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いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

うっかりミスな言葉の用い方で、怠りを正当化してしまう

2021年08月10日 | 闘病



自分がすべきことは、
キチンとやっていくべきものです。
え。それは当たり前だろう?
そうなんですけど。
ただ、それを見事に言い訳して、逃れる口実にできてしまう、
そんな文言が、いま世の中にハビコリ過ぎています。
それは「仕方がない」という言葉です。

もっと正確に言えば、その言葉を使用する場面について、
これを、どう選び、いかに使えているか、そっちの問題です。
やるべきことがあり、でもやらないで済ませる為に、
実に多くの人が言い逃れの口実に使っています。
その状況で、これを用いてしまったら、
最大に不味い誤用になるからと私は思うのです。

誤解のなきよう付記を致しますが、
私は、キチンとできていて、
他の人の間違いや、アゲツラいとして、批判に晒してみたり、
そこを吊るし上げにしてやる、なんかじゃないですからね。
私自身、自戒を込めつつ、
お互い、怠惰な生き方というのは、やっぱり不味い。
そういう趣旨で言葉にしたと、まずお断りをしておきます。



ただ、忘れてイケナイのはですね。
やらなきゃいけないというのと、
自分がしたいのか、それとも、したくないのか、
そこの吟味というのも、ここで極めて重要なのです。


建て前では、こうすべきだけど。
自身の本音としては、そんなことやりたくないんだ。


それは多くの場合で実際によくある話です。
そこについて、これらを上手に切り分けた上で、
そこの区別をハッキリ自分の中でも、
別々の異なるものとして、違いを味わっておいて、
そして、これらそれぞれで、各々に、
別個な認識なり、また感覚としても、共存させて、
自分の気持ちに持ちながらで。
当然、その各々は、それぞれで違う容れ物というか、
器の用意をしておいて、ちゃんと自分の心へ納まるような、
準備を心掛けることで、自分の気持ちが乱されたりしないように、
そういう工夫を身に着けていく。

そこさえ本当にシッカリと出来ていたら、
前掲のような誤用というのは、
本来そうそう起きるようなことではないのです。

したことがないと、一見、面倒臭いようだけど、
手順というか、スキルというか、そこが重要なポイントです。
もう少し実際的に例を示さないと、
どういう意味か話が分かりづらいでしょうから。
そこを、以下に説明をしてみます。

多くの人が、ついついゴッチャにしてしまうのは、
さっき述べたように、したいというのと、
やりたくないというのと、それぞれで自分の中に、
どういう位置付で心に収められるのかという、
そこの区別や意味合いで区分けをしてみることを、
ほぼ完全に、すっ飛ばしになっています。

それぞれは、自分にとっても各々で色合いは違うのです。
だから最初から、それらの気持ちというのは、
もともと同じ箱へ収められるような性質じゃない訳です。
そこを考えておかないから、結果として、
ここで二者択一にするしか、対応ができないという
誤解をしているから、最初の話みたいな問題が起きる。


ここをキチンとするか、しないかで、
自分の困りごとが、病気に発展するか、しないかの
分かれ道にすらなってしまうんですよ。


よく聞く、「自分は何々したいんだけど、
どうしても、そう出来ないんだ」という言い方も、
中身は、これなんですよ。


この場合の自分というのを、
まるで単純な一枚岩に見做しているし、
だから、そこでの自分とは、Aであるか、Bであるか、
いずれかであるはずだ。なのに、どっちなのかが、
区別ができないという話にまでモツレ込んでしまっています。


自分というのは、建て前もあれば、本音もある。
しかも2個だけに分けて、そのいずれかが自分だよ。
という見え方が、本当はオカシイんですよね。


おなじ人物がですよ。会社で仕事してるときは、
その部署の誰々さんだし、同時に社内では各々に立場関係であり、
しかも対外的に相応しい振る舞いが、それなりにある意味です。
しかも、退勤すれば、家庭に帰った時でも、
また街中に居るときでも、あるいは、お店に入ったら、
それぞれで別々に演じ分けるように顔が変わるのですよ。

なぜならば、われわれには社会というものがあって、
そこでは場面ごとの役割りや立場が生じてくるので当然そうなる。

職場にいたら、求めに応じて用件を片付けるでしょ。
でも家にいたら、別の立場で、違う用事をしていますよ。

この部分の仕組みが考慮できていないと、
さっきのような「したいけど、したくない」の
さっぱり意味が、ナンナンカ分からんようになりますけ。


学校へ行くのが期待される立場の自分としては、
そこは行く場所だから、行くべきことも期待されているし、
役割りを果たすという勤めとして、そこに行こうと思う。
だけど今はまだ登校する前の時点に身を置く以上、
ある面でいま同時に、この自分とは、
この家の家族を構成する一員としての子供でありますから、
いま家にいる私としては、これから学校へ行くよりも、
まだ家にいるほうが、自分がやりたいこととして
私の気持ちは向いています、という陳述なんです。

こうやって、それぞれ分かち書きしていけば、
各々で誰が何を感じて、それぞれで如何なる態度を、
銘々が述べていることなのか、
如実に話が見えてくるじゃあ~りませんか。

ここでややこしいのはですよ。
責任の所在として、誰にしたって、何かの役割上、
ある場面で、果たすべき事柄として、
こうでなくてはなりません。
その「こうでなくてはなりません」というのはですよ。

今言ったように、気持ちとか、思いとか、願いとか、
そういう私的な私情とは、かなり異なる色合いがあります。
子供にしろ、会社員にしろ、そこには責任上の
課せられた任務が定められている部分が、避けられないです。
任務なんだと割り切るから、仕事や役目として引き受けるが、
そこで成立している内容ですから。

もし任務が自分の出来る能力を超過するのであれば、
これを断ったり、回避しようというのは、
当然、人間誰にもキャパがあるから、これは起きる。
じゃあ。今日は無理だから、抜きにするという、
そういう構えもありだと思う。
また、そこでの選択にしても、ただAか、Bか、という、
二者択一で処すというのではなく、
気持ち的には、いま自分はBが優勢なんだよ。
でも立場上の自分としてはAも求められているのが分かる。
だから務めとして応じる、あるいは、選択として、
今日は遠慮しておく。
こうやって上手に分かち書きに区別をしていけば、
両論併記的に、自分の選びで、行動を考える。
という主体が損なわれることなく、実行できる訳です。


まあ。それしきの単純なことなんだけど。
それぞれ別個に違う箱を用意して受け取らないから、
郵便受けは満杯になって困ってるような事態です。
集合住宅には部屋ごとの郵便受けがあります。
自分の我が心というのも、ある面で、役割ごとの
それこそポストなんです。
銘々が受ける所を区分けしてこそ、
届いたメッセージにも、各々で承りましたができますから。

さてと。「仕方がない」の内容点検については、
詳細はまた別の機会に譲ることにしましたので、
今回は、悪しからずです。

昼メシ食ってきます。
今日少し涼しくない?
やっぱり立秋過ぎればねえ。

ではまた。サヨナラ~~



1 コメント

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Unknown (うさぎのぎーちゃん)
2021-08-10 21:14:26
以前、フォーカシングを習いに行っていた時に、いろんな湧いてくる思いを、イメージで作ったたくさんの箱の中に入れていくことを教えてもらいました。ブログを読んで、そのことを思い出しましたよ。
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