《冬蜂紀行日誌》(2008)

「冬蜂の死にどころなく歩きけり」(村上鬼城)という句に心酔した老人の日記

「ブログ引っ越し」のお知らせ

2013-09-16 13:11:45 | 日記

いつもご愛読、誠にありがとうございます。この度、諸事情によりブログを引越す事になりました。新URL http://fuyubati.blog36.fc2.com/宜しくお願い致します。


序・「冬蜂の死にどころなく歩きけり」(村上鬼城)

2013-02-05 00:00:00 | 日記
 村上鬼城の句に「冬蜂の死にどころなく歩きけり」という作物がある。坪内稔典の解説によれば「『冬蜂』は冬も生き残っている蜂。今は敗残の老武士のように歩いているその蜂は、ついしばらく前まで勇ましく飛んでいただけに、ひときわ哀れである。作者は老残の身の上をこの蜂に託したのだが、蜂の生態の一コマとして読んでもよい」(「くもん式の俳句カード・冬・解説書」・くもん出版)とある。
 私自身、とうに還暦を過ぎ、この冬蜂の心境が、痛いほどわかるようになった。日本人の平均寿命が80歳を超した現今、六十男などは「ハナタレ小僧」にすぎないという評価は納得できる。とはいえ、古来からいわれている「人生五十年」説の方が、私には実感できるのである。平均寿命が延びたのは、日本人の生命力(エネルギー)が増幅したためではなく、「戦争で死ぬことがなかったこと」「医学の進歩により新生児・高齢者に対する延命治療が効果をあげていること」などに因るものと思われる。戦後60余年の間に、日本社会は見違えるほど「裕福」になった。しかし、それは「弱肉強食」という競争原理に基づいた結果であり、他国の弱者を踏まえた、「砂上の楼閣」にすぎないのではないだろうか。
 雨後の竹の子のように「老人介護施設」が乱立している。その利用者たちは、はたして自分の「延命」を寿いでいるのだろうか。他人のことはともかく、私は私の「死にどころ」を求めて歩き続けなければならない。以下は、その日常を誌したものである。

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「禁煙(いや断煙)の記・1・《禁断症状はなくならない》

2011-04-09 00:00:00 | 日記
2008年4月9日(水)
 そろそろ、私も「禁煙」、いや「断煙」を始めようという心境になってきた。昨今の風潮では、「喫煙」は「悪」、犯罪に近い「反道徳行為」という評価を受けている。喫煙者の煙が蔓延し、傍にいる人たちの健康を害するおそれがある以上、やむを得ないことだと思う。同様に、「排気ガス」「ダイオキシン」の垂れ流しなど「大気汚染」も「悪」、ペットボトルの水しか飲めなくなった「水質汚染」も「悪」、地球温暖化による「紫外線」も「悪」、それらの原因を作っているのは誰だろうか。これまでに、私は2回ほど「1年間の断煙」をしたことがある。1回目は「職場のストレス」のため頓挫した。2回目は、当初から「1年間という期限付き」(願かけ)の断煙にすぎなかったが、「やめようと思えばいつでもやめられる」という「変な自信」だけはついたような気がする。私にとって、「喫煙」とは、生活の「句読点」であった。生活や仕事の「区切り」として「ちょっと一服」することが、ストレス解消になっていた。
 今回、そろそろ「断煙」を始めようという心境になったのは、「やめようと思えばいつでもやめられる」という自信が「本物かどうか」試してみたくなったためである。一方、やめようと思わなくたって、その時が来れば(煙草を吸いたくても吸えない事態になれば)やめられるに決まっているのだから、「無理にやめることはない」という気持ちも残っている。その結果、「手持ちの煙草(残り10本)がなくなったら・・・」という、未練がましい「やめ方」を試みているのである。「断煙」とは、「禁断症状」との闘いに他ならないが、私の場合、どれくらい時間が経っても、その症状が「軽減」されることはないだろう。(過去2回の「断煙」期間中、「禁断症状」が消失したことはなかった)

