいんだけど見つからないかなァ。
ゴスペル999
アウフヘーベンとは誤解されやすい哲学用語でいささか無理が過ぎます。

単に、出題者は「ユダ、思うゆえに、ユダあり」、あるいは「ユダなるがゆえに、ユダあり」と言いたいのだと思うが・・・
むらさき納言
ヘイ・ジュードがユダへの裏切りをすすめる歌だなんて言ったら、ビートルズファンは怒り心頭で卒倒しちゃうかも・・。

ところで、配列は思った通りでしたが、正解ではないのですか?

この展開って、一種のアウフヘーベンみたいなものでしょうか?
江戸川ドイル
限りなく手前右の男がユダであると分っているとしても、ゴスペル999氏の言を借りれば、証拠不十分だということですか?
つまり、裁判風に言えば、審議することに目的があって、検察的には起訴する意図はないような・・・
でも、デッキブラシ氏の言うようにユダは確実にいるわけで、落としどころが難しい問題です。
デッキブラシ
だとしても、どうであれ、この絵の中にユダは必ずいるわけですよね!
ゴスペル999
結局、革新的(確信的)なヤコポ・バッサーノの構図はダヴィンチゆずりでもあり、「ヘイジュード」のような意訳的な解釈が可能なものでもあると言って、お茶を濁してしまう八方美人的全方位外交はいかがなものであろうか!?

まあ、「疑わしきは罰せず」なのだろうが、実に面白い問題だっただけに惜しいの一言だ。
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