ぽつんと一軒家から 田中五郎(農短13農業 支部長)
(り、中電ダムでは広島県一の規模の高暮ダム(昭和15年着工、昭和24年完成。朝鮮人強制連行労務約2千人)にあがりそこねた所にあり、正にぽつんと一軒家です。農短時代、我が家に帰るには山陽本線、芸備線と乗り継ぎ、三次駅からバスで2時間、歩いて2時間ですから、丸一日かかっての帰宅でした。
農短を卒業して、広島県職員(普及員)に採用になったものの、広島県農業会議事務局に勤務すること3年、広島県農業職職員に再採用になったものの、18年で退職して、高野町長に(42歳)。それも議会から不信任を2回受けて6年で失職。その後10年間は夏は百姓、冬は出稼ぎ農家でした。3年前の庄原市議会議員選挙(4期目)では、高野町の票はほとんど入らず、最後から2番目の票で完敗。今はアスパラ農家(ハウス33a)を思うままにやっています。
尼子の家臣の山中鹿之介幸盛(34歳で没)の「願わくば我に七難辛苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという逸話は余りに有名ですが、私の八苦目は、令和2年3月に手術した十二指腸乳頭部癌でしたが、おかげで体重は15キロ減り標準
体重に。血圧、尿酸、中性脂肪の薬は不要となり、青春に帰った気分です。まさに、「癌になって良かった」です。コロナも我が家の農業経営には七百万円を超える恩恵をもたらしそうです。「災い転じて福となす神社」を建立しなければと、本気で考えている今です。