「怨念人物史伝」(佐野美津男・北洋社・1972年)・《1》

2011-04-08 00:00:00 | 日記
2008年4月8日(火) 雨(強風)
「怨念人物史伝」(佐野美津男・北洋社・1972年)を読み始める。著者は1932年生まれなので、40歳の時の作物である。実を言えば、私は学生時代、30歳代の著者と直接話をしたことがある。サークルで文芸講演会を企画し、その講師を依頼したのだ。高田馬場あたりの喫茶店で、彼は、開口一番「講演料はいくらですか」と質問した。詳細は忘れたが、話の切り出し方があまりにも単刀直入だったので、その場面だけは今でも憶えている。それまでに「浮浪児の栄光」という作物を私は読んでいた。また、卒業後、「ピカピカのぎろちょん」という童話も読んだ。それらの内容は、すべて忘れてしまった。森秀人と同世代の作家であり、彼もまた「反体制」「非知識人」志向のように感じられるが、童話をものするだけあって、文体・文章は大変解りやすい。 
この著書の眼目は、歴史上の人物の中で、勝敗を分けた二人の人物のうち、一方が「怨念」を込めて相手を評価(批判)するところにあるが、いずれも「一人称」で描かれていることが特長である。(富士正晴「たんぽぽの歌」もそうであったが・・・)
〈Ⅰ 源頼朝による源義経論〉の感想 
 源頼朝が義経に感じる「怨念」とはどういうものか。それを一言で言えば「人気がありすぎる」ということになるだろうが、「義経などという男はわが源氏一門中に存在していなかったといい切ってしまうほうが結論としては明快である」とまで言うほどに、怨んでいる。なぜなら、頼朝と義経では「どちらが好きか」といった「人気」の問題ではなく、頼朝が果たした業績が正当に評価されなくなってしまうという「歴史認識」の問題に関わるからである。「武士が政治の実権を掌握したということは、下剋上の具体的展開であってすこぶる革命的な事象であった」。それを成し遂げたのが頼朝であり、その結果を完璧なものにするために、彼は「意識改革」を図る。「わたしが意識変革の最大の眼目としたのは、朝廷から与えられるものはなるべくこれを受けず、こちらの要求するものを受けられるように努力することだった。(略)わたしは(天皇にもっとも近い存在である)摂政になるよりも、征夷大将軍という名目だけの位階を与えられることを望み、実質をかちとる方向を目指したのだ。にもかかわらず、義経は、朝廷から与えられるものを、ためらいもなく受けとり、しかも感激してしまう古めかしさを持ちあわせていた。(略)これでは、公家政治を実現しようとしている(、)わたしの対立者と断定せざるをえないではないか」と、彼は言う。つまり、義経の存在は、頼朝の変革を「妨害」したのである。にもかかわらず、いわゆる「判官贔屓」の風潮は、義経を美化し、悲劇の主人公に祭り上げる。「金売り吉次」も「弁慶」もフィクショナルな人物であり、鞍馬山の「天狗」などは盗賊の別称に過ぎない、というのが頼朝の見解である。そのことは、西洋中世史の研究者・堀米庸三の「義経にいくらページをさいても歴史にはならない。時代小説はできても、歴史にはなりませんから」(中央公論社版『日本の歴史』第七巻付録の対談)という見解とも一致する。そして、それらの見解は同時にまた著者・佐野美津男の見解でもある、という表現形態が、実に面白かった。

