原発なくそう 茨木

阿武山原子炉設置反対運動の歴史と意義
茨木市で原発なくそうの運動を!

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原発なくそう茨木市民の会発足にあたって 二つのぶれない軸足で

2013-06-21 14:43:23 | 日記
原発なくそう茨木市民の会です。
ニュース、報告、呼びかけ、お願い、短いコメントなどは
ブログなくそう原発茨木」をご覧ください。


「原発なくそう茨木市民の会」が発足しました。

2013年5月31日、茨木市福祉文化会館において、「原発なくそう茨木市民の会」が結成されました。
会員は300人を超し、結成総会で32人の運営委員が選任されました。 市民の会は、市民に開かれた会として
これから原発のない社会の実現の日まで、活動を続けていこうと思っています。
運営委員に参加してやろうと思われる方は、いつも歓迎していますので事務局までご連絡ください。

 さて、「市民の会」は昨年の「原発を考える市民のつどい」を引き継ぐものです。
そこで、事務局の神山氏に今までの運動の教訓とれからの運動の方向について文章を書いてもらいました。



私たちのゆるがぬ二本の軸足
  放射能は母と子の安全・安心とは両立し得ないもの
  原子炉は本質的に危険なもの
原発を使わない政治と経済への決断を求める新しい市民運動へ


          原発なくそう茨木市民の会事務局 神山治夫  2013年5月31日

① 福島の原発事故は日本の政治・経済の根もとを大きくゆるがしました。 事故からしばらくは国会の論議でもテレビや新聞など各種メディアでも原発の異常な危険性や、安全神話の大きな過ちなど、まじめな検討と反省の論議も見られました。
  私たちの運動は、昨年は、1個のウランペレットを手にして、その小さな一粒のウランペレットの中にどのような恐ろしい危険が詰め込まれているかを手がかりに、私たち茨木市民の先輩たちが訴えた「原子炉は本質的に危険なものである」という事を軸として市民との幅広い対話を進めてきました。 それは多くの市民に驚きをもって迎えられ、冊子「原発なぜアカン」、ウランペレットキーホールダーの普及と小集会や賛同署名の積み重ねが、10月26日の市民会館大ホールでの「つどい」の成功へとつながりました。

② しかし、福島の事故から二年を経過したこのごろ、特に年末の政権交代で原発再稼動への意欲を積極的に示している安倍政権が誕生してから以後の最近の国会やテレビ、新聞、雑誌などの討論の有様は一変して来ています。 原発をめぐる論議では、本質的危険性や引き続いている福島の事故の重大な不安、被害者救済の推進などの議論が後に追いやられ、共通して現れているのが、原発なくせば停電するとか電気代が倍になるとか、日本の企業が海外に逃げ出す、日本経済が不況に陥るなどという論議がとってかわり、挙句の果てには日米同盟にヒビが入る、核技術を温存しないと日本の安全保障にかかわるといった論議までが花盛りになって来ています。 原発をエネルギー政策の中にどう位置づけるかという立場の議論であり、ベストミックス論に代表されるように、国策としてのエネルギー政策の中に原発をどう位置づけるのか、云いかえれば今後の日本のエネルギー政策の中にどのような規模で、どのようなタイムスパンで原発の利用を位置付け、そのための必要な環境整備、安全対策、立地対策などを論じているものが主流となって来ています。 こういう状況は私たちの運動にも影を落とし、ある小集会でペレットを示して話をした方の経験で、「もうその話は聞いた。問題はエネルギーをどうするかや」とか云う反応が出ていると聞きます。

③ このような状況の変化をふまえて、私たちは、何を軸に据えて、市民との対話をすすめ、小集会で訴え、「原発なくそう茨木市民の会」の運動を前進させるべきだろうか。 あらためて熟慮し、検討を重ねて、これからの運動も正確に的を射た主張を中心軸に据えて運動を進めねばなりません。 そのための討論の素材としていくつか私の考えを述べてみます。


運動を困難にさせている放射能の五つの特徴 
母と子の安全とは絶対に両立し得ない放射能の特徴


④ 国民の原発に対する不安は根強いものがあると思います。 しかし、現実には状況の変化の中で、その不安に立ち向かうお母さん方の運動もさまざまな困難に直面しています。 妥協を許さずきびしく問題点を追及する母と子の運動は、特に関西地区などでは、だんだん周りの人たちとの間に溝を生じさせ、困難が生まれているようです。 それは、放射能被害のきわめて特殊な特徴、性格からよってくるものがあります。 最大の問題は放射能が目に見えず、色に出ず、匂いもなく、音もせず、つまり人間の五感で感知することが絶対に不可能な本質を持っていることに大きく影響を受けています。 そこに対話によって知を得て原発への批判を強めているお母さんたちと、五感に感じられないことから、本当に云われるほどに危険なのやろかと、切実性の感じ方が希薄になって来ている周りの人たちとの間に溝を生じさせている大きな要素があります。 原発問題では母と子の安全・安心を守るということは、最大の課題であり、全人類的な課題です。 私たちの運動もこの課題を脇においては正しく進めることはできません。 具体的には福島の子を守るという課題をかかげつつ、私たちが今年の運動を進める上で母と子の安全・安心をおびやかす放射能の五つの特徴と放射能は母と子の安全・安心とは絶対に両立し得ないことをしっかりとつかみ、市民対話の中で溝を埋め、共同を大きくひろめていく必要があるのではないでしょうか。

⑤放射能の五つの特徴を次のようにまとめてみました。
①の特徴:五感で感じることができない危険(微小・核子の世界)。②の特徴:閾値のない危険(LNT)。③の特徴:若い命、幼い命を集中しておびやかす危険(DNA破壊)。④の特徴:時間の制限がない、いつ現れるかわからない危険(晩発性)⑤の特徴:人間の手で、力で消し去ることのできない危険(核子レベル世界の法則性)
 以下、五つの特徴については別にまとめて書いてみますが、運動を確信持って進めてゆく上でこの問題を深く学習することは避けて通れない重要な課題です。 しかし、ある程度まとまった学習を通じてしか本当に知り得ないというむつかしさがあります。 ここでは、全体をつかむために、概略だけふれておくことにし、別の機会にしっかりと学んでみる必要があると思います。
①の特徴:五感で感じることができない危険(微小・核子の世界)。 放射能を持つ放射性物質には近づかないように、触れないように、放射性物質に汚れた食べ物や飲み物は口に入れないように、放射能を含む空気は吸わないようになどと子を持つお母さんたちは心配だからあちらこちらで開かれた説明会や勉強会に出かけて学びます。 しかし、そのとおり実行しようにも大変です。 何も見えず、匂いもせず、手にふれてもわからず、自分の力ではどうしようもないのです。 信頼できる検査済みのものをと思っても検査はごくわずかしかやられておらず、全ての食品を検査することはできません。 産地で選べるかそれも無理です。 つまり五感で感じ取れない危険でいくら説明されても安全だといわれてもお母さんの不安は絶対になくすことができません。 これは一方で母と子の不安を払拭できないから深く掘り下げ追及も先鋭化していく側面と、一方では日常的に感覚をマヒさせてしまう側面を持っています。 

