《冬蜂紀行日誌》(2008)

「冬蜂の死にどころなく歩きけり」(村上鬼城)という句に心酔した老人の日記

「禁煙(いや断煙)の記・1・《禁断症状はなくならない》

2011-04-09 00:00:00 | 日記
2008年4月9日(水)
 そろそろ、私も「禁煙」、いや「断煙」を始めようという心境になってきた。昨今の風潮では、「喫煙」は「悪」、犯罪に近い「反道徳行為」という評価を受けている。喫煙者の煙が蔓延し、傍にいる人たちの健康を害するおそれがある以上、やむを得ないことだと思う。同様に、「排気ガス」「ダイオキシン」の垂れ流しなど「大気汚染」も「悪」、ペットボトルの水しか飲めなくなった「水質汚染」も「悪」、地球温暖化による「紫外線」も「悪」、それらの原因を作っているのは誰だろうか。これまでに、私は2回ほど「1年間の断煙」をしたことがある。1回目は「職場のストレス」のため頓挫した。2回目は、当初から「1年間という期限付き」(願かけ)の断煙にすぎなかったが、「やめようと思えばいつでもやめられる」という「変な自信」だけはついたような気がする。私にとって、「喫煙」とは、生活の「句読点」であった。生活や仕事の「区切り」として「ちょっと一服」することが、ストレス解消になっていた。
 今回、そろそろ「断煙」を始めようという心境になったのは、「やめようと思えばいつでもやめられる」という自信が「本物かどうか」試してみたくなったためである。一方、やめようと思わなくたって、その時が来れば(煙草を吸いたくても吸えない事態になれば)やめられるに決まっているのだから、「無理にやめることはない」という気持ちも残っている。その結果、「手持ちの煙草(残り10本)がなくなったら・・・」という、未練がましい「やめ方」を試みているのである。「断煙」とは、「禁断症状」との闘いに他ならないが、私の場合、どれくらい時間が経っても、その症状が「軽減」されることはないだろう。(過去2回の「断煙」期間中、「禁断症状」が消失したことはなかった)

「怨念人物史伝」(佐野美津男・北洋社・1972年)・《1》

2011-04-08 00:00:00 | 日記
2008年4月8日(火) 雨(強風)
「怨念人物史伝」(佐野美津男・北洋社・1972年)を読み始める。著者は1932年生まれなので、40歳の時の作物である。実を言えば、私は学生時代、30歳代の著者と直接話をしたことがある。サークルで文芸講演会を企画し、その講師を依頼したのだ。高田馬場あたりの喫茶店で、彼は、開口一番「講演料はいくらですか」と質問した。詳細は忘れたが、話の切り出し方があまりにも単刀直入だったので、その場面だけは今でも憶えている。それまでに「浮浪児の栄光」という作物を私は読んでいた。また、卒業後、「ピカピカのぎろちょん」という童話も読んだ。それらの内容は、すべて忘れてしまった。森秀人と同世代の作家であり、彼もまた「反体制」「非知識人」志向のように感じられるが、童話をものするだけあって、文体・文章は大変解りやすい。 
この著書の眼目は、歴史上の人物の中で、勝敗を分けた二人の人物のうち、一方が「怨念」を込めて相手を評価(批判)するところにあるが、いずれも「一人称」で描かれていることが特長である。(富士正晴「たんぽぽの歌」もそうであったが・・・)
〈Ⅰ 源頼朝による源義経論〉の感想 
 源頼朝が義経に感じる「怨念」とはどういうものか。それを一言で言えば「人気がありすぎる」ということになるだろうが、「義経などという男はわが源氏一門中に存在していなかったといい切ってしまうほうが結論としては明快である」とまで言うほどに、怨んでいる。なぜなら、頼朝と義経では「どちらが好きか」といった「人気」の問題ではなく、頼朝が果たした業績が正当に評価されなくなってしまうという「歴史認識」の問題に関わるからである。「武士が政治の実権を掌握したということは、下剋上の具体的展開であってすこぶる革命的な事象であった」。それを成し遂げたのが頼朝であり、その結果を完璧なものにするために、彼は「意識改革」を図る。「わたしが意識変革の最大の眼目としたのは、朝廷から与えられるものはなるべくこれを受けず、こちらの要求するものを受けられるように努力することだった。(略)わたしは(天皇にもっとも近い存在である)摂政になるよりも、征夷大将軍という名目だけの位階を与えられることを望み、実質をかちとる方向を目指したのだ。にもかかわらず、義経は、朝廷から与えられるものを、ためらいもなく受けとり、しかも感激してしまう古めかしさを持ちあわせていた。(略)これでは、公家政治を実現しようとしている(、)わたしの対立者と断定せざるをえないではないか」と、彼は言う。つまり、義経の存在は、頼朝の変革を「妨害」したのである。にもかかわらず、いわゆる「判官贔屓」の風潮は、義経を美化し、悲劇の主人公に祭り上げる。「金売り吉次」も「弁慶」もフィクショナルな人物であり、鞍馬山の「天狗」などは盗賊の別称に過ぎない、というのが頼朝の見解である。そのことは、西洋中世史の研究者・堀米庸三の「義経にいくらページをさいても歴史にはならない。時代小説はできても、歴史にはなりませんから」(中央公論社版『日本の歴史』第七巻付録の対談)という見解とも一致する。そして、それらの見解は同時にまた著者・佐野美津男の見解でもある、という表現形態が、実に面白かった。

