《冬蜂紀行日誌》(2008)

「冬蜂の死にどころなく歩きけり」(村上鬼城)という句に心酔した老人の日記

「冥界譚」・《私の死に方》

2011-01-31 00:00:00 | 日記
2008年1月31日(木)晴
 今日で1月は終わる。「死にどころ」を求めての「冬蜂紀行」は、始まったような、まだ始まらないような、なんとも覚束ない足どりである。「死にどころ」とは、「死ぬ場所」に加えて「死に方」「死ぬ時期」も含まれているような気がするが、いずれも、今の私には定かではない。そういえば、私はこれまでに4回「死にかけた」ことがある。1回は、おそらく2歳頃・・・、その経緯は全く記憶がない。2回は5歳、父親が買ってきた、「季節外れの柏餅」を夜中に食べ、激しい食中毒におそわれた。しかし、苦痛の記憶はあまりない。翌日、いつものように遊んでいたが、妙に頭が締め付けられるような感じがする。当時、進駐軍の兵士がかぶっていた帽子(GI帽)を、自分もかぶっているような感じがして、それを楽しむような余裕があった。まだ「頭痛」という感覚を体験したことがなかったためだろう。まもなく、力が抜け、意識が混濁しはじめた。「象牙の牙が生えてます・・・」などと歌ともうわごとともわからぬことを口走ると、叔母の声が聞こえた。「いけない、脳にいっちゃった、もうだめかもしれない」。私はぼんやりと考える。「脳にいく」とは何だろう。祖母の好きな歌「富士の白雪ゃノーエ・・・」と関係があるのだろうか。「三島女郎衆は、ノーエ・・・」か、女郎衆とは何だろう。そこへ往診の医者が駆けつけてきた。とりあえず「リンゲルを打つ」という。周囲の一同は覚悟したように、私の両手、両足を押さえつけた。そのとき、初めて私は「恐ろしい」と思った。症状の苦しさではなく、拘束されることの恐怖感の方が大きかったと思う。必死にもがこうとする私の太ももに、容赦なくリンゲル注射は打たれた。痛かった。殺されると思った。幸か不幸(といえば罰が当たるかも知れない)か、病状は快方に向かい半月程度の療養で、私は全快した。その間、ブドウ糖、重湯、葛湯、リンゴ汁、すり下ろしたリンゴ、粥、おじやという順に「栄養補給」が行われた。それは、死から生への道筋を象徴しているようで、そのどれかを食べたとき、当時を思い出す。リンゲル、ブドウ糖注射の痕跡は今でも、私の腿や腕に残っている。3回は6歳(小学校1年)の夏休み、場所は神奈川・逗子海岸、父親、親類と海水浴を楽しんでいた時のことである。突然、3メートルくらいの大波が打ち寄せてきて、おそらくその場の全員が「呑まれて」しまったのだろう。私は水中でもがいていた。何も見えない。息もできない。ただ、手足をばたつかせていたような気がする。「もうだめだ」と思った。数秒後、私の体は誰かに引っ張られ、気がつくと水中から脱出していた。親類の一人が、泳げない私を救出してくれたのである。まさに「九死に一生を得る」とはこのことだ、と実感した。しかし2回も、3回も幼少時のことであり、「深刻さ」が伴わない。もしあの時死んでいれば、「それはそれ、運が悪かった」とあきらめもつくのではないか。周囲の反応はともかく、当事者(本人・私)にとっての「死」とは、案外そのような感じのものではないだろうか。3回は17歳、病気でも事故でもない。ある夜、私は自殺を試みようとしたのである。しかし、「あと1分後にしよう・・・」「もう1分延ばそう」と思いながら一夜は明けてしまった。そのまま、実にその状態のまま、46年間が経過し、現在に至っているという次第である。なんとも「情けない」「だらしない」話ではないか。そんな気持ちを土台に私は、拙い小説を書き始めた。以下はその冒頭の二章である。