②の特徴 閾値のない危険 (Linear No Threshold)
 第二の特徴は閾値がないということです。 閾とは玄関先の扉の下の木のことで、ここをまたいで入ると家の中、そこを境目に外と内とがわかれています。 ある量以下なら反応が起こらないというのが閾値です。 今まで私たちが知っていた毒物には、みな閾値があります。 しかし、この放射能による被害には閾値がないというのが最近の研究で明らかになっています。 つまり、どんなに僅かの放射能でも、ある程度少なかったら大丈夫という線切りはなくて害を受けてしまうというのが放射能被害の特徴です。
 
③の特徴 若い命、幼い命を集中しておびやかす危険 (DNA破壊)
 第三の特徴は放射能は何を傷つけるかという問題です。 放射線は、生体の細胞内のごく小さな器官を傷つけますが、特に細胞分裂の盛んな子供、赤ちゃん、妊産婦、胎児のDNAをひどく傷つけるという特徴があります。 

④の特徴 時間の制限がない、いつ現れるかわからない危険 (晩発性)
 DNAを傷つけられた異常な細胞はだんだんと分裂をくり返して、何年、何十年か先に体の異常として現れてくるようになります。
 
⑤の特徴 人間の手で、力で消し去ることのできない危険 (核子レベル世界の法則性)
 最後に今まで考えて来たこの四つの特徴を持った危険性は、人間の手では、力では、知恵では消し去ることができないという特徴です。 放射線は核子、素粒子の世界でそこの法則に従うしかありません。 30年で半分減ると次の30年で残りの半分が減るという減り方をします。 結局一応なくなったと云える0・1%にまで減るのは30年の10倍、つまり300年かかることとなります。 プルトニウムなら半減期が2万4000年で消滅するまでには24万年かかることとなります。 日本の国が出来たとされる天武天皇の時から、まだわずか、1300年余りしか立っていません。 アメリカ合衆国にいたっては、まだ230年しかたっていません。 セシウムをなくすまでにはアメリカ建国以来の長い年月をかけてもまだ足りません。 24万年かかって始末しなければならないなどとは、とても私たちの考えられる時間、スパンではありません。

 以上、放射能の危険が持っている5つの特徴を概略書きましたが、いずれの特徴を取ってみても、原発は母と子の安全・安心とは絶対に両立し得ないものです。 母と子の安全・安心が守られないということは、人類が絶対に行ってはならない業、行状です。 私たちが原発問題を考える時に、絶対ゆるがせにできない事であります。 このことを私たちはしっかりと揺れない、ぶれない軸足の一つとして確認して運動を進めたいと思います。


放射能を必然的に産みだしてしまう原子炉の本質的危険

⑥ エネルギー問題が、今、焦眉の問題として国民的討論のテーマとなっているのはなぜでしょうか。 的外れでない正しい討論をすすめるには、出発点をはっきりした立脚点に立たせて、討論に焦点をあてなければなりません。 今、エネルギー問題が国民的な討論のテーマとして浮上しているのは、福島の事故によって、原発がはたして使用に耐える、使用が許される発電システムであるのかどうかということが根本から問いなおされる事態になっていることにあります。 福島の事故がなく、原発に何の問題もなければ、日本では電力問題、エネルギー問題が化石燃料の将来性、炭酸ガス排出規制が問題になっても電力需給が焦眉の急な問題にはなりませんでした。 福島の事故が起こり、隠されていた原発の持つ危険性が国民の目にあきらかになり、多くの原発が動かせなくなった(現在日本の原発は54基の内福島の4基が事故により廃炉になり、48基が動かせなくなって大飯の2基だけが発電をしている)からこそ、電力問題、エネルギー問題が大きな社会的問題、政治的問題になっているのです。 出発点は原発の安全性がすっかり瓦解してしまった、発電システムとして利用可能なのか、利用していいものなのか、それが出発点です。 そこに徹底的なメスを入れ、解明し、国民的な討論を起こし、国民的な合意を得なければ日本のエネルギー問題を論じることはできない筈です。 残念ながら氾濫しているメディアによるエネルギー問題の取り上げ方に、その根本問題から目をそらしたものがすっかり多くなってしまいました。 

⑦ その根本問題をま正面から取り上げて国民的討論にかける。 全てはそこから始まります。 その根本問題の解明をさけてあれこれと規制基準の策定とか、当面の安全対策とか、更に進んで経済効果だとか、挙句の果てには日米同盟の深化とか安全保障とかの論議を行うことが基本的に間違っています。 原発は根本的に人間が(具体的には日本人が日本列島で)使用するに耐えるものか、使用が可能なものか、使用が許されるかの判断(狭義の安全対策だけではありません)、国民的合意抜きにして、派生する諸々の問題、諸々の対策、諸々の影響を論じてもそれは意味がないし、危険でさえあります。 

⑧ 原発使用の可否、使っていいものか、スイッチを入れてよいものか、いけないものかは、もっと深い根源的なところにあります。
 福島の事故は、原発に起こり得るシビアアクシデントは、その規模、深刻さにおいて日本国家の存立の基礎をゆるがす、日本国民の生存をおびやかす恐れのあるものであることを明らかにしました。 福島の事故のこれまでの経過、今の現状が、最もシビアなものではありません。 あの事故が人間の手におえない偶然的な条件(気象などの)によっては、首都東京全域をも退避地域にしてしまう可能性があったものであったことは明らかになっています。(原産報告書・原発なぜアカン冊子8頁参照) もし地震が数時間遅れて11日(金)の数時間おくれた夜であったなら、東京都も全域避難区域になってしまった可能性を指摘するアメリカの専門家の証言もあります。 そしてその事故の詳細な経過と原因は、まだ解明されるに至っていませんし、事故そのものも収束したと云える状況ではないことは最近の停電事故、漏水事故が明らかにしました。 東電の発表資料を見ますと(昨年末現在)福島第一原発から環境中に放出されている放射能は1号機が1000万ベクレル/h、2号機が1000万ベクレル/h、3号機が4000万ベクレル/h、合計福島第一原発からの放出量は総計6000万ベクレル/hとなり、これはここ1年間安定的に経過しているとしています。(3月7日に開かれた政府の原子力対策本部内原発廃炉対策推進会議では「同発電所が安定状態を継続している」と評価しています) 今この瞬間も静かに、目にも見えず、音もせず、匂いもせず、国民の目の届かぬところで、休むことなく延々と安定的に(!)放出しているのです。 まだ政府・東電は完全に事態を手中に収めコントロールし得たと云える状況には全く至っていません。 人工放射性物質を環境中に放出することは日本国の法規で許されぬ犯罪行為です。 政府・東電は、日夜、今現在も犯罪行為を進行中なのです。 福島第一原発に残存する放射性物質(いわゆる死の灰)は、この事故の今までの、あってはならない環境への放出の総量(事故当初11年3月時点70京ベクレル、12年5月時点累計90京ベクレル、現在は100京ベクレルに達しているだろうと見られる)のなお数百倍に達するとみられています。 この現状が原発使用の可否の第一にクリアしなければならない問題です。