「遊民の思想」(森秀人・虎見書房・1968年)・《2》「梅澤武生劇団」

2011-04-06 00:00:00 | 日記
2008年4月6日(日) 晴
 「遊民の思想」(森秀人・虎見書房・1968年)の「Ⅱ 芸人・大衆芸術論」の中に「考えるところあって、十二月に旅役者の一行とともに田舎を歩いた。梅沢武生一座という。座長は二十四歳。野球選手になりたかったのに親の後を受けて役者になった。生活のためである。妹の正子は二十歳。ふつうの娘のような生活を望んでいるが、彼女も結局舞台に立った。総勢十七名。なんとも陽気な一座である」という書き出しで始まる一節がある。その内容を要約すると、①座長以下全員、舞台づくり移動など工場労働者以上の労働に密着している。②若い現代の旅役者たちは、義理人情の思想に乏しいから、自分たちの芸をあまり信じない。ところが、いったんかれらが舞台に立つと、観客が涙を流して泣き笑う。粗末な小屋で、だから演じるのはむしろ観客なのだ。観客の思想が、舞台の若い役者たちを感動させ、熱中させる。③若い役者にとって、楽屋という見あきた小さな生活圏は牢獄である。他の生活の選択は許されない。小さな共同体は、一人崩れれば全滅するのだ。だから、若い旅役者は淋しい。④彼らは共同体的な芸術を独自に崩そうとあがきはじめている。その結果、ポンコツ喜劇とポンコツ楽団をつくって舞台にのせたら大成功、一座の人気レパートリーとなって、連日十五日間満員で小屋を埋めさせた。⑤それでも若い役者たちは、舞台に生涯をかける気はさらにない。⑥その栄光と悲惨を、わたしはひとごとのように思えなかった。階級社会に生きるすべてのもののそれは象徴なのである。   そして、まとめの段落は以下の通りである。「旅役者たちは、芸術の私的所有の今日的形態を、自然に脱却しつつある。知識人芸術家たちの先駆が、文学を行きつめることで、文学を止揚しつつあるように、かれらは芝居を止揚していっている。その行きつめたさきに一座解散という事態が起こっても、あまり驚かないほどの用意は、すでに充分あるのであった」
 この一節の中で、著者・森秀人は何を言いたかったのだろうか、私にはわからない。まず第一に、著者は冒頭「考えるところあって・・・」と書き出しているが、どんなことを考えたのだろうか。第二に、共同体的な芸術(従来のレパートリー)を崩し成功したことが「栄光」、楽屋という生活圏から逃げられないことが「悲惨」だとして、それが階級社会に生きるすべてのものの象徴だと「断定」する根拠は何か。第三に、「旅役者たちは、芸術の私的所有の今日的形態を、自然に脱却しつつある」とは、どういうことか。第四に、「文学を行きつめることで、文学を止揚しつつある」とは、どういう意味か。ちなみに「行きつめる」という単語は辞書に載っていない。また、「止揚」とは「ヘーゲル弁証法の根本概念。あるものをそのものとしては否定するが、契機として保存し、より高い段階で生かすこと。矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること。揚棄。アウフヘーベン(ドイツ語)の訳語」(スーパー大辞林)とある。つまり、知識人芸術家たちの先駆が、文学を「そのものとしては否定するが、契機として保存し、より高い段階で生か」しつつあるように、旅役者も芝居を「そのものとしては否定するが、契機として保存し、より高い段階で生か」していっている、ということか。第五に、旅役者が、芝居を「行きつめたさきに一座解散という事態が起こっても」という時、著者はどのような事態を想定しているのだろうか。
 私が「梅澤武生 劇団」に出会ったのは、この著書出版から三年後(1971年)である。おそらく、そのポンコツ喜劇、ポンコツ楽団に感動、芝居小屋を満員にした一人になるだろう。以後、「梅澤武生劇団」は、小屋主と公演料の折り合いがつかず、「東京大衆演劇協会」を脱退、独自の公演活動を展開しているが、「芸術の私的所有の今日的形態を脱却」したことになるのだろうか。しかも、まだ「一座解散という事態」は起こっていない。思うに、著者・森秀人の「心の中」には(彼自身が図示して説明していることだが)、 人類芸術史は、1・未開 共同体芸術社会(無階級社会)、2 文明 文学的芸術社会(階級社会)、3 大衆芸術(階級社会)、4 新文明 共同体芸術社会(無階級社会)というように発展・発達(止揚)「するはずだ」もしくは「させければならない」という仮説(無政府主義・アナーキズム?)があるようだ。しかし、人類史は、1991年の「ソ連崩壊」によって、「無階級社会」から「一歩後退」という「段階」に陥っているようである。つまり、評論家・森秀人の「仮説」は、今のところ「歴史的事実」によって否定されて「しまった」といえるだろう。その「仮説」は、彼が「心の中」で思った(感じた・願った)ことに過ぎないのだから、「評論」としては成り立たなくて当然である。おそらく、彼の「願望」としては、「文明」によってもたらされた「階級社会」の矛盾の現れである「(高尚・道徳・「体制」的な)文学的芸術社会」(知識人)を、対立・闘争の過程を通じて(低俗・本能・「反体制」的な「大衆芸術」を評価・受容することによって)発展的に統一(「新文明の創造」「無階級社会の具現化」イコール革命)するという「筋道」があったのだろう。 
 しかし現代は「格差社会」、「ソ連崩壊」によって「階級社会」という言葉も死語になりつつある。そして、評論家・森秀人の著書もまた「反古」になりつつあるのだろうか。

