あづきんの大きなひとりごと

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実習録2

2007年04月30日 | Weblog
実習反省録

「実習中にうけた指導全般についての反省」
□どんな指導を受けたか。
① 事故の要因には、「設備・環境」などのハード面と「緊張感の欠如」や「慣れ」、「多忙」、「緊張」、「焦り」などの様々なソフト面があり、それらが重なった時に事故に繋がることが多い。その為、過去の事故やひやりハッと事例を継続的、定期的に分析し、事故防止を図っていくことが重要となる。
□なぜそのような指導を受けたか。
胃瘻のある利用者さんに誤って経口からお茶を飲ませてしまった。
□指導を受け、どのようなことを反省したか
勝手な判断、行動はしないということが守れず、利用者さんの状態もきちんと把握できていなかったことや職員に事前に確認をとらなかったことを反省した。







「実習中深く考えさせられたこと」
□実習テーマとしたことについて、何が分かり
Ⅰ・地域との連携の方法について、M・Kさんの事例を通して、失った機能や出来ない部分に焦点をあて、それを一部のサービスだけで補うのではなく、まず本人や家族の力を評価し、友人・知人や近隣との関わりを分析し、その上で介護保険をはじめとする各種行政サービスなどの活用に至る。本人ができない=介護保険ではなく、本人ができない→家族ができない→近隣等もできない→他に行政サービスがない→介護保険という過程について学ぶことができた。
Ⅱ・ボランティアの役割について、音楽療法の見学を通して、ボランティアや地域の専門家が関わることにより、『現代社会を生きる誰もが、ケアを通して、自己を確立し、他者との関係を育み、共同してこの社会のなかで「生きていく」ことで生活はより豊かになるのである。』、『自己肯定感を持つことができれば、自分が考えること、選択することを信頼することができ、自己決定を行うこともできる。また、自分の考えを伝えることも、表現することもできるのである。さらに、それは、人とつながるチャンスを得ることや、生活をみずから豊かにすることにつながる。』と学んだ。
Ⅲ・地域の施設として、具体的にどういう工夫や援助を行っているのかという課題に対し、ホームヘルパー同行やショートスティ見学を通し、『認知症の人が自宅で生活を継続することが困難になり施設入所が必要となる限界は、本人の認知症による機能障害の進行度だけではない。住宅環境や家族が介護にさける力、家族・親族や近隣住民の認知症についての理解や人権意識などが複合的に作用する。施設やグループホームなどに入所した後は、施設の職員配置数や力量、施設環境などによって、本人の状態は大きく異なってくる。認知症となった人の症状は、病気そのものよりもその人の置かれた環境に、より大きく左右されるからである。』ということを学んだ。
Ⅳ・個別援助計画の立て方や利用者のニーズの探り方という課題に対し、ケアプランや通所介護計画作成や認知症の座学等を通し、『人の言動には必ず意味や理由、原因がある。例えば、「目的や意味もなくウロウロ歩き回る=徘徊(問題行動)」などと呼んでいるが、本人にとっては何らかの目的や意味があるはずである。すべての徘徊に問題があるのかどうか、あるとしたらどこに問題があるのかを考え、改善が必要となればその原因を検討し改善を図る必要がある。その時の視点は、「解決すべき課題(ニーズ)は、その人とその人を取り巻くありとあらゆる環境との関係の問題である」ということに変わりはない。』ということについて学んだ。また、「利用者さんにとってのその人らしい生き方、自分でできる生活、自己実現できる暮らしなどがあってこそ、「質の高い生活」と言える。「一人で入浴できない」という課題があった場合、入浴の好き嫌いや本人・家族の思いなどによっては、当然ケアプランは違ってくる。そういう意味でも、広い視野・豊富な知識と情報・柔軟な思考などが、我々には求められていると学んだ。
Ⅴ・職員の利用者や家族に対する接し方や間の取り持ち方については、帰りの会等を通し、『利用者にとって「自分の存在が認められている」とか「ここには自分の居場所がある」といった思いにつながる働きかけが必要。受容=その人を認める、ということ。又、『カラオケなど、レクリエーションでの演出は、非日常の世界を感じて頂いたり、自己実現によって身体的・精神的活性につなげようとするものである。』と学んだ。
□何が課題として残ったか。
地域との連携の方法やボランティアの役割、地域の施設として、具体的にどういう工夫や援助を行っているかという点について学習していきたい。
又、個別援助計画についても、更に深めていきたいと思う。
□深く考えさせられた事例や体験及びその考察
□実習を通じて自分は何を得たか。実習を通じての反省など。
「可哀相などという、勝手な思い込みは駄目だと感じた」とあるが、どこの何が駄目なのか。「可哀相」という感情は「同情」である。
一方、専門職の援助姿勢の一つとして「共感」という専門用語がある。そこで、逆に「共感」とはどういうことなのかを、「可哀相=同情」との違いで考えること。
『共感的理解とは、正に、観察力と想像力とを活用して、話し手の主観的な経験世界(主観的事実)を尊重しながら、聞き手の経験世界へと読み込む共同作業に他ならない。しかし、この作業は、単なる「同情」といった感情が巻き込まれた状態などではない。なぜなら、共感的理解とは、クライエントが語る主観的な事実とそれに伴う情緒的な経験世界を追体験しながら、そのこと自体を客観的(=妥当性のある主観的事実として)な遡上にのせてクライエントの経験をひとつひとつ具体的な生活の文脈において吟味することなのである。
 つまり、この作業は、分かることと、分からないこととを見分け、聞き分けながら、分からないことがあるという自覚のもとにクライエントとの相互理解に向かう波長合わせとでも言える積極的な援助行為なのである。』と学んだ。
サービス提供の基本は、「利用者本位」と「自立支援」である。この基本に立ち、目標に沿ったサービス提供がなされてこそ、利用者の本当の満足に繋がる。「痒いところに手が届くサービス」や「痒くないところまで掻いてあげるサービス」は、目標から逸れていくばかりで利用者の目の前だけの満足であったり、援助者側の自己満足だけに終わることにもなりかねない。デイは日常の家庭の延長といいながらも、時には非日常的な面もあって全てを否定することはできないが、専門性に基づいた「利用者本位」、「自立支援」とは言えない。』と学んだ。