冥界譚

家に帰ろうとして、四つ角にある葬儀会館の立て看板を、何気なく見た。「故 梨野礫儀 通夜告別式 式場」と書いてある。
「何だ、これは!、梨野礫とはオレのことじゃないか!?」
私は、驚いた。自分は、死んだことになっている。しかし、まるで、そのような気がしない。同姓同名の故人が本当にいたのだろうか。
とりあえず、私は家に帰ることにした。
「だが、待てよ。」何か、気分がおかしい。妙に、さわやかなのである。いつもの、耳鳴りや頭痛、肩凝り,動悸、手足のしびれ感などの「不快感」がほとんど感じられないのだ。そればかりではない。無性にタバコを吸いたくなる、あの禁断症状も見事に消失しているではないか。
私の心臓は動いているのだろうか。私は,本当に呼吸をしているのだろうか。
「そうか!、私の心臓は止まっている。呼吸もしていない!?」、だとすれば、私はもう死んでいることになる。昔、ある哲学者が言っていた。「人間は、生きるという行為を『現在進行形』で続けることはできるが、死ぬという行為を続けることはできない。心臓が止まる瞬間を,一回限りで『死ぬ』というのであり、以後は『死んだ』という過去形の表現になってしまう。つまり、『死ぬ』ことは生きることの最後の営みであり、『死』イコール『生』という公式が成立する。」と・・・。彼の論旨は、人間が生きるのは、つねに死を意識しているからであり、死を意識すればするほど充実した生を実現できる、ということであったように思う。
しかし、私の死は、一回限りでは終わらなかった。死んだ後も、私の意識は健在なのである。しかも、すこぶる気分がよい。実に爽快である。
私は、本当に死んだのだろうか。
それを確かめるために、とりあえず、家に帰ることにした。我が家のたたずまいは、いつもと変わりなかった。玄関の鍵はかかっていたが、開ける必要はなく自然に入ることができた。
居間では、妻がコンビニ弁当を食べながら,テレビを見ている。表情は、いつもと変わりなく、何事もなかったような風情であった。
私は「おい、今、帰ったぞ」と声をかけようとした。だが、声が出ない。呼吸をしていないので、当然のことだ。
「なるほど・・・。やっぱり、オレはもう死んでいるんだ」
私は、やっと納得することができた。
「しかし、待てよ・・・。」私が死んだというのに,我が家の様子がいつもと変わりがないということはどういうことなのだろうか。さきほど、見かけた葬儀会館の看板は何だったのだろうか。今、私の葬儀が行われているのではないのか。どうして、妻はテレビなど見ていることができるのだろうか。
私は、家を出て葬儀会館に行ってみることにした。
もう一度、入口に立てかけてある看板をゆっくりと見直してみた。「故 梨野礫儀通夜告別式 式場」、真っ白な布地に、筆太の楷書文字ではっきりと書かれている。
「間違いない!」、私は確信して中に入った。受付は閑散として誰もいなかった。奥の一室から読経の声が聞こえる。「もう始まっているのか」,そう思って式場に向かった。
なるほど、正面に棺が安置され、私の遺影も掲げられている。参列者は、整然と並べられたパイプ椅子にすわり、一様に頭を垂れていた。遺族席には、妻がいる。長男も、長女も、その配偶者、孫たちも並んで座っている。彼らの表情は、いつもと変わりなく、淡々としていた。
かねてから、私は「もしオレが死んだら『故人の遺志により葬儀一切はとりおこないません』と通知して、事務的な始末だけするように」と言い置いてあったのだが、事態はそのようにはならなかったようである。でも、それでは、さきほど自宅で見かけた妻の様子は何だったのだろうか。明らかに、二人の妻がいる。再び確かめるために、自宅に戻ってもよかったが、その結果はわかるような気がした。
「もう、どうでもいいや・・・。」という気持ちになって,私は、しばらく葬儀の経緯を見ることにした。
参列者の中に、知人は一人もいなかった。「なるほど、妻は私の遺言どおりに、誰にも訃報の通知を出さなかったのだ。それでよい!」と、私は思った。だとすれば、この葬儀は、事務的な始末の一部に他ならない。家族が淡々としている様子も、十分に納得できた。 「そうか!」と、私には歓喜にも似た気持ちがあふれ出てきた。「オレは、やっと本当に死ぬことができたのだ!」
私が初めて死にたいと思ったのは、十七歳の時だった。以来四十年あまり,一日として「死にたい」と思わない日はなかった。時には「仕事」に紛れて「死んでたまるか」と思うこともあったが、入眠の時には「このまま、目が覚めないように」と、祈り続けてきたのである。
今,突然,その祈りが叶えられたと思うと、私は幼児のように踊り出したい気持ちになった。「やったぜ、ベイビー(古い言葉だなぁ・・・。でも万歳よりはいいだろう)」と大声で叫びたくなった。しかし、私は、体を動かすことも、声を出すこともできなかった。「死ぬ」ということは、そういうことなのである。
ところで、私はなぜ、この四十年余り「死にたい」と思い続けてきたのだろうか。話せば長くなるので、ここで一息いれてもらいたい。