「遊民の思想」(森秀人・虎見書房・1968年)・《1》

2011-04-03 00:00:00 | 日記
2008年4月3日(木) 晴
 昨日に引き続き、午後6時30分から大衆演劇観劇。「満劇団」(座長・大日向きよみ)。昼の部は「大入り」で、入場できなかった。夜の部も、座長の母・若水照代(70歳)が特別出演とあって「大入り」となったが、肝腎の座長は入院治療のため不在、よく考えれば、娘の「穴埋め」に母がやってきたということになる。30年ぶりに観る若水照代の舞台姿は、相変わらず「明るく元気」、美空ひばり「もどき」の歌声(「関東春雨傘」)にも「衰え」は感じられなかった。「芝居」(外題は失念)は、座長不在のため「水準」並、若水照代の「持ち芸」(三度笠、花笠、番傘の舞踊)で「見せ場」を「やりくり」、「繕った」感は否めない。若手男優・ウメショウジ(漢字不詳)が踊った「花と竜」は、村田英雄ではなく美空ひばり、久々の歌声に聞き惚れたが、舞踊の「実力」はそれに及ばなかったのが残念である。若座長・大日向皐扇の「女形」舞踊は、男優以上に「華麗」で美しい。「立ち役」も「水準」以上だが、劇団を継承していくためには「三枚目」「汚れ役」「敵役」もマスターする必要があるだろう。「新演美座」の深水つかさを「お手本」にすれば大成するだろう。
 「遊民の思想」(森秀人・虎見書房・1968年)を読み始める。今から40年前の作物、著者は評論家、昭和8年生まれなので、執筆当時は35歳、「若さにまかせて書きまくっている」(生活費を稼ぐため?)という感じがした。「あとがき」を読むと、以下の通りに書いてある。「遊び好きの人間はたくさんいるけれども、遊民とよぶべき人間はあまりいない。では、遊民とよぶべき人間は、どんな種類の人間か、と問われたとしたら、返答に困ってしまう。とにかくわたしの心のなかでは、はっきりと区別がついていて、たったそれだけの考えを述べるのに、こんなにたくさんの文章が必要になったわけであった。遊民の思想という〈発想〉は、柳田国男の常民の思想を対極として生み出された。柳田国男はごく普通的人間・・・常民の姿を借りて日本文化の特質を語ったのであるが、幸か不幸か、戦後のドサクサに育った無用者のわたしとその環境は、一所定住の常民たちから切断させてしまっていて、いまさらしかつめらしく〈世間様〉のことを語る資格がないのである。それならばいっそ、と逆上したかたちで書き記した〈遊びについての覚書〉であり、説得力があってもなくても、とにかくここには恥ずかしくてごく内輪にしか語れぬ世間様外の考え方、があることだけは確実であろう。そして、私の愛する歌人在原業平のように“身を用なき者に思いなして、都にはをらじ、住むべきところ求めむ”とはるかなる彼方に私もまた往きたいと思う。しょせん遊民とは〈現代的〉ではないのである」
 「遊民と呼ぶべき人間は、どんな種類の人間か」を、「遊民」自身が書き記そうとした作物であることがわかった。著者・森秀人は、「心のなかで」自分が「遊民」であると感じているようだが、「頭のなかで」は、どう考えているのだろうか。
 「第1章・遊戯」の感想。文化の創造にとって「遊び」は不可欠であり、「反体制」「反権力」を目指した、「本能的」「野性的」「動物的」な「遊び」を追求すべきであるが、「常民」化された「現代」ではむずかしい。ただ、「非知識人」による「大衆芸能」のなかにその可能性が秘められているのではないか、という主張が「心のなかで」感じられた程度、記述の内容、文体が「複雑・難解」で、浅学非才の私には「頭のなか」で十分に理解することができなかった。