⑨ たった1立方センチ、9grほどの小さなウランペレット燃料を燃やし、1家庭半年分ぐらいの電気を取り出しただけで、その小さなウランペレット内に、何万人レベルの人間の命にかかわる放射性物質を産みだし、放射性セシウム137だけでも600億ベクレル、今の政府の示す安全基準(通常食品で100ベクレル/Kg)で約60万トンの食品を食べられなくさせるだけの死の灰を生産してしまいます。(昨年の運動で私たちがひろく訴えてきたことで、今も最も重要な事であるには変わりありません) これが原子炉の持つ本質的危険です。 原発が使用に耐えるシステムであるかどうかの根本は、この原子炉の持つ本質的危険を、地球環境に、住環境に放出することのない「完全な遮断」を技術的に人間が手中に収めているかどうかが、第一の問題ですが、福島の事故は事実で以て完全に否定する結論を示しました。 にもかかわらず政府、原子力規制委員会は新規制基準なるものを持ちだして再稼動を進めようとしています。 新規制基準は、本質的なところでは何も原子炉安全基準を強化したものでもなんでもありません。 田中委員長は「新基準はいわゆる設計基準として格納容器の基本構造に対する要求変更は致しておりません」(参議院予算委員会4月23日答弁)と云っています。 つまり危険な原子炉の本体については何の基準強化もしていないと云っているのです。 原子力ムラの人たちは、危険な放射性物質をペレット中に産み出すことは否定できず、五重の防護で放出を絶対にさせないと豪語してきました。 その根源的な一重目の防護がペレットに閉じ込めるでありました。 このことを最近、私はペレットの中に馬1匹を閉じ込めている危険性と云う新しい切り口でお話をしようと考えています。 大飯3号機、4号機のように100万キロワット級の原発は出力300万馬力ほどあります。 4m四方ほどの僅かな空間に300万頭もの馬を閉じ込めているようなもんです。 コントロールする、手綱を取るのにペレットに閉じ込めているのですが、しかし、僅か直径9mmぐらい(核反応の持つ法則性からこの小ささが要求される)のペレットの中に馬1匹分のエネルギーを閉じこめるのですから、中心温度は2000度に達し、表面温度は280度に維持しなければならないというとんでもない管理をしなければなりません。 その温度勾配から見てペレットを包む第二重目の防護であるジルコニウムの燃焼破損温度約800度との間には1mmぐらいの隙間しかなく、一重目の防護とされるペレットそのものがきわめて綱渡り的な、危険なシステムとなっています。 ペレット温度管理(水温管理)の少しのバランスの狂いが二重目のジルコニウム管も燃え上がらせ水素爆発を起こし、三重目の圧力容器も四重目の格納容器も五重目の原子炉建屋も破壊してしまう危うい「安全」であったことが明るみで出ています。 ペレットに閉じ込めたつもりの馬の手綱を人間はさばくことができないのです。 軽水炉の持つ指摘されているこのような弱点について新基準はなんら触れることのないまま、なんの構造的改変を要求することもなく再稼働に突っ走ろうとしています。

⑩ 第二に、仮に当面更なる事故を幸運にも回避しながらという条件つきであっても、原発を運転するかぎり、必然的に人間の生存と相いれない放射性物質(死の灰)を大量に生産してしまいます。 これは核エネルギーを人工的に取り出すNuclear Power Plants(核エネルギー工場)の持つ避けられない「本質的」な危険なのです。 56年前、大阪府茨木市近辺の阿武山に研究用原子炉が設置されようとして茨木市民が総力をあげて反対した時、当時原子物理学の重鎮と云われた武谷三男氏が茨木市立小学校講堂で「原子炉は本質的に危険なものである」と説かれました。 人間が原子炉を作り、核分裂によりエネルギーを取り出せば、それは必ず法則的に、好むと好まざるとにかかわらず、人間の生存と相いれない放射性物質を、しかも大量に、人類の生存にただちに影響を及ぼすようなすさまじいスケールで作り出してしまうことになります。 
 そして人間は、その放射性物質を未だに安全に完ぺきに
管理し処理し処分する方法を知り得ていません。 作り出してしまった放射性セシウム137の半減期は30年とあって消滅させるまでに300年と云う月日が必要とされます。 それを人知、人技でもって5年に短縮させよう、無害化しようとしてもできません。 法則的にできないのです。 それはここ数年、数十年研究したら解決できるというレベルの問題ではありません。 青森六ヶ所村の再処理工場も、プルトニウム処分を唱えるもんじゅ高速増殖炉も、最終処分地の選定も全てが行き詰まっています。 これが第二の問題の現状の結論です。(日本のプルトニウム所有量は44tで国内保有9t、海外保有35tで非核国で最大、IAEAスタッフの半数が日本の査察にあたっている)


原発は使用してはならないシステム、スイッチを入れてはならないシステム

⑪ したがって今の状況で原発を稼働させれば、処分のできない危険な核のゴミをあふれさせ、いずれそう遠くない時期に、そのことの故に、つまり原子炉の持つ本質故に人間は原発を動かすことができなくなります。 以上の二点だけで原発は使用に耐える、使用が許される発電システムではないことは歴然としています。 原発にはおびただしい問題点があります。 論じ尽せぬほど多くの問題点があります。 その一つ一つを検証し、チェックして問題点を洗い出さねばなりませんが、今挙げたこの二点だけでここ数年から数十年の計を論じるエネルギー問題の論議に原発使用の可否の判断はきわめて明瞭な結論しか出せません。 原発それは使用に耐えない、使用してはならないシステムである、スイッチを入れてはならないシステムだという結論です。 これを去年に続いて今年の私たちの運動をも貫らぬくゆるがぬ第二の軸足にして行かねばならないと思っています。

⑫ 言いかえれば原発は未完成のシステムであり、完成させ得る見込みのたっていないシステムです。 原発というシステムは、そのあまりにも巨大なリスクのために企業の力では保険を整備し得ない、そしてきわめて危険な産業廃棄物も管理、処理、処分ができない。 このような完結し得ないシステムであります。 このような完結しないシステムとわかりながら稼動する企業家は通常はありません。 ペテン師か、どこかの部分で国家にその責任を振っている無責任企業家のすることであっても通常の企業家、経済人のすることではありません。 通常はあり得ないことです。 その有り得ないことが、原発では、国策という大きな遮蔽物の陰で50年以上にわたって行われて来ました。 だれも責任を取らない腐敗しきった原子力村というシステムに乗っかって稼動させられてきました。 そして福島の破たんに至ったのです。
 今、明白になったこの事実に目をそむけたまま、原発の可否を問うことなく、電力需給を論じ、日本経済の景気回復を論じて、目先の利害得失によって原発再稼動を論じる愚をくりかえしてはならないと痛感します。
 

原発をうごかさなければ政治、経済を運営し得ない政治家は退場を
原発にたよらずに日本の政治、経済を運営できる政治家の登場を!