私は、昭和十九年十月に満州(中国東北地方)で生まれた。日本の敗色が濃くなった戦時下のことで、聞くところによれば、あの神風特攻隊が自爆攻撃を開始した頃だという。当時の記憶は全くないので、すべて後日、縁者からの「またぎき」の話だ。だから、どこまでが本当かはわからない。
母は、第一子の私を出産すると、まもなく病死した。三十九歳での初産がたたったのかもしれない。父も、まもなく入隊し、私は父の友人一家に預けられた。一家には、友人夫婦と三人の息子がいた。三男と私は同年齢だったそうである。
敗戦後、友人一家は、私を連れて「内地」に引き揚げる。その途中で、三男は病死した。
友人一家の悲嘆、苦労はいかばかりであったろうか。その温情は筆舌につくしがたく、感謝の言葉も見あたらない。
とはいえ、私が物心ついたころ、「すべては終わっていた」。
私は母方の祖母に預けられ、新生「日本」の息吹の中で、安穏な日々を過ごすことになった。やがて父も生還し、友人夫婦、息子たちと交流、歓談する機会もあった。そこで語られる大人同士の「思い出話」には、かけがえのない「真実」、そしてまた、消すことのできない「悔恨」が数多く秘められていたに違いない。しかし、子どもだった私には、それらの片鱗さえ感じとることができなかった。今の私には、父の友人夫婦がさびしげに歌っていた「白頭山節」「鴨緑江節」のメロディーがかすかに残っているだけである。
「いや、待てよ。」、覚えている言葉が一つだけあった。『ムガイシャ(無蓋車)』である。屋根のない貨物列車のことであろう。台車の側板があるのはいい方で、ほとんどが木材を運ぶ,棒杭だけが立てられた無蓋車だった。その杭にしがみついてきたからこそ、引き揚げることができたのだという。
当時の大人たちは、過去の事実を「淡々と」叙述するだけで、感情を表に出すことはなかったように感じる。そのためか、私は自分自身の「生死」にかかわることですら、他人事のように聞き流していたと思う。
友人夫婦が私を連れて「内地」に帰還したとき、母方の縁者が出迎えた。栄養失調でやせ細った私の姿を見て、「期待はずれだったっけやあぁー」というのが第一印象だったという。未熟な私には、「期待はずれ」という意味すら理解することができないでいた。
友人夫婦のかけがえのない三男が落命したことの「重大さ」、「無念さ」を思い知ることができたのも、つい最近のことである。
「友人夫婦は、三男を犠牲にして私を守り抜いたのではないか。」
自らの第三子と、他人の第一子、どちらか一人を選ばなければならなくなったとき、どうするか、夫婦の苦渋の選択は想像するに余りある。
「でも、これでよかったのだ・・・」、妻を亡くし、息子も預けて入隊しなければならなかった父、娘の生還を待ちわびている母の縁者たちのこと、そして梨野家の存続を考えれば・・・。夫婦はそう自分に言い聞かせて、三男の冥福を祈ったに違いない。
だとすれば、「お前は生きなければならない、期待はずれでも・・・。」と、人は言うだろう。
わかるだろうか。だから、私は「死にたい」のである。「甘ったれ」「意気地なし」は百も承知で「死にたい」のである。十七歳、思春期特有の「反抗」「憂鬱」「絶望」「倦怠」を今だに引きずっている馬鹿、それが私の姿なのだ。(つづく)

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「日本の名随筆・演歌」(天沢退二郎編・作品社)・《異国の丘》《夜のプラットフォーム》