「満劇団」・《芝居「親子鷹」と飛鳥一美の面踊り》

2011-04-02 00:00:00 | 日記
2008年4月2日(水) 晴
 午後1時から、大衆演劇観劇。「満劇団」(座長・大日きよみ)太夫元・大日向満の話によれば、関西の劇団だが、座長の大日向きよみは、関東の劇団・虎の座長・林友廣の姉、若水照代の娘だとのこと、若座長・大日向皐扇は、大日向きよみの娘である。さらに舞台には、、長男(「浪花の若旦那」3歳)、次男(「小虎」10ヶ月)、座員(芸名不詳の女優)長女(「浪花の小姫ちゃん」4歳)まで登場、愛嬌をふりまいていた。
 昼の部、芝居の外題は「母の旅路」、母と息子、その嫁の葛藤を描いた人情劇で、役者の「実力」は水準以上と思われるが、際立った特長は感じられない。太夫元・大日向満の「三枚目」が秀逸だったが、やはり「関西風」、しつこさが目立った。歌と踊りのグランドショーでは、飛鳥一美の舞踊「飲んだくれよう(?)」(面踊り)は、途中で拍手が巻き起こるほどの「見事さ」、まさに「至芸」といってよい。座長の歌唱も「堂々」としていて「お見事」、若水照代に勝るとも劣らない「舞台姿」だった。
 夜の部、芝居の外題は「親子鷹」。ある一家の女親分(芸名不詳の女優)が盲目の乳児(小虎)を連れて、大店・大黒屋を訪れる。女親分の次男(堤みちや)が大黒屋に婿入り、生まれた子が盲目だったので、次男の実家に戻された。親分は大黒屋の「跡取り」として育ててもらおうと再交渉に来たのだが、主人(太夫元・大日向満)は拒絶する。そんな「片輪者を我が家に入れるわけにはいかない。養育料ならいくらでも出すから、そちらで育ててください」「そこをなんとか」「いえ、だめです」と押し問答しているところに、一家の姉御・お竜(座長)登場。「あたしが育てましょう、まかせてください」、それから四年後(時代は江戸から明治に変わっていた)、大黒屋には「跡取り」がまだできない。主人は、あのとき「乳児を引き取って育てておけばよかった」と後悔する。そんなとき、四歳に成長した男児(浪花の小姫ちゃん)を連れてお竜が帰京した。主人も次男もお竜に平謝り、「その子を返して」と哀願する。「今さら、そんなことができるもんか」と拒絶してはみたものの、よくよく考えれば、自分が育てるより大黒屋に戻した方が「この子の幸せ」、お竜は男児を説得する。「お母ちゃんの言うことを、よくお聞き、今日からは大黒屋さんの所へ行くんだよ」しかし、男児は応じない。振り切ろうとするお竜の足にしがみつき、「おいらはいやだ、生みの親より育ての親、ずっと、お母ちゃんと暮らすんだ」その健気な様子に、大黒屋主人、次男、女親分から跡目を継いだ長男、そしてお竜も「改心」、再びお竜と男児が「さすらいの旅」に出立するという筋書きである。江戸末期から明治のはじめにかけて、「障害者」(盲目)がどのように扱われたか、何よりも「跡取り」(血筋)が優先されるという「義理」の世界と、「生みの親より育ての親」という「人情」の世界が錯綜していて、たいそう興味深かった。
 座長の話では、この芝居は「劇団に代々受け継がれている」伝統的な演目で、「子役」が主人公、座長自身も、若座長も、乳幼児期に演じたという。だとすれば、この「満劇団」の特徴は「女系家族劇団」ということになるだろう。それかあらぬか、舞台全体に「上品」「可憐」「艶っぽい」雰囲気が漂っている。座長の風情は二代目・水谷八重子「もどき」、舞踊では母・若水照代を超えている。男優陣(飛鳥一美、堤みちや)の「舞踊」も「水準」以上で、すばらしい舞台が期待できそうだ。ラストショー、「お祭りマンボ」の、面踊り(座長のひょっとこ、若座長のおかめ)は秀逸、歌の世界を十二分に「景色化」していた。

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