⑬ 今の状況でエネルギー問題の徹底的論議をするならば、以上に述べて来たように、「原発使用の可否」が議論の出発点であらねばなりません。 原発が使用に耐え得ない、使用が許されないシステムであることが明らかとなり、国民的な合意も得られる(現状でも多くの世論調査では原発ゼロを求める意見が80%を越えている)ならば、そこからすべての討論が始まります。 使用してはならない悪魔のシステムのスイッチを入れないで、どうして日本の新しいエネルギー体系を構築するか、国力、民力、科学力、技術力、知者の知恵、国民消費者の協力、その全ての総力をあげて、悪魔のスイッチを入れないで日本のエネルギー供給、国家運営、経済の安定、発展、国民生活の新しい豊かさへの改善にどう向かって行くべきか、国民的徹底討論と、政治の強力なリードが求められます。 そこが出発点です。 まず政府に問わなければなりません。 使用に耐えない、使用が許されない悪魔のシステムのスイッチを入れないで、国家を運営し、経済の安定と発展、国民生活の新しい充実をめざして行くという立場に立ち得るのか、と。 悪魔のシステムのスイッチを入れないで政治を担う、意欲も能力もないのか、と。 ないならば、現下の日本の状況の中で国政を担う資格はありません。 即刻(来る参議院選挙で)退場してもらう以外にはないのです。
 日本の産業界、財界の指導機関であると自負される経団連にも問わねばなりません。 悪魔のシステムのスイッチを入れないことには、日本の経済の運営にあたる意欲も能力もないと自認されるなら、これも退場ねがわずにはおられません。 少なくとも政治に容喙し、干渉することは遠慮願うしかありません。 
 そうして悪魔のシステムのスイッチを入れないとの決断の上にたって、電力構造(発送電問題)、電気料金のあり方、公開と見直し、化石燃料への短期の対応と長期の構想、自然再生エネルギーの技術開発と成長基盤の整備育成、エネルギー産業と地域経済との相関的発展の方向づけ、安全神話に毒され切った原子力村の完全な解体と良心的科学者、技術者、企業家の新しい結集、福島事故被害者への生命、健康、生業、暮らし、将来への全面的補償と再建、住空間のみならず汚染された環境の全面的な除染と回復、廃炉に向けた技術開発と立地地域産業の復活再生を結びつけた事業化、省エネ技術の開発と国民参加による省エネ型の新しい明るい生活設計、新しい産業構造の構築と若者参加などさまざまな課題に挑戦していく可能性が開かれます。 課題は山積し、すでに一部では明るい萌芽もみられるし、日本人の新しい知恵と工夫、熟達した技術と伝統の見せ場ともなります。
 今、すべての政治家、経済人、技術者、学者などに問われているのは、悪魔のシステム原発のスイッチを入れないで日本のエネルギーシステムの再構築、産業構造の見直しに着手するかどうかの決断です。 つまり原発ゼロへの決断、全ての原発の再稼動を認めないと云う事の決断です。 政治的決断と国民合意の形成です。 今国民が必要としている政治とは、その決断の上にたって、政治、経済、国民生活の安定と発展を目指すことを明らかする政治と経済が求められるのです。 この方向に日本の政治が舵を切り替える方に向くかどうかが来る参議院選挙で問われる最大の選択の一つです。 この時期に、原子炉を拒否した日本最初の市民運動の伝統を受け継ぐ「茨木市民の会」の結成を宣言したことは、大きな意味があります。 ペレットやアカン冊子や、小集会の知恵と工夫を産みだした去年の経験を生かした活動を展開しましょう。 ベトナムや、トルコに原発アカン冊子の英語版を届けることも小さな取るに足らぬ動きのようですが、安倍の暴走に立ち向かう大きな私たちの意気込みを示すものです。 安倍の暴走は勢いがあるように見えますが、福島後最初に原発輸出の契約にこぎつけたエストニアでは住民投票で阻まれ、地元の福島は汚染水の行き場がなくなり、もんじゅはうごかせなくなり、敦賀は廃炉に追い込まれつつあります。 原発輸出に活路を見出そうとしていますが、福島の事故も収束せず、犠牲者の救援もできないのに原発輸出とは人間のすることか、とかえって国民の怒りをかっています。 吉井さんの講演にあったように原子力村は強大なとてつもない力を持った勢力ですが、国家の後ろ盾を失った時には原発の1基だってうごかすことができない弱さを持っています。 国家の進路を決める私たちこそが彼らの運命を握っているのです。 自信をもって運動をひろげましよう。 「市民の会」の存在感を市民の中にひろく定着させましよう。



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2013-04-11 16:59:07 | 日記
原発なくそうの思いで集まっている茨木市民有志グループです。
ニュース、報告、呼びかけ、お願い、短いコメントなどは
ブログなくそう原発茨木」をご覧ください。 よろしくネ。


いま、なぜ 仮称「原発なくす茨木市民の会」の結成をめざすのか
                   原発を考える茨木市民のつどい実行委員会・事務局 矢頭正明
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 今から56年前の1957年8月16日 に、「阿武山に原子炉設置計画」と新聞報道されたことに、各町内会、商工団体、農協、婦人団体、青年団体、医師会、歯科医師会、文化団体などが参加して、当時の田村英茨木市長を委員長に「茨木市阿武山原子炉設置反対期成同盟」が設置された運動に、立教大学の武谷三男教授をはじめとする科学者も加わり、「原子炉は本質的に危険なものである」ことを明らかにし、市をあげての大運動を1年数ヶ月展開して1959年に設置断念させた、「阿武山原子炉設置反対運動資料」を福島原発事故と重なるように2011年の夏に発掘したことが今すすめている運動の出発点になりました。

「本質的に危険な原発をなくしたい」の運動は、2011年末から「原発懇談会」の開催を重ね2012年春に開催した「原発設置反対小浜市民の会との交流ツアー」の成功をバネに、「原発を考える市民のつどい実行委員会」を設置し、原発設置反対運動を続ける小浜・明通寺の中嶌哲演住職を講師に茨木市民会館大ホールで「10・26原発を考える市民のつどい」を17人の「呼びかけ人」の呼びかけのもと成功をめざして、「原発なぜアカン」冊子発行・普及、「ペレットキーホルダー」の作成・普及、「阿武山原子炉設置反対運動資料」展示会、小集会、「市民のつどい賛同署名」の推進、「市民のつどい参加・資料引き換えチケット」の普及、「市民のつどい案内ビラ」の地域配布、商業紙への折り込み、街頭宣伝、つどい案内ポスター貼りだし、募金活動等々、多くの方の協力のもと運動をすすめ、「10・26原発を考える市民のつどい」は700人をこえる参加で大成功させることができました。

私たちは、「阿武山原子炉設置反対運動資料」を通じ、理不尽なことには一歩も引かず、「原子炉は本質的に危険なもの」という立場から、「自分たちの生まれ育った土地を護るためあくまで反対する」等の思いから市民と自治体、科学者と力を合わせて、「命を守る、暮らしを守る」要求で団結することで、市をあげての大きな運動に発展させることができることを学びました。

私たちは、「10・26原発を考える市民のつどい」成功をめざす運動を通じて、小集会や訪問・対話活動で、丁寧に訴え、意見交換することによって多くの人々から「原発なくそう」の賛同を得ることができたこと。
積極的な目標をかかげ、多くの方々の知恵を結集した活動をすすめることによって、前進できることも学びました。

 私たちは、「10・26原発を考える市民のつどい」で、心を込めて語られた中嶌哲演さんのことを、「「原発銀座」若狭で反対運動を続ける反骨の僧」と雑誌等で表されていますが、命をおろそかにする者には一歩も引かず、迫力をもって闘う人、人に優しい人、魅力ある和尚と思われた方は少なくないと思います。
 中嶌哲演さんは講演の中で、原発の恐ろしさを訴えられました。原発現場で働く労働者の内部被ばくの実態、地元住民の思いも語られました。そして、電気を大量使用している大阪などで「原発なくそう」の闘いを強めることが原発立地地元の住民を励まし、一致して「原発なくそう」のうねりをつくり出すことになることを訴えられました。改めて大阪・茨木での運動の重要性を学びました。