2011-01-30 00:00:00 | 日記
2008年1月30日(水)晴
 「日本の名随筆・演歌」(天沢退二郎編・作品社・1997年)読了。宮沢賢治の「歌妓」、萩原朔太郎の「流行歌曲について」を筆頭に、以下、竹中労、池田弥三郎、見田宗介、五木寛之、小泉文夫、新藤謙、井上ひさし、清水邦夫、寺山修司、筒井康隆、富岡多恵子、鶴見俊輔、大岡昇平、村松友視、中上健次、浅川マキ、竹西寛子、天沢退二郎、色川武大、諸井薫、橋本治、中野翠、久世光彦、山折哲雄、四方田犬彦といった面々の「名随筆」が編まれている。著者は、詩人、小説家、評論家、哲学者、演出家、学者など様々な分野の「著名人」であり、ひとり浅川マキだけが歌手として参加している。浅学のため未知の著者も多かったが、作物全体を通して、いくつかの「共通点」が感じられた。「演歌」(流行歌・歌謡曲)がテーマであるにもかかわらず、それと正面から向かい合う姿勢で綴られたものは少ない。編者自身、「あとがき」で「『演歌』は、(略)感情的真実へのあまりといえばあんまりな密着性によって、しばしば低俗と見なされ、知識人や高級音楽愛好者が眉をひそめて軽侮の色をかくさないのは、それなりに故なしとしないのであろう」と述べているように、知識人である著者の面々には、「その低俗とは距離をおきたい」「単なる演歌愛好者だと思われたくない」といった無意識がはたらいているのだろうか。(低俗な)「演歌」とは別の(高級な)「知識」を引き合いに出しながら(ひけらかしながら)、それを強引に(無理矢理)「演歌」に結びつけようとする傾向が感じられた。歌手・浅川マキの作物以外、ただ一編を除いては・・・。その一編とは、詩人・萩原朔太郎の「流行歌曲について」である。冒頭部には「現代の日本に於ける、唯一の民衆芸術は何かと聞かれたら、僕は即座に町の小唄と答えるだろう。現代の日本は、実に『詩』を失っている時代である。そして此所に詩というのは、魂の渇きに水をあたえ、生活の枯燥を救ってくれる文学芸術を言うのである。然るに今の日本には、そうした芸術というものが全くないのだ。文壇の文学である詩や小説は、民衆の現実生活から遊離して、単なるインテリのデレッタンチズムになって居るし、政府の官営している学校音楽というものも、同じように民衆の生活感情と縁がないのだ。真に今日、日本の現実する社会相と接触し、民衆のリアルな喜怒哀楽を表現している芸術は、蓄音機のレコード等によって唄われている、町の流行歌以外にないのである。僕は町を歩く毎に、いつもこの町の音楽の前に聴き惚れて居る」と、書かれている。野口雨情は措くとして、佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー、藤浦洸といった作詞家は、もともと「詩人」を目指したが、こと志に反して「やむなく」流行歌の世界に身を置くはめになったのかも知れない。しかし、詩人・萩原朔太郎は、その作詞家の作品に「聴き惚れて居る」ことを白状している。そのことが、大変おもしろかった。
 以下は、昔、綴った私の「迷随筆」二編である。

