原発なくそう 茨木

阿武山原子炉設置反対運動の歴史と意義
茨木市で原発なくそうの運動を!

「原発を考える市民のつどい」記念論文

2012-10-29 19:44:44 | 日記
原発なくそうの思いで集まっている茨木市民有志グループです。
ニュース、報告、呼びかけ、お願い、短いコメントなどは
ブログなくそう原発茨木」をご覧ください。 よろしくネ。


「原発を考える市民のつどい」は10月26日、茨木市民会館大ホールに約700人の市民が集まり、大きな成果をあげました。
この小文は「つどい」当日の出席者に発表し、配布したものです。


原発と住民
阿武山原子炉設置反対茨木市民運動に学び、今に生かそう
                    「原発を考える市民のつどい」実行委員神山治夫2012年10月26日


① 福島原発事故を受けて、各地原発の定期点検後の再稼働をめぐって政府や電力会社が地元住民、自治体の合意が得られず、出来ない状況が起こっています。 今年の子どもの日は全国どこの原発も動いていない、原発ゼロの子どもの日となりました。 しかし、政府は若狭大飯原発の再稼動を地元おおい町と福井県を強引に了承させて再稼動しました。 現在は稼働中の原発は全国50基中、この大飯の2基だけです。 政府は、大飯原発を再稼動させたのみか、青森県大間に新しい原発を作る工事を始めています。 周辺の北海道函館市などが市長を先頭に反対に立ちあがっています。

② 住民合意がなければ、原発の設置はおろか、再稼働も不可能です。 原子炉の設置、運転と住民合意との関係で最初の本格的な矛盾、対立となったのが1957年8月に起こった阿武山関西研究用原子炉の設置に反対する茨木市市民運動でした。 

③ 当時の状況を見てみますと、1953年12月8日、国連総会においてアイゼンハワー米大統領が「原子力平和利用Atoms for Peace」の演説を行いました。 1955年11月1日、東京で始まった「原子力平和利用博覧会」はその後広島を含む7都市で行わました。 原爆は絶対悪だが、平和利用は絶対善、人類のホープ、明るい未来を約束するものというキャンペーンが一世を風靡する状態となったのです。 

④ 1954年3月の国会で中曽根康弘氏などの提案で突然2億3500万円の原子力開発予算が修正提案で提案され採択されました。 この予算をめぐって財界、一部大学の工学部などが積極的にのりだしました。 一気に日本への原子炉導入に向けての取り組みが各界あげて一斉に加速されたのです。 その先端となったのが東海村と関西への研究用原子炉の設置でした。 

⑤ しかし、その各界あげての原子力平和利用推進の大きな流れの前に大きく立ちはだかり、待った!をかけたのが、茨木市民による原子炉設置反対住民運動でした。 茨木市民の反対はきわめて素朴な「水道源をおびやかし、生活と故郷をおびやかす原子炉を身近に置くことは許さない」というものでした。 素朴なしかし、住民にとっては真剣な要求でしたが、戦後民主主義の一つの大きな到達点であった地方自治のありようをフルに生かした運動が展開されたのです。 組織された「茨木市阿武山原子炉設置反対期成同盟」の委員長には田村英茨木市市長が就任し、茨木市議会対策会議が委員を出し、その下に各町内会、その他商工団体、農協、婦人団体、青年団体、医師会、歯科医師会、文化団体などを網羅した運動となりました。 市民の生命と暮らしを守るという戦後民主主義の下で課せられた地方自治体の責務、役割、可能性を見事に発揮したと云われています。
⑥ 原子炉設置を推進しょうとする側の関係学者もこの住民の素朴だけれど真剣な不安・要求を無視して進むことはできませんでした。 そこで住民説得のために持ちだされた論理が「原爆と違って平和利用の原子炉は絶対安全なものである」というものでした(1957年8月27日高槻市主催原子炉問題聴聞会)。 それは、今、痛切に反省されなければならない現在に続く「安全神話」の始まりであったのです。