 私たちは、この間学んできたことを力に、「原発を考える市民のつどい実行委員会」で、これまでの運動をさらに強力、発展させる仮称「原発なくそう茨木市民の会」の結成をめざすこととしました。19人の方たちの呼びかけをいただいて、5月31日に結成総会を開催することを決めました。
本質的に危険な原発なくし、人にやさしい自然エネルギーへの転換を求めて行く市民の会を出発させることとしました。

私たちは、いま、なぜ力を込めて“原発なくせ“の運動をすすめていくのか、それは、安倍政権が原発事故から2年過ぎた今日も16万人の避難者をはじめ満足な補償も受けられず苦しい生活を強いられている被害者には目もくれず、福島原発事故が収束されていない今、電力会社や原発メーカー、経団連などの要請に応えて、原子力規制委員会が進めている「新安全基準」をテコに、「安全対策」を講じれば「原発は安全」と改めて「安全神話」をふりまき、休止中の原発再稼働、新規原発建設の動きを急速に強め原発推進へ一気にかけぬけようとしています。

安倍政権と、それを支援する原発推進勢力のなりふりかまわない策動に対して、この2年間すすめてきた「再稼働反対」、「原発ゼロ」を求める運動は首都圏をはじめ全国で、日々大きく前進しています。原発ゼロを望む市民の声はますます勢いを増し、国民の7割以上が「原発をやめる」ことを支持しています(朝日新聞2/16・17調査)。安倍政権は国会では多数に見えますが、「原発ノー」の民意は圧倒的多数です。

6月2日には、「さようなら原発1000万人アクション」、「原発をなくす全国連絡会」、「首都圏反原発連合」が連帯、共同して「原発なくせ」の大規模行動をおこないます。
7月には、原発の推進を許すのか、それとも原発をなくし、自然エネルギーに転換させる道を選ぶのかが鋭く問われる参議院選挙(7/4公示、7/21投票日予定)がおこなわれます。参議院選挙は、原発ゼロを求める私たちにとって、原発推進勢力に「原発ノー」を突きつける絶好のチャンスです。

私たちは、いま、原発をめぐる激しい攻防戦のまっただ中にいます。「止めても止まらない、動かせば動かすほど目にも見えない、臭いもしない猛毒をつくり出す原発」の稼働を許すわけにはいきません。
我が子や孫に、人にやさしい安心・安全の自然エネルギーを手渡したい。この願い実現をすすめる仮称・原発なくそう茨木市民の会結成総会と吉井英勝前衆議院議員を迎えての講演の夕べを成功させましょう。総会成功へ参加案内をひろめていきましょう。

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異議あり! テレビ「どうするエネルギー」を視聴して

2013-02-18 10:55:13 | 日記
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NHK特集「新生日本」シリーズ「どうするエネルギー」を視聴して 異議あり!
                                      神山治夫
                                              2013年2月17日

2013年2月16日NHKテレビは特集徹底討論「新生日本」シリーズ「どうするエネルギー」を放映し、視聴した。 徹底討論と題されているが、討論の筋立てに根本的な問題ありと感じた。 思うままにノートした。

エネルギー政策の論議と原子力の本質的危険性
原発を使わない政治と経済への決断と新しい知力の総結集を

神山治夫2013年3月25日
① 福島の原発事故は日本のエネルギー政策の根幹をゆるがした。 2月16日、NHKテレビは特集徹底討論「新生日本」シリーズにおいて「どうするエネルギー」をテーマとして政府代表、経済界から経団連、大学、民間の識者数名による討論を放映した。 各種メディアでもエネルギー問題の議論が再々にわたって登場する。
 しかし、このNHKの討論を始め最近の討論に共通して現れているのが、原発をエネルギー政策の中にどう位置づけるかという立場の議論であり、ベストミックス論に代表されるように、国策としてのエネルギー政策の中に原発をどう位置づけるのか、云いかえれば今後の日本のエネルギー政策の中にどのような規模で、どのようなタイムスパンで原発の利用を位置付け、そのための必要な環境整備、安全対策、立地対策などを論じているものが多い。 しかし、エネルギー問題が、今、焦眉の問題として国民的討論のテーマとなっているのはなぜか。 徹底的な討論をすすめるなら、出発点はそこにはっきりした立脚点、討論の焦点をあてなければならない。 今、エネルギー問題が国民的な討論のテーマとして浮上しているのは、福島の事故によって、原発がはたして使用に耐える、使用が許される発電システムであるのかどうかということが根本から問いなおされる事態になっていることにある。 そこに徹底的なメスを入れ、解明し、国民的な討論を起こし、国民的な合意を得なければ日本のエネルギー問題を新しい立場から論じることはできない筈だ。 残念ながら氾濫しているメディアによるエネルギー問題の取り上げ方に、その根本問題から目をそらしたものが多い。 前記NHKの討論においても民間識者をふくめその視点に立つことを断固として主張する立場に立った論者の姿が見えなかった。
 その根本問題をま正面から取り上げて国民的討論にかける。 全てはそこから始まる。 その根本問題の解明をさけてあれこれと規制基準の策定とか、当面の安全対策とか、更に進んで経済効果だとかいった、挙句の果てには日米同盟の深化とか安全保障とかの論議を行うことが基本的に間違っている。 原発が根本的に人間が(具体的には日本人が日本列島で)使用するに耐えるものか、使用が可能なものか、使用が許されるかの判断(狭義の安全対策だけではない)、国民的合意抜きに、派性する諸々の問題、諸々の対策、諸々の影響を論じてもそれは意味がないし、危険でさえある。
 しかし、政府やそれに近い論者はこう反論する。 その使用に耐えるもの、使用が可能なもの、使用が許されるものか否かの判断のために具体的な規制基準や、安全対策、電力需給・経済への影響度などを詳細に検討することが現実的であって、原発NoかYesかの理念論争をやっているのではない、と。 しかし、政府やその論者たちは重大なことをごまかしている。 なぜなら徹底討論の冒頭でも明らかになったように、規制基準、安全対策の強化などは全て再稼動の手順のひとこまとして行われているのであって、原発使用の可否の判断のための調査活動ではない。 可否の判断は拙速に決められない、決めるべきではない、と先延ばししながら早期の再稼動めざしての準備作業として論議もし、行政的措置もとっているのが現実である。 使用の可否の判断のためと強弁するなら、その可否の国民的判断が示されるまで、すべての原発(稼動中の大飯2基を含む)を停止し、再稼動しないという政治決定が先にあるべきである。   