「異国の丘」
 静岡市を流れる安倍川、その上に架かる安西橋の両側には、欄干がなかった。四~五メートルごとに石の柱は残っていたが、柱と柱をつなぐ「横棒」は鉄製のため、兵器工場に徴発されたのだろう。祖母は、病みあがりの私を乳母車に乗せて、その橋を注意深く渡り始めた。五歳の私が、生死をさまよった「疫痢」から辛うじて快復し、治療に使ったリンゲルの注射器を、河原に捨てに来た帰り道のことである。
真夏の炎天下、橋の上を通る人や車は、皆無だった。だが、ちょうど中間点に来たとき、向こうから、一人の少年が「跳んで」来るように見えた。少年の姿は、だんだん大きくなってくる。よく見ると、少年は「跳んで」いるのではなかった。松葉杖をついて、懸命に歩いていたのである。頭、顔、上半身、汗にまみれ、薄汚れた半ズボンの下には、膝から切断された右足がむきだしのまま、ぶら下がっていた。私たちは目を合わせることなくすれ違い、無言のまま帰宅した。床の間のある八畳間で、祖母は、何事もなかったようにラジオのスイッチを入れる。雑音に混じって途切れ途切れに聞こえてきたのは、「異国の丘」(増田幸治作詞・吉田正作曲・昭和二四年)のメロディーだった。「今日も暮れゆく異国の丘に 友よ辛かろ切なかろ 我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ 帰る日も来る 春が来る」まだ五歳だった私に、歌詞の意味などわかるはずがない。ただ、愁いを帯び、どこか悔恨の気持ちを秘めた男の歌声だけが、私の胸裏に刻印されたことはたしかである。「イコクノオカって何?」と問いかける私に、祖母は弱々しく笑って、床の間の掛け軸を指差した。そこには、槍の先のように鋭くそびえ立つ絶壁(水墨山水画)が描かれていた。「ふうーん・・・」と言って見つめる私を祖母がどう感じたか。すでに、私の母は、昭和二十年、異国・満州で他界していたのである。
 掛け軸は人手にわたり、山水画を二度と見ることはできないが、「異国の丘」のメロディーに触れるたび、槍の先のように鋭くそびえ立つ絶壁の情景が目に浮かぶ。「異国の丘」は、敗戦で異国に抑留された兵士たちの「祖国帰還」をテーマにしているが、私には、竹山逸郎・中村耕造の歌声が、、散華した友への鎮魂、生還する自分自身への悔恨、懺悔を伝えようとしているように思われてならない。
 幼い日の真夏、はじめて耳にした大人の流行歌「異国の丘」が、実は、極寒の地における「春を待つ歌」であることは後年知ったことだが、還暦を過ぎた現在、あの松葉杖の少年、掛け軸の山水画、そして「戦争」のことが頭から離れないのである。                                    (2006.12.31)
二葉あき子の歌唱力
 二葉あき子の歌を聴いたことがあるだろうか。私が初めて彼女の歌を聴いたのは「夜のプラットホーム」(奥野椰子夫作詩・服部良一作曲・昭和21年)であった。      昭和26年2月,当時6歳だった私は,父と祖母に連れられ,住み慣れた静岡から東京に向かうことになった。静岡には母の実家があった。満州で生まれた私は,すぐに母を亡くし,入隊した父とも別れ,父の友人一家の助力で命からがら日本に引き揚げてきたらしい。母方の祖母が営む下宿屋には,東京から疎開してきた父方の祖母も身を寄せており,しばらくはそこで暮らすことになったようだ。やがて父も引き揚げ,私自身が学齢になったので父の勤務地である東京に,父方の祖母ともども呼び寄せられたのである。     静岡駅で東京行きの列車を待っていると,下りのホームにアメリカ兵が鈴なりになって乗っている列車が入ってきた。彼らは,上りのホームで待っている私たちに向かい,大きな叫び声をあげながらチョコレート,キャラメル,チューインガム,ヌガーなどの高価な菓子類を,雨あられのように投げてよこした。上りホームの日本人たちも,歓声をあげて一つでも多く拾おうとする。見送りに来た親類の一人が,ヌガーを一つ拾ってくれた。東京行きの列車の中で,それを食べたが,その豪華な味が忘れられない。甘いものといえばふかし芋,カルメ焼きぐらいしかたべたことがなかった。チョコレートでくるまれた生クリームの中にピーナツがふんだんに入った,贅沢な逸品であった。アメリカ人はなんて優雅なくらしをしているのだろう,子ども心にそう思ったのを今でも憶えている。