「遊民の思想」(森秀人・虎見書房・1968年)・《2》「梅澤武生劇団」

2011-04-06 00:00:00 | 日記
2008年4月6日(日) 晴
 「遊民の思想」(森秀人・虎見書房・1968年)の「Ⅱ 芸人・大衆芸術論」の中に「考えるところあって、十二月に旅役者の一行とともに田舎を歩いた。梅沢武生一座という。座長は二十四歳。野球選手になりたかったのに親の後を受けて役者になった。生活のためである。妹の正子は二十歳。ふつうの娘のような生活を望んでいるが、彼女も結局舞台に立った。総勢十七名。なんとも陽気な一座である」という書き出しで始まる一節がある。その内容を要約すると、①座長以下全員、舞台づくり移動など工場労働者以上の労働に密着している。②若い現代の旅役者たちは、義理人情の思想に乏しいから、自分たちの芸をあまり信じない。ところが、いったんかれらが舞台に立つと、観客が涙を流して泣き笑う。粗末な小屋で、だから演じるのはむしろ観客なのだ。観客の思想が、舞台の若い役者たちを感動させ、熱中させる。③若い役者にとって、楽屋という見あきた小さな生活圏は牢獄である。他の生活の選択は許されない。小さな共同体は、一人崩れれば全滅するのだ。だから、若い旅役者は淋しい。④彼らは共同体的な芸術を独自に崩そうとあがきはじめている。その結果、ポンコツ喜劇とポンコツ楽団をつくって舞台にのせたら大成功、一座の人気レパートリーとなって、連日十五日間満員で小屋を埋めさせた。⑤それでも若い役者たちは、舞台に生涯をかける気はさらにない。⑥その栄光と悲惨を、わたしはひとごとのように思えなかった。階級社会に生きるすべてのもののそれは象徴なのである。   そして、まとめの段落は以下の通りである。「旅役者たちは、芸術の私的所有の今日的形態を、自然に脱却しつつある。知識人芸術家たちの先駆が、文学を行きつめることで、文学を止揚しつつあるように、かれらは芝居を止揚していっている。その行きつめたさきに一座解散という事態が起こっても、あまり驚かないほどの用意は、すでに充分あるのであった」
 この一節の中で、著者・森秀人は何を言いたかったのだろうか、私にはわからない。まず第一に、著者は冒頭「考えるところあって・・・」と書き出しているが、どんなことを考えたのだろうか。第二に、共同体的な芸術(従来のレパートリー)を崩し成功したことが「栄光」、楽屋という生活圏から逃げられないことが「悲惨」だとして、それが階級社会に生きるすべてのものの象徴だと「断定」する根拠は何か。第三に、「旅役者たちは、芸術の私的所有の今日的形態を、自然に脱却しつつある」とは、どういうことか。第四に、「文学を行きつめることで、文学を止揚しつつある」とは、どういう意味か。ちなみに「行きつめる」という単語は辞書に載っていない。また、「止揚」とは「ヘーゲル弁証法の根本概念。あるものをそのものとしては否定するが、契機として保存し、より高い段階で生かすこと。矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること。揚棄。アウフヘーベン(ドイツ語)の訳語」(スーパー大辞林)とある。つまり、知識人芸術家たちの先駆が、文学を「そのものとしては否定するが、契機として保存し、より高い段階で生か」しつつあるように、旅役者も芝居を「そのものとしては否定するが、契機として保存し、より高い段階で生か」していっている、ということか。第五に、旅役者が、芝居を「行きつめたさきに一座解散という事態が起こっても」という時、著者はどのような事態を想定しているのだろうか。
 私が「梅澤武生 劇団」に出会ったのは、この著書出版から三年後(1971年)である。おそらく、そのポンコツ喜劇、ポンコツ楽団に感動、芝居小屋を満員にした一人になるだろう。以後、「梅澤武生劇団」は、小屋主と公演料の折り合いがつかず、「東京大衆演劇協会」を脱退、独自の公演活動を展開しているが、「芸術の私的所有の今日的形態を脱却」したことになるのだろうか。しかも、まだ「一座解散という事態」は起こっていない。思うに、著者・森秀人の「心の中」には(彼自身が図示して説明していることだが)、 人類芸術史は、1・未開 共同体芸術社会(無階級社会)、2 文明 文学的芸術社会(階級社会)、3 大衆芸術(階級社会)、4 新文明 共同体芸術社会(無階級社会)というように発展・発達(止揚)「するはずだ」もしくは「させければならない」という仮説(無政府主義・アナーキズム?)があるようだ。しかし、人類史は、1991年の「ソ連崩壊」によって、「無階級社会」から「一歩後退」という「段階」に陥っているようである。つまり、評論家・森秀人の「仮説」は、今のところ「歴史的事実」によって否定されて「しまった」といえるだろう。その「仮説」は、彼が「心の中」で思った(感じた・願った)ことに過ぎないのだから、「評論」としては成り立たなくて当然である。おそらく、彼の「願望」としては、「文明」によってもたらされた「階級社会」の矛盾の現れである「(高尚・道徳・「体制」的な)文学的芸術社会」(知識人)を、対立・闘争の過程を通じて(低俗・本能・「反体制」的な「大衆芸術」を評価・受容することによって)発展的に統一(「新文明の創造」「無階級社会の具現化」イコール革命)するという「筋道」があったのだろう。 
 しかし現代は「格差社会」、「ソ連崩壊」によって「階級社会」という言葉も死語になりつつある。そして、評論家・森秀人の著書もまた「反古」になりつつあるのだろうか。