⑦ 「茨木市民は原爆と原子炉の違いもわからない無知から反対している」とのキャンペーンに抗して、茨木市民は市議会代表、婦人団体代表を派遣し、自ら専門科学者に接触し、坂田昌一氏、武谷三男氏など当時の原子物理学の重鎮たちに訴えて、科学者たちの関心を引き起こしました。 専門科学者は「原子炉は絶対安全なもの」という誤った論理をさすがにだまって見逃すことはできませんでした。 当時の原子物理学の最高権威者といわれた武谷三男氏は、服部学氏などと共に、直接現場に入り、住民の中に入って自らの見解を述べ、「原子炉は本質的に危険なものである」と明言されたのです(1957年9月10日茨木市反対期成同盟主催聴聞会)。 茨木市民の恐れ、要求が理にかなったものであると支持されました。 また、全国25大学の140名に及ぶ専門学者が連名で阿武山原子炉設置計画の白紙撤回を求める要望書を組織し提出されました(1957年10月付関西研究用原子炉設置準備委員会委員各位宛「関西原子炉設置に関する要望書」)。 武谷三男氏は後日著書の中で「あれがまだできてない公害反対運動のトップなんだ。茨木の関西原子炉反対運動ね。あれが最初でしょうね。日本の。あのとき、でも茨木の人たちはよく勉強していましたよ。非常によく勉強していましたね」(武谷三男『現代技術の構造』技術と人間、1981・p273)、「ほんとに市をあげての反対運動をやった。この経験が、今日ほとんど忘れられているように思うんですね。その設置に反対して、かなり熱心で、しかもりっぱな闘争をやって、それは成功したんですね」(同前・p157)と述べておられます。(引用・「初期原子力政策と戦後の地方自治-相克の発生 : 関西研究用原子炉交野案設置反対運動を事例に」樫本喜一・人間社会学研究集録. 2006, 2, p.81-110)
 1957年12月20日、京都大学自治会代表者会議は声明を発表し、その中で「地元民の反対運動が研究者に大きな影響を与え、良心的な研究者の反省を呼びおこし、それが組織に迄高められたことは高く評価すべきことであり、・・・」と総括しています。(「声明―関西研究用原子炉に対する我々の態度―」京都大学自治会代表者会議・1957年12月20日) 住民は科学者と手をつなぐことで、運動に自信を持ち、科学者は住民と手を結ぶことで、正しい道を選ぶことができたのです。

⑧ 茨木市民は素朴な怖れと要求から出発しましたが、やがて基本的な主張を明確にして行きました。。 その第一は「原子炉は本質的に危険なものである」という主張でした。
 茨木市阿武山原子炉設置反対期成同盟は「原子炉は本質的に危険なものである」という大見出しを掲げた「情報2号」を全市民に配布し(1957年12月5日付)、公開討論の速記録(抄)を伝えました。 武谷三男氏は公開討論の中で次のように述べています。 「今後もし動力炉が入って来て、そうしてこれが日本の重要なエネルギー源になるほど大きくなって来たならば、それがもし乱暴に扱われたときの被害、安全々々と言いながら乱暴に扱われたときの被害は恐るべきものに達するだろうと私は今から心配しております。」(前掲速記録1957年発行冊子の復刻版「原子炉安全神話を拒否した茨木市民・科学者のたたかいの記録」p26) これが茨木市民と良心的科学者とが共有した心配でした。 残念ながら福島でその心配は現実のものとなってしまいました。

⑨ また、茨木市民の主張のもう一つの大きな特徴となったのが「宇治川・大阪なら危険だが、安威川・茨木ならまあいいか」という論理は絶対受け入れられないという事でした。 原子炉設置計画は当初、京都府宇治市に置かれる計画でした。 しかし、大阪府知事、大阪市長、大阪財界、大阪大学などが大阪市民の水源地がおびやかされるとして同案に反対し阿武山案となったいきさつがありました。 阿武山案になった途端に大阪府知事、大阪市長、大阪財界、大阪大学が積極的誘致を表明するようになりました。 大都市を守るため、大都市の発展のためには小都市、あるいは過疎地は犠牲にしてもよいという考え方が作りだされたのです。 そういう論理が茨木市民の怒りに火をつけました。 しかし、その論理は結局、その後も原発設置にはつきまとい、東京・首都圏なら危険だが福島ならまあいいかの理屈となり、大阪・京阪神なら危険だが福井若狭ならまあいいかとなってまかり通っています。 その理屈は政府の「原子炉立地審査指針」という准法制化にさえされているのです。 福島の事故によって、その理屈の非人間性が明らかとなり怒りとなっています。 この理屈がこの阿武山原子炉設置問題の中で現れていたのであり、それを茨木市民は拒否したのです。

⑩ 茨木市民の運動は、その端緒となった素朴な、かつ人間の基本権にかかわる主張の故に、政治家も学者も無視し得ないものであり、それが科学者の学問的良心をよびさまさせる方向で展開され、かつ、戦後民主主義の到達点の一つであった地方自治の原則を生かした運動形態を取ったが故に、計画撤回をかちとる成果となりました。 これはその後も今も重要な課題となっている地元住民の納得と合意抜きには原発の建設は認められないという原則の初例となったのです。 茨木では地域の産業発展計画に対する悪影響を指摘してたたかいました。 これは、その後原発が建設された過疎地域自治体が地域経済が破壊され、原発マネーに頼らざるを得ない状況が作り出される中で地域住民の不安や反対をおしのけて建設を容認していったこととあわせて重い検討課題となって来ています。 茨城県東海村村長村上達也氏は「原発に依存して地域社会を作るのは限界で、そこから脱したまちづくりを考えるべきではないか。」と述べています。(毎日新聞2011年10月8日付) 
  この市民運動はわずか一年半ほどの運動であったが、その間に原子力平和利用に関する様々な問題点が思い起こされました。 しかし、推進する側には教訓としてなんら汲み取られる事なく、安全神話はますます拡大され、住民の理解と納得を得る努力が金銭による懐柔に流され、大都市の発展のために犠牲を地方にかぶせる手法がまかり通って来てしまいました。 その行き着く先が福島の重大事故でした。 この危険性は今も続いています。