列車が東京に近づく頃は,もう夜だった。横浜を過ぎた頃,車掌がやって来て,「東京駅構内で事故が発生しました。この列車は品川止まりになります」という。乗客には不安が走った。今日のうちに目的地まで行き着くことができるだろうか。          降り立った品川駅のホームはトンネルのように暗かった。「シナガワー,シナガワー,ケイヒントーホクセン,ヤマノテセン,ノリカエー」という単調なスピーカーの声とともに,厳冬の夜,凍てつく寒気の中に柱の裸電球が一つ,頼りなげに灯っていた情景が瞼にに焼きついている。
二葉あき子の「夜のプラットホーム」を聴くと,あの品川駅での情景がきのうのことのように甦ってくるのである。なぜだろうか。それは,彼女がおのれを殺して,全精力を歌心(曲想)に傾けて表現するという,たぐいまれな歌唱力を身につけているからだと思う。「星は瞬く,夜深く,鳴りわたる,鳴りわたる,プラットホームの別れのベルよ」という彼女の歌声を聞いて,私は「本当にそうだった」と思う。6歳の私が初めて見た「夜のプラットホーム」は品川駅をおいて他にないのだから。「さようなら,さようなら,君いつ帰る」とは,静岡駅で私を送り出してくれた,心やさしき人々の言葉に他ならなかった。もしかしたら朝鮮戦争に赴くアメリカ兵の言葉だったかもしれない。本来,この歌は戦前,若い出征兵士を見送る,東京駅の情景を見て作られたという。「いつまでも,いつまでも,柱に寄り添い,たたずむ私」という恋人や新妻の気持ちがどのようなものだったか。戦争とは無縁であった私ですら,あの心細い品川駅での情景を思い出すくらいだから,戦死した夫や恋人を追憶する女性の寂寥感は想像に難くない。              彼女が大切にしているのは,歌手としての自分の個性ではなく,作詩・作曲者が創り出した作品そのものの個性である,と私は思う。いわゆる「二葉あき子節」など断じて存在しない。彼女が歌う曲は,クラッシックの小品,ブルース,ルンバ,シャンソン,映画主題歌,童謡,軍歌,音頭,デュエットにいたるまでとレパートリーは広く,多種多様である。しかも,その作品ごとに,彼女の歌声は「千変万化」するのである。作品を聴いただけでは,彼女の歌声だとは判別できないものもある。ためしに,「古き花園」(サトウハチロー作詩・早乙女光作曲・昭和14年)「お島千太郎旅唄」(西条八十作詩・奥山貞吉作曲・昭和15年)「めんこい仔馬」(サトウハチロー作詩・仁木他喜雄作曲・昭和15年)「フランチェスカの鐘」(菊田一夫作詩・古関裕而作曲・昭和23年)「水色のワルツ」(藤浦洸作詩・高木東六作曲・昭和25年)などを聴き比べてみれば,わかる。
「フランチェスカの鐘」は,もともと失恋した成人女性の恨み歌であったが,後年,二葉あき子は初老を迎えた自らの変声を生かしし,故郷の被爆地・広島で犠牲になった人々への鎮魂歌として創り変えている。(LPレコード「フランチェスカの鐘・二葉あき子 うたのこころ・昭和42年)                 
私は彼女の歌を聴いただけで,誰が,どこで,何をしながら,どんな気持ちで,何を訴えたいかをストレートに感じとることができる。彼女の歌唱力は,曲の舞台を表現する。登場人物の表情・心象を表現する。そして,情景を構成する気象,風景,星,草花,ハンカーチーフまでも表現してしまうのである。
 いつになっても,作品の中の彼女の声は澄みきっている。二葉あき子の地声ではなく,作詩者,作曲者が思い描いた歌手の声,登場人物の声に徹しようと努めているからである。流行歌は三分間のドラマだといわれるが,彼女ほどそのドラマを誠実に,没個性的に演じ分けた歌手はいないだろう。それが他ならぬ二葉あき子の「個性」であり,「今世紀不世出の歌手」といっても過言ではない,と私は思う。(2004.5.15)