② 原発使用の可否はもっと深い根源的なところにある。 福島の事故は、原発に起こり得るシビアアクシデントは、その規模、深刻さにおいて日本国家の存立の基礎をゆるがす、日本国民の生存をおびやかす恐れのあるものであることを明らかにした。 福島の事故の今の現状が、最もシビアなものではない。 あの事故が人間の手におえない偶然的な条件(気象などの)によっては、首都東京全域をも退避地域にしてしまう可能性があったものであったことは明らかになっている。 そしてその事故の詳細な経過と原因は、まだ解明されるに至っていないし、事故そのものも収束したと云える状況ではない。 福島第一原発に残存する放射性物質(いわゆる死の灰)は、この事故の今までの、あってはならない環境への放出の総量のなお数百倍に達するとみられている。 今この瞬間も時間あたり1000万ベクレル(放射性セシウム137換算)もの放射性物質が放出され続けている。 静かに、目にも見えず、音もせず、しかし、休むことなく延々とである。 まだ政府・東電は完全に手中に収めコントロールし得たと云える状況にも至っていない。 これが原発使用の可否の第一にクリアしなければならない問題である。
 第二に、仮に当面更なる事故を幸運にも回避しながらという条件つきであっても、原発を運転するかぎり、必然的に人間の生存と相いれない放射性物質(死の灰)を大量に生産してしまう。 これは核エネルギーを人工的に取り出すNuclear Power Plants(核エネルギー工場)の持つ避けられない「本質的」な危険なのである。 56年前、大阪府茨木市近辺の阿武山に研究用原子炉が設置されようとして茨木市民が総力をあげて反対した時、当時原子物理学の重鎮と云われた武谷三男氏が茨木市立小学校講堂で「原子炉は本質的に危険なものである」と説かれた。 それは人間が原子炉を作り、核分裂によりエネルギーを取り出せば、それは必ず法則的に、好むと好まざるとにかかわらず、人間の生存と相いれない放射性物質を、しかも大量に、人類の生存にただちに影響を及ぼすようなすさまじいスケールで作り出してしまうことになる。 たった1立方センチ、9grほどの小さなウランペレット燃料を燃やし、1家庭半年分ぐらいの電気を取り出しただけで、その小さなウランペレット内に、放射性セシウム137を600億ベクレル、今の政府の示す安全基準(通常食品で100bq/Kg)で約60万トンの食品を食べられなくさせるだけの死の灰を生産してしまう。 これが原子炉の持つ本質的危険である。 原発が使用に耐えるシステムであるかの根本は、この原子炉の持つ本質的危険を、地球環境に、住環境に放出することのない「完全な遮断」を技術的に人間が手中に収めているかが、第一の問題であるが、福島の事故は事実で以て完全に否定する結論を示した。
 そして人間は、その放射性物質を未だに安全に完ぺきに管理し処理し処分する方法を知り得ていない。 作り出してしまった放射性セシウム137の半減期は30年とあって消滅させるまでに300年と云う月日が必要とされる。 それを人知、人技でもって5年に短縮させよう、無害化しようとしてもできない。 法則的にできない。 それはここ数年、数十年研究したら解決できるというレベルの問題ではない。 これが第二の問題の現状の結論だ。
 したがって今の状況で原発を稼働させれば、処分のできない危険な核のゴミをあふれさせ、いずれそう遠くない時期に、そのことの故に、つまり原子炉の持つ本質故に人間は原発を動かすことができなくなる。 この二点だけで原発は使用に耐える、使用が許される発電システムではないことは歴然としている。 原発にはおびただしい問題点がある。 論じ尽せぬほど多くの問題点がある。 その一つ一つを検証し、チェックして問題点を洗い出さねばならないが、今挙げたこの二点だけでここ数年から数十年の計を論じるエネルギー問題の論議に原発使用の可否の判断はきわめて明瞭な結論しか出さない。 それは使用に耐えない、使用してはならないシステムであるという結論だ。

③ 言いかえれば原発は未完成のシステムであり、完成させ得る見込みのたっていないシステムである。 これを現実社会で稼動させるということはどういうことか。 企業活動で云うならば、出資をし、設備を作り、資材を用意し、労働者を雇用し、リスクに備えて保険を整備し、生産活動を開始し、製品を出荷し、流通させ、消費に至る。 残った産業廃棄物は製造者責任で保管し処理処分する。 これらの一貫した全体のシステムを完結させて投資した資本に見合う利潤が得られて再生産が可能となる。 しかし、原発というシステムは、そのあまりにも巨大なリスクのために企業の力では保険を整備し得ない、そしてきわめて危険な産業廃棄物も管理、処理、処分ができない。 このような完結し得ないシステムである。 このような完結しないシステムとわかりながら稼動する企業家は通常はない。 ペテン師か、どこかの部分で国家にその責任を振っている無責任企業家のすることである。 通常はあり得ないことだ。 その有り得ないことが、原発では、国策という大きな遮蔽物の陰で50年以上にわたって行われて来た。 だれも責任を取らない腐敗しきった原子力村というシステムに乗っかって稼動させられてきた。 そして福島の破たんに至った。
 今、明白になったこの事実に目をそむけたまま、原発の可否を問うことなく、電力需給を論じ、日本経済の景気回復を論じて、目先の利害得失によって原発再稼動を論じる愚をくりかえしてならない。 

④ 今の状況でエネルギー問題の徹底的論議をするならば、以上に述べて来たように、「原発使用の可否」が議論の出発点であらねばならない。 原発が使用に耐え得ない、使用が許されないシステムであることが明らかとなり、国民的な合意も得られる(現状でも多くの世論調査では原発ゼロを求める意見が80%を越えている)ならば、そこからすべての討論が始まる。 使用してはならない悪魔のシステムのスイッチを入れないで、どうして日本の新しいエネルギー体系を構築するか、ベストミックスはどうあるべきか、国力、民力、科学力、技術力、知者の知恵、国民消費者の協力、その全ての総力をあげて、悪魔のスイッチを入れないで日本の国家運営、経済の安定、発展、国民生活の新しい豊かさへの改善にどう向かって行くべきか、国民的徹底討論と、政治の強力なリードが求められる。 そこが出発点だ。
 NHK番組には政府・自民党代表と経団連代表、大学・民間シンクタンクの知者たちが集まっておられた。 まず政府に問わなければならない。 使用に耐えない、使用が許されない悪魔のシステムのスイッチを入れないで、国家を運営し、経済の安定と発展、国民生活の新しい充実をめざして行くという立場に立ち得るのか、と。 悪魔のシステムのスイッチを入れないで政治を担う、意欲も能力もないのか、と。 ないならば、現下の日本の状況の中で国政を担う資格はない。 即刻(来る参議院選挙でも)退場してもらう以外にはない。
 日本の産業界、財界の指導機関であると自負される経団連にも問わねばならない。 悪魔のシステムのスイッチを入れないことには、日本の経済の運営にあたる意欲も能力もないと自認されるなら、これも退場ねがわずにはおれない。 少なくとも政治に容喙し、干渉することは遠慮願うしかない。 
 そうして悪魔のシステムのスイッチを入れないとの決断の上にたって、電力構造(発送電問題)、電気料金のあり方、公開と見直し、化石燃料への短期の対応と長期の構想、自然再生エネルギーの技術開発と成長基盤の整備育成、エネルギー産業と地域経済との相関的発展の方向づけ、安全神話に毒され切った原子力村の完全な解体と良心的科学者、技術者、企業家の新しい結集、福島事故被害者への生命、健康、生業、暮らし、将来への全面的補償と再建、住空間のみならず汚染された環境の全面的な除染と回復、廃炉に向けた技術開発と立地地域産業の復活再生を結びつけた事業化、省エネ技術の開発と国民参加による省エネ型の新しい明るい生活設計、新しい産業構造の構築と若者参加などさまざまな課題に挑戦していく可能性が開かれる。 課題は山積し、すでに一部では明るい萌芽もみられるし、日本人の新しい知恵と工夫、熟達した技術と伝統の見せ場ともなる。
 今、すべての政治家、経済人、学者などに問われているのは、悪魔のシステム原発のスイッチを入れないで日本のエネルギーシステムの再構築、産業構造の見直しに着手するかどうかの決断である。 つまり原発ゼロへの決断、全ての原発の再稼動を認めないと云う事の決断である。 政治的決断と国民合意の形成である。 今国民が必要としている政治とは、その決断の上にたって、政治、経済、国民生活の安定と発展を目指すことを明らかする政治が求められるのだ。
 そこからすべての新しい論議、新しい展望が開け、取り組みが始まる。
 原発ゼロへの決断、全ての原発を再稼動させないという決断、それが全ての出発点となる。




