いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

いろいろあるのは歓迎しよう

2019年11月06日 | 闘病



朝晩は寒いくらいの季節になりましたが、読者の皆様はお元気にお過ごしでしょうか。



我が家にしばらく居候していたワンコ君、また妻の長女のところに引き取られ生活するようになりました。お約束の犬の散歩についても、まだ母親に見守られながら同道してもらう条件の下ではあるけれど。娘は自分でワンコを連れ出して、近所を散歩で一緒に歩いてみたりと、そんな暮らしを始め出しています。



ただですね。そもそも私が子供へ言葉を掛けてみたのは、何も、犬を飼うなら、そこは義務や責任を含んで果たすべきだみたいな、そんなつもりで言おうとしたはずじゃなかったのですが。だけども、どうも子供の耳には、そこの意味もニュアンスも伝わらなかったらしいのです。だから、丸で何だか自分の負担を率先して自分から積み上げてしまうみたいな、とってもキツそうな取り組み方をしているみたいなんですよ。傍で私からうかがっていても非常にシンドイ思いをしながら頑張っている様子なんです。



でもこれはですね、われわれのような人間には、極めて望ましくないスタンスに陥っていることですからねえ。無理して自分を駆り立てて克己するような生き方、これをまず最初に卒業できてないと不味い関門なんです。

世間のモノを知らない阿呆どもは、病人というのは結局これらは怠けているから駄目なんで、だから厳しく律すれば、それで治せることだと、真顔をして平気で口にするような大バカどもがいます。

だけどこれは本来あってしかるべき態度とは、まったくの正反対な間違っている理解と接し方なんです。言うならばですよ、出来ないのを無理までしてゴリ押しになっているから、それで折れてしまうんだよという話ですからねえ。

そういうのが本質にあるから、こういう場合に自分のやり方で、なかなか対処がしきれなかった←ということはですよ。まずもって、これは、その方法からして、どっかが不味いからでないのかい、と疑うべきところなんです。

そこで知恵と(自分の工夫で足りなければ他の人から知恵を借りること含めて)手段を切り替えてみて、もっと別の違った工夫がないかを探すという局面であったはずなのに、これが凡そ下手クソだから、それでギアチェンジをしないで突っ込むから、これで結局は出来ないまま抱え込んでしまった。という状況にあることなんです。


(この性質は、家族についても同様なところがありまして。だから身に余って凡そ無理なのに、こうした問題は家族があたる事柄だからと世間に押し付けられると、できないのにやろうとする。本当の責任を果たすとは、出来ることと、出来ないことに、まずキチンとした判断が下せることですよ。もし無理を認めたなら、降参して、この当該問題の依頼先である世間に対し、この課題は非常に難題でして、自分たちには解決することができないような大事業でした、ついては別途ここには助けが要りますので援助を求めますのSOSを発信していく必要があるはずなんです。この場合、まずはそれを行うことこそが責務です。知らない世間としては任せたよと投げてはきます。投げてはきますが。でも、こちらが黙ったままでいれば、そこでシッカリと情報が返されて来ない限りは、再度こちらへは振り向かないだろうし、振り向けない、振り向く契機というのが持てません。それを振り返らせる仕事というのはですね。引き受けを託された側からするような作業です。これって筋でしょ?だから、まず世間は冷たいから云々とかいう前にですね。そこの部分を、この相手方に対し、自分たちは分かりやすい訴え方を出来ていたのかなと、ちょっと考えてみてもいいと思うんだよね。)


問題を抱え込んでいても、まだ頑張ろうとモガクから、ますますドツボに嵌まり込んだ状態に至る。端的には、これこそが、病気・障害の人間が捕まってしまう生き難さ・生きづらさなのでしょう。

ここから脱出するためには、まず最初に力み過ぎになる癖を一刻も早く緩めて、要らない力が入ってしまう習慣を早々に終わらせておく、そこから始めないとね。これ怠ってると、少し良くなっても繰り返しますから。

頑張って乗り切れるというのは、対症療法ですから、本当には解決していない。

でも頑張りすぎないという第三の手段が身につけられると、これは根治療法的な対処になる方向です。

もしこの人が、本当に無理することを卒業できていたら、同じ頑張りすぎ式の再発については、かなりの高率で避けられるようになることです。

その意味で、ここへ差し掛かっても、それで別の生き方とかを編み出さないでいても、目前の症状についてだけなら、ある程度は抑えるのも可能なんだよという「クスリ」による手段で解決をさせたものというのは、根治的な発想に関しては、ほとんど何もしていないのに近いですから。

結局、「クスリによって治った」というのは、飲み続けるという限定された条件を満たさないと「治る」は、履行をされない意味なんでしょうね。



もう私は代謝が低下する年齢ですし。
今は差し迫った具合の悪さから猶予されてる時期なんで、今の間にチビチビとお薬の減量を続けている最中です。



自分のところの子供には、先般の声かけが誤解されていたようだから、私の真意はもっと違うところにあって、これこれしかじかという具合に考えてるんだよ、と書き記した手紙を綴り自分の奥さんに渡してくれと託してあります。



また、後日どうなったか、報告させていただきますね。ではでは






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