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テレビドラマ「だいすき」と「僕の歩く道」感想

2011-01-29 00:00:00 | 日記
2008年1月24日(木) 晴
   午後10時から、テレビドラマ「だいすき」(TBS)視聴。知的障害の女性がシングルマザー(相手の男性は事故死)として「子育て」に取り組む筋立てだが、ドラマの設定自体に無理があるようだ。知的障害の程度が「中度」の場合には、周囲のサポートが不可欠だが、女性の母親、兄は当然としても、「養護施設」で育った正体不明の女性が、家族の中に闖入し、その支援を担うという設定は「非現実的」ではないか。かたや知的障害、かたや情緒障害(虚言癖)、その両者が「世間」の無理解・偏見と闘い、相互の絆を強く結び合い、「子育て」の最も必要な「愛」(「だいすき」という心情)とは何かを問いかける、といったモチーフが「見え見え」のように感じた。しかし、シングルマザーの娘役・「ひまわり」を演じた子役の演技は光っていた。周囲のサポートが不十分のまま育てられれば、どのような表情、言動が生じるかを「目の当たり」に見せてくれたような気がする。今後の展開を見守りたい。以下は、一昨年視聴したテレビドラマの感想文(「フジテレビ」宛)である。

<「僕の歩く道」感想>
 テレビドラマ「僕の歩く道」が終わりましたので、その感想を述べてみたいと思います。
昨年11月の中旬に、私はこのドラマの感想を東京新聞の<反響欄>に投稿しました。次のような内容です。 
<「僕」を含めた登場人物全員が、相互の関わりを通して「どのように変化(成長)するか。特に、「僕」の血族である兄、妹、親族である義姉、甥、また他人ではあるが、障害児の父であった「古賀」という人物の「変化」に私は注目している。「僕」の存在が、彼らの視野を広げ、豊かな感性を育む役割を果たすことは間違いない。そのことが、また「僕」の成長を保障するのだと思う。「古賀」は別れた「我が子」にどのような姿で再会するだろうか。> 結果は、趣旨を妨げない程度に省略された文章で掲載されましたが、その後のドラマの展開にどのような影響を与えたかはわかりません。しかし、回が進むにつれて、視聴率が向上し最終回の頃にはベスト5にランキングされたことは事実です。電車の中で、若者同士の会話を耳にしました。一人の女子学生が黄色いジャンパーを着ていたのです。「よく、私のことを見つけられたじゃない」もう一人の学生が言いました。「だって、そのジャンパー、目立つんだもん」「ああ、これね。ほら『僕の歩く道』って見てる?クサナギ君が着てるのと同じ色」「見てないなあ」「そう?私、ずーっと見てるの。障害者の話なの」「フーン・・・。じゃあ、見てみようかな」なるほど、そんな形でドラマの人気が高まっているのかと、少しうれしくなりました。
 さて、「僕」を含めた登場人物全員が、相互の関わりを通して「どのように変化(成長)するか、という視点は「最終回」に集約されていたと思います。「僕」を含めた、ほとんどの登場人物が変化(成長)したように感じます。ドラマは専門家の医事監修を経ているので極端な「ハッピーエンド」でなかったことにも好感がもてました。
 「僕」との関わりを通して、最も変化の大きかった人物は、義姉、甥、動物園長だったように思います。彼らは「僕」にとって「いわば他人」であり、また「自閉症」という障害について、最も「無知」「誤解」していた人物だったかも知れません。義姉は自分の教育方針を改め、甥は「あこがれ」の気持ちで「僕」を見つめ、動物園長は「動物愛護」にもとづいた動物園経営の理念に目覚めました。それが「僕」の果たした大きな「役割」だと思います。
 一方、最も変化の小さかった人物は、幼友達の「都古ちゃん」、ロードバイクの友人でした。彼らは、
当初から「僕」の理解者であり、「自閉症」というレッテルで「僕」を見ていなかったことが共通しています。つまり、「変化」する必要がなかった人物です。「都古ちゃん」は、「僕」の進路について、家族に立ち入ってまで「グループホームでの自立」を進言しています。また、ロードバイクの友人は、「僕」のレース参加を支援しましたが、兄からの伴走依頼を、こともなげに断りました。いずれも、「僕」の「実力」を理解し、可能性を信じていたからではないでしょうか。二人は、正に「教員」の役割を果たしていたのだと思います。 
では、「僕」の血族、兄、妹、母の変化はどのようなものだったでしょうか。つねに、「苦しみ」を伴った変化でした。妹は、「僕」の主治医の前で、母に甘えられなかった過去を告白し、号泣しました。兄もまた、「なぜ『僕』のような弟をもたなければならなかったか。自分だけがイヤな思いをさせられなければならないか」を、苦しみ続けました。今でも、親亡き後の「僕」をどうするか、という問題に直面しています。しかし、彼らは、「行ったり来たり」ではあるけれど、確実に変化(成長)している「僕」の姿を感じ始めたのではないでしょうか。いずれにせよ、昔のように「僕」を助ける必要が「減りつつある」ことを確信し始めたことは間違いありません。
 当然のこととはいえ、最も苦しんだのは母でした。「僕」を生んだのは自分であり、「僕」を最も愛していたからです。「できることが多いのがよくて、少ないのが悪いってわけじゃないの。できることを一生懸命やればいい」。「僕」が母から教えられた言葉です。この言葉は、人間を「減点法」(100点満点主義)ではなく、「加点法」(学習は0点から出発する)で評価することが大切であることを語っています。正に、「教育の基本」だと思います。母にとっては、「僕」を育てる「葛藤」を通して、つまり「僕」の存在から「学んだ」唯一の鉄則だったのではないでしょうか。
ロードレース大会で、「僕」はゴール寸前、トンビを追いかけて横道にそれました。兄は驚いて「僕」を追いかけようとします。そんな兄に向かって母は叫びました。「待って!」とっさの判断でした。そして自分自身に言い聞かせるように、つぶやきます。「・・・待ちましょう」。このこともまた、「教育の基本」だと思います。その結果、「僕」はトンビの飛翔する姿を初めて目にすることができたのでした。「僕」は、「自立」(グループホームでの生活)を決意します。ドラマとはいえ「お見事」というほかありません。母は、苦しみに苦しみ抜いた結果、「僕」の成長を確信できるまでに「変化」したのだと思います。
 「僕」自身の「変化」(成長)は数え切れないほどあります。「できる仕事」がふえ、人間(特に「都古」)の表情に注目するようになりました。しかし、最も確実な「変化」は、毎日投函する「都古ちゃんへ」という手紙だと思います。当初は、決まったように「三行」で終わっていましたが、最終回の頃になると「四行」に増えています。伝えたい内容(心の世界)が豊かになったためではないでしょうか。「自閉症」の問題の一つとして「コミュニケーションの障害」が挙げられています。(私自身は「感覚過敏」が本質的な問題だと考えていますが・・・)だとすれば、「僕」は、様々な経験、人との「関わり」を通して「コミュニケーションの障害」を克服しはじめたとは考えられないでしょうか。
 我が子が「自閉症」だった父、「古賀」もまた、「僕」の「変化」(成長)から、多くのことを学んだに違いありません。当初、凍りついたような彼の表情は、明らかに変化しています。まずは「我が子」との再会を果たし、「これからは自分の番だ」という自立支援への決意がうかがわれました。
 最後に、(損な役回りとはいえ)「全く変化しない」人物がいました。「都古ちゃん」から離婚を言い渡された配偶者です。ドラマの中では「少数派」かも知れません。しかし、現実の社会では、「多数派」に逆転します。ドラマほど甘くはないと思います。この現実こそが私たちの大きな課題です。とはいえ、当初、閑散としていた動物園の入場者が増加し始めたように、現実の「視聴率」も向上しました。私が電車の中で出会った「若者たち」の存在も現実です。今後の「社会の変化」に期待したいと思います。(2006.12.23)