⑪ 茨木市民が切り開いた住民の合意なしに原子炉は設置させないという先例は、その後全国17カ所にわたって原発が設置されるという事で崩されて行きました。 「この経験が、今日ほとんど忘れられているように思うんですね。」という前掲武谷三男氏の発言(1981年)、嘆きとなっていますが、同時に25カ所にわたって住民の反対運動によって原発の建設が白紙撤回され、あるいは実施させていないことにも注目しなければなりません。 そしてそれが今福島の事故を受けて関係自治体を中心とした再稼働を許さない大きなたたかいとなっています。 函館市も市民をあげて大間原発の建設に反対する運動をくりひろげようとしています。 私たちも茨木の経験を伝え、北の国、函館を中心とした市民のみなさんとおおいにエールを交換したいものです。
  今、福島の大きな過酷な経験を経て、原発は人類の生存を脅かし、地球環境をも破壊しつくす悪魔の凶器ではないか、こんなものを私たちの世代が未来の子孫に残していいのかが問いなおされています。 しかし、原発を推進して来た関係財界、政治家、学者たちは相変わらず、なお、その経験を率直に学ぼうとせず、福島事故の原因もあきらかになっていないまま、原発再稼働を進め、事もあろう新しい原発を建設しょうとしたり、国外への輸出すら推進して憚りません。 こういう状況の中で、あらためて阿武山原子炉設置反対茨木市民運動の記録を再発掘し、茨木市民はもとよりひろく日本の原発に関心をもつ住民に知らせて行き、運動の経験を思い起こし、現在に生かすことは、とっても大切な今日的な意義があると思います。 今日の「原発を考える市民のつどい」を出発点として、新しい原発なくせの運動を茨木から発信して行こうではありませんか。


大間原発工事再開の異常性

2012-10-02 18:04:59 | 日記
原発なくそうの思いで集まっている茨木市民有志グループです。
ニュース、報告、呼びかけ、お願い、短いコメントなどは
ブログなくそう原発茨木」をご覧ください。 よろしくネ。



大間原発建設再開の暴挙
 
青森県・大間原発建設工事再開が急速に大きな問題に発展してきています。 大間原発建設には大きな問題点がいくつかあります。 
◆ 原発ゼロに真っ向から挑戦する暴挙
 ①に、大間原発は福島の事故後はじめての新原発の建設工事を始めると云うことです。 民主党政権の曲がりなりにも30年代には原発ゼロを目指すという方針から言っても40年間の運転を想定した新しい原発を作るということは、その彼らの公約にも真っ向から矛盾してしまう暴挙です。 国民の圧倒的な原発ゼロにという願いに真っ向から逆らう暴挙でもあります。 
◆ 世界に例のないMOX専用炉  処理できないプルトニウム、高濃度廃棄物
 ②に、大間原発は、世界で最初のMOX燃料(ウランとプルトニウムの混合燃料)専用の原子炉であることです。 ウラン以上に取り扱いが難しく危険性の大きいプルトニウムを燃料とした炉である危険性と、それが作りだす死の灰には超ウラン原子が増え、ますます超高濃度汚染廃棄物が増え、処理ができなくなって行きます。 フルMOX燃料原子炉は実験炉も実証炉も経験されていません。 それをいきなり実用炉(商用炉)でやるという危険な暴挙です。 なぜそのような暴挙を強行しようとしているのでしょうか。 それは核兵器に使われる最も危険な物質、プルトニウムが原発の運転を続ける日本ではどんどん増えており、国際的に不信の目で見られるようになっています。 それに対して高速増殖炉でプルトニウムを燃料として使うという対策が「もんじゅ」の事故に見られるように行き詰まってしまっています。 それで世界に対してMOX燃料(ウランに混ぜて普通の炉で使う)でプルトニウムを使うのであってやみくもにプルトニウムを作っているんではないとごまかしの発信をしたいからです。 政府や電力会社の有力者は「米国などに対し、プルトニウムを無計画に製造・保有していないと説明する上でも、大間原発の役割は大きい」と云っている(毎日新聞10/2による)そうです。 
◆ 周辺自治体の大きな怒りを呼び起こしている  函館市は訴訟か
 ③に、この暴挙は周辺自治体に大きな怒りを呼び起こしています。 50キロ圏内にある北海道函館市では工藤市長が「道南50キロ圏内に(人口)30万人なのに対し、青森県は9万人だ。一度も相談しないで決定を云ってくるのはとんでもない話だ。30キロ圏内の函館市の同意を得ずしての、見切り発車は許せない」と語り(10月1日記者会見)、市は訴訟を検討していると云っています。 もしそうなれば自治体が原告となるわが国最初の原発差し止め訴訟となるのではと云われています。 周辺自治体も同調する構えを見せています。
福井県大飯原発の再稼動を差し止めよ、という運動と共に、大間原発を作らせるなという運動は、全国の私たちの運動として発展させましょう。