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「原発を考える市民のつどい」記念論文

2012-10-29 19:44:44 | 日記
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「原発を考える市民のつどい」は10月26日、茨木市民会館大ホールに約700人の市民が集まり、大きな成果をあげました。
この小文は「つどい」当日の出席者に発表し、配布したものです。


原発と住民
阿武山原子炉設置反対茨木市民運動に学び、今に生かそう
                    「原発を考える市民のつどい」実行委員神山治夫2012年10月26日


① 福島原発事故を受けて、各地原発の定期点検後の再稼働をめぐって政府や電力会社が地元住民、自治体の合意が得られず、出来ない状況が起こっています。 今年の子どもの日は全国どこの原発も動いていない、原発ゼロの子どもの日となりました。 しかし、政府は若狭大飯原発の再稼動を地元おおい町と福井県を強引に了承させて再稼動しました。 現在は稼働中の原発は全国50基中、この大飯の2基だけです。 政府は、大飯原発を再稼動させたのみか、青森県大間に新しい原発を作る工事を始めています。 周辺の北海道函館市などが市長を先頭に反対に立ちあがっています。

② 住民合意がなければ、原発の設置はおろか、再稼働も不可能です。 原子炉の設置、運転と住民合意との関係で最初の本格的な矛盾、対立となったのが1957年8月に起こった阿武山関西研究用原子炉の設置に反対する茨木市市民運動でした。 

③ 当時の状況を見てみますと、1953年12月8日、国連総会においてアイゼンハワー米大統領が「原子力平和利用Atoms for Peace」の演説を行いました。 1955年11月1日、東京で始まった「原子力平和利用博覧会」はその後広島を含む7都市で行わました。 原爆は絶対悪だが、平和利用は絶対善、人類のホープ、明るい未来を約束するものというキャンペーンが一世を風靡する状態となったのです。 

④ 1954年3月の国会で中曽根康弘氏などの提案で突然2億3500万円の原子力開発予算が修正提案で提案され採択されました。 この予算をめぐって財界、一部大学の工学部などが積極的にのりだしました。 一気に日本への原子炉導入に向けての取り組みが各界あげて一斉に加速されたのです。 その先端となったのが東海村と関西への研究用原子炉の設置でした。 

⑤ しかし、その各界あげての原子力平和利用推進の大きな流れの前に大きく立ちはだかり、待った!をかけたのが、茨木市民による原子炉設置反対住民運動でした。 茨木市民の反対はきわめて素朴な「水道源をおびやかし、生活と故郷をおびやかす原子炉を身近に置くことは許さない」というものでした。 素朴なしかし、住民にとっては真剣な要求でしたが、戦後民主主義の一つの大きな到達点であった地方自治のありようをフルに生かした運動が展開されたのです。 組織された「茨木市阿武山原子炉設置反対期成同盟」の委員長には田村英茨木市市長が就任し、茨木市議会対策会議が委員を出し、その下に各町内会、その他商工団体、農協、婦人団体、青年団体、医師会、歯科医師会、文化団体などを網羅した運動となりました。 市民の生命と暮らしを守るという戦後民主主義の下で課せられた地方自治体の責務、役割、可能性を見事に発揮したと云われています。
⑥ 原子炉設置を推進しょうとする側の関係学者もこの住民の素朴だけれど真剣な不安・要求を無視して進むことはできませんでした。 そこで住民説得のために持ちだされた論理が「原爆と違って平和利用の原子炉は絶対安全なものである」というものでした(1957年8月27日高槻市主催原子炉問題聴聞会)。 それは、今、痛切に反省されなければならない現在に続く「安全神話」の始まりであったのです。

⑦ 「茨木市民は原爆と原子炉の違いもわからない無知から反対している」とのキャンペーンに抗して、茨木市民は市議会代表、婦人団体代表を派遣し、自ら専門科学者に接触し、坂田昌一氏、武谷三男氏など当時の原子物理学の重鎮たちに訴えて、科学者たちの関心を引き起こしました。 専門科学者は「原子炉は絶対安全なもの」という誤った論理をさすがにだまって見逃すことはできませんでした。 当時の原子物理学の最高権威者といわれた武谷三男氏は、服部学氏などと共に、直接現場に入り、住民の中に入って自らの見解を述べ、「原子炉は本質的に危険なものである」と明言されたのです(1957年9月10日茨木市反対期成同盟主催聴聞会)。 茨木市民の恐れ、要求が理にかなったものであると支持されました。 また、全国25大学の140名に及ぶ専門学者が連名で阿武山原子炉設置計画の白紙撤回を求める要望書を組織し提出されました(1957年10月付関西研究用原子炉設置準備委員会委員各位宛「関西原子炉設置に関する要望書」)。 武谷三男氏は後日著書の中で「あれがまだできてない公害反対運動のトップなんだ。茨木の関西原子炉反対運動ね。あれが最初でしょうね。日本の。あのとき、でも茨木の人たちはよく勉強していましたよ。非常によく勉強していましたね」(武谷三男『現代技術の構造』技術と人間、1981・p273)、「ほんとに市をあげての反対運動をやった。この経験が、今日ほとんど忘れられているように思うんですね。その設置に反対して、かなり熱心で、しかもりっぱな闘争をやって、それは成功したんですね」(同前・p157)と述べておられます。(引用・「初期原子力政策と戦後の地方自治-相克の発生 : 関西研究用原子炉交野案設置反対運動を事例に」樫本喜一・人間社会学研究集録. 2006, 2, p.81-110)
 1957年12月20日、京都大学自治会代表者会議は声明を発表し、その中で「地元民の反対運動が研究者に大きな影響を与え、良心的な研究者の反省を呼びおこし、それが組織に迄高められたことは高く評価すべきことであり、・・・」と総括しています。(「声明―関西研究用原子炉に対する我々の態度―」京都大学自治会代表者会議・1957年12月20日) 住民は科学者と手をつなぐことで、運動に自信を持ち、科学者は住民と手を結ぶことで、正しい道を選ぶことができたのです。

⑧ 茨木市民は素朴な怖れと要求から出発しましたが、やがて基本的な主張を明確にして行きました。。 その第一は「原子炉は本質的に危険なものである」という主張でした。
 茨木市阿武山原子炉設置反対期成同盟は「原子炉は本質的に危険なものである」という大見出しを掲げた「情報2号」を全市民に配布し(1957年12月5日付)、公開討論の速記録(抄)を伝えました。 武谷三男氏は公開討論の中で次のように述べています。 「今後もし動力炉が入って来て、そうしてこれが日本の重要なエネルギー源になるほど大きくなって来たならば、それがもし乱暴に扱われたときの被害、安全々々と言いながら乱暴に扱われたときの被害は恐るべきものに達するだろうと私は今から心配しております。」(前掲速記録1957年発行冊子の復刻版「原子炉安全神話を拒否した茨木市民・科学者のたたかいの記録」p26) これが茨木市民と良心的科学者とが共有した心配でした。 残念ながら福島でその心配は現実のものとなってしまいました。