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「失敗こそが本当の人生」だ

2011-01-28 00:00:00 | 日記
2008年1月28日(月)晴
 午後からテレビ「国会中継」(衆議院予算委員会)視聴。後期高齢者医療制度が変わることによって、「長寿」を寿げなくなる時代がやってくる。そのことを当事者(75歳以上の高齢者)の9割が「知らない」という日本の現実、いったい誰の責任といえばよいのだろうか。
 私と同年の棋士・米長邦雄は、還暦に際して次のような所見を述べていた。「60歳までの人生は<修業中>である。だから、失敗は許される。様々な経験・学習・失敗を重ねて、自分の実力を養う。還暦以後、その人の<本当の人生>が始まる。これまでに培った実力を発揮して、自分の人生を「自由に」作り出していく。もう、失敗は許されない。やり直しがきかない人生だとも言える」(NHK教育テレビ・2004年)
 私も同感である。やはり同世代の人間は同じような考え方をするものだ、と思った。いわば、「第一の人生」を断ち切った、その先に「第二の人生」が待っているということであろう。しかし、そのことは頭で考えるほど簡単ではない。私自身、まだ「第一の人生」を引きずっている。その上にのっかている方が安全・安楽に違いない。まして「もう、失敗は許されない」ということになると、飛び立つには勇気が必要である。いっそのこと、「失敗こそが本当の人生」と開き直ってしまおうか。「無名・無償の文筆活動」に「成功」などあり得ないのだから・・・。

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評論家・江藤淳の「死に方」

2011-01-27 00:00:00 | 日記
2008年1月27日(日)晴
 気鋭の論客・江藤淳は、愛妻の死後1年で自死した。その結果、今では「忘れられたような」存在になっているような気がする。華々しく、時には雄々しく張られた、彼の論陣は、「荒城の月」さながらに「昔の光今いずこ」という雰囲気を醸し出しているのではないか。芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、その他、自死を遂げた文学者を数え上げればきりがないが、そのことによって彼らの作品の価値が下がることはない。しかし、天下・国家を「実社会」のなかで「実用的に」論じる評論家の場合は、事情が異なる。配偶者との死別を苦にし、自死するような「脆弱な精神」では、論客失格ということになるのかもしれない。生前、江藤淳は「何をよりどころにして」、ものを考え、その論理を構築していたのであろうか。その根源が「妻への愛」であったとしても、責められることはない。大切なことは、天下・国家について論陣を張ること(公事)が、「妻の死」という私事によって、いともあっけなく放擲されてよいものだろうか、という観点である。平たく言えば、「妻がいるから」「妻のおかげで」ものが言えたという人物の「論脈」など、たかが知れている、所詮、公民の心情・立場とは無縁の代物ではなかったか、という失望感だけが残るのである。ノンフィクションの世界で「ものを言う」ことは、「絵空事ではすまされない」ということであろう。
 一方、絵空事(フィクション)の世界を跋扈する芸術家諸氏にとって、自死は「自家薬籠中」の代物に他ならない。作物には終章が不可欠であり、それは作者の死によって、時には「衝撃的」に、また「余韻を残して」完結することができるからだ。

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