⑨ また、茨木市民の主張のもう一つの大きな特徴となったのが「宇治川・大阪なら危険だが、安威川・茨木ならまあいいか」という論理は絶対受け入れられないという事でした。 原子炉設置計画は当初、京都府宇治市に置かれる計画でした。 しかし、大阪府知事、大阪市長、大阪財界、大阪大学などが大阪市民の水源地がおびやかされるとして同案に反対し阿武山案となったいきさつがありました。 阿武山案になった途端に大阪府知事、大阪市長、大阪財界、大阪大学が積極的誘致を表明するようになりました。 大都市を守るため、大都市の発展のためには小都市、あるいは過疎地は犠牲にしてもよいという考え方が作りだされたのです。 そういう論理が茨木市民の怒りに火をつけました。 しかし、その論理は結局、その後も原発設置にはつきまとい、東京・首都圏なら危険だが福島ならまあいいかの理屈となり、大阪・京阪神なら危険だが福井若狭ならまあいいかとなってまかり通っています。 その理屈は政府の「原子炉立地審査指針」という准法制化にさえされているのです。 福島の事故によって、その理屈の非人間性が明らかとなり怒りとなっています。 この理屈がこの阿武山原子炉設置問題の中で現れていたのであり、それを茨木市民は拒否したのです。

⑩ 茨木市民の運動は、その端緒となった素朴な、かつ人間の基本権にかかわる主張の故に、政治家も学者も無視し得ないものであり、それが科学者の学問的良心をよびさまさせる方向で展開され、かつ、戦後民主主義の到達点の一つであった地方自治の原則を生かした運動形態を取ったが故に、計画撤回をかちとる成果となりました。 これはその後も今も重要な課題となっている地元住民の納得と合意抜きには原発の建設は認められないという原則の初例となったのです。 茨木では地域の産業発展計画に対する悪影響を指摘してたたかいました。 これは、その後原発が建設された過疎地域自治体が地域経済が破壊され、原発マネーに頼らざるを得ない状況が作り出される中で地域住民の不安や反対をおしのけて建設を容認していったこととあわせて重い検討課題となって来ています。 茨城県東海村村長村上達也氏は「原発に依存して地域社会を作るのは限界で、そこから脱したまちづくりを考えるべきではないか。」と述べています。(毎日新聞2011年10月8日付) 
  この市民運動はわずか一年半ほどの運動であったが、その間に原子力平和利用に関する様々な問題点が思い起こされました。 しかし、推進する側には教訓としてなんら汲み取られる事なく、安全神話はますます拡大され、住民の理解と納得を得る努力が金銭による懐柔に流され、大都市の発展のために犠牲を地方にかぶせる手法がまかり通って来てしまいました。 その行き着く先が福島の重大事故でした。 この危険性は今も続いています。

⑪ 茨木市民が切り開いた住民の合意なしに原子炉は設置させないという先例は、その後全国17カ所にわたって原発が設置されるという事で崩されて行きました。 「この経験が、今日ほとんど忘れられているように思うんですね。」という前掲武谷三男氏の発言(1981年)、嘆きとなっていますが、同時に25カ所にわたって住民の反対運動によって原発の建設が白紙撤回され、あるいは実施させていないことにも注目しなければなりません。 そしてそれが今福島の事故を受けて関係自治体を中心とした再稼働を許さない大きなたたかいとなっています。 函館市も市民をあげて大間原発の建設に反対する運動をくりひろげようとしています。 私たちも茨木の経験を伝え、北の国、函館を中心とした市民のみなさんとおおいにエールを交換したいものです。
  今、福島の大きな過酷な経験を経て、原発は人類の生存を脅かし、地球環境をも破壊しつくす悪魔の凶器ではないか、こんなものを私たちの世代が未来の子孫に残していいのかが問いなおされています。 しかし、原発を推進して来た関係財界、政治家、学者たちは相変わらず、なお、その経験を率直に学ぼうとせず、福島事故の原因もあきらかになっていないまま、原発再稼働を進め、事もあろう新しい原発を建設しょうとしたり、国外への輸出すら推進して憚りません。 こういう状況の中で、あらためて阿武山原子炉設置反対茨木市民運動の記録を再発掘し、茨木市民はもとよりひろく日本の原発に関心をもつ住民に知らせて行き、運動の経験を思い起こし、現在に生かすことは、とっても大切な今日的な意義があると思います。 今日の「原発を考える市民のつどい」を出発点として、新しい原発なくせの運動を茨木から発信して行こうではありませんか。

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大間原発工事再開の異常性

2012-10-02 18:04:59 | 日記
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大間原発建設再開の暴挙
 
青森県・大間原発建設工事再開が急速に大きな問題に発展してきています。 大間原発建設には大きな問題点がいくつかあります。 
◆ 原発ゼロに真っ向から挑戦する暴挙
 ①に、大間原発は福島の事故後はじめての新原発の建設工事を始めると云うことです。 民主党政権の曲がりなりにも30年代には原発ゼロを目指すという方針から言っても40年間の運転を想定した新しい原発を作るということは、その彼らの公約にも真っ向から矛盾してしまう暴挙です。 国民の圧倒的な原発ゼロにという願いに真っ向から逆らう暴挙でもあります。 
◆ 世界に例のないMOX専用炉  処理できないプルトニウム、高濃度廃棄物
 ②に、大間原発は、世界で最初のMOX燃料(ウランとプルトニウムの混合燃料)専用の原子炉であることです。 ウラン以上に取り扱いが難しく危険性の大きいプルトニウムを燃料とした炉である危険性と、それが作りだす死の灰には超ウラン原子が増え、ますます超高濃度汚染廃棄物が増え、処理ができなくなって行きます。 フルMOX燃料原子炉は実験炉も実証炉も経験されていません。 それをいきなり実用炉(商用炉)でやるという危険な暴挙です。 なぜそのような暴挙を強行しようとしているのでしょうか。 それは核兵器に使われる最も危険な物質、プルトニウムが原発の運転を続ける日本ではどんどん増えており、国際的に不信の目で見られるようになっています。 それに対して高速増殖炉でプルトニウムを燃料として使うという対策が「もんじゅ」の事故に見られるように行き詰まってしまっています。 それで世界に対してMOX燃料(ウランに混ぜて普通の炉で使う)でプルトニウムを使うのであってやみくもにプルトニウムを作っているんではないとごまかしの発信をしたいからです。 政府や電力会社の有力者は「米国などに対し、プルトニウムを無計画に製造・保有していないと説明する上でも、大間原発の役割は大きい」と云っている(毎日新聞10/2による)そうです。 
◆ 周辺自治体の大きな怒りを呼び起こしている  函館市は訴訟か
 ③に、この暴挙は周辺自治体に大きな怒りを呼び起こしています。 50キロ圏内にある北海道函館市では工藤市長が「道南50キロ圏内に(人口)30万人なのに対し、青森県は9万人だ。一度も相談しないで決定を云ってくるのはとんでもない話だ。30キロ圏内の函館市の同意を得ずしての、見切り発車は許せない」と語り(10月1日記者会見)、市は訴訟を検討していると云っています。 もしそうなれば自治体が原告となるわが国最初の原発差し止め訴訟となるのではと云われています。 周辺自治体も同調する構えを見せています。
福井県大飯原発の再稼動を差し止めよ、という運動と共に、大間原発を作らせるなという運動は、全国の私たちの運動として発展させましょう。

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