「君たち」っていうその響き
○○○
バリーがノースタッド家に向かって足を進める頃には、水平線には僅かな明りしか残っていなかった。
あと数十メートルで辿り着く、というところで、バリーは見覚えのある車に気付いた。
それは、ノースタッド家の玄関から少し離れた場所に、人目を避けるように止められていた。
何とはなしに見ていると、助手席からこれまた見覚えのある、金髪の少年が出てきた。
車の持ち主と、細い背中の少年とをつなぐ符号を無意識に探しながら、バリーは足を止め、道端の木の影へ身を寄せた。
なんとなく、すぐに近づかないほうが良いような気がした。
少年は車から出たあと、また助手側の窓から中を覗き込み、何か言ったようだった。
夕暮れの中はっきりとは見えなかったが、少年にはいつもの鋭さや硬さがなかった。
その頬には、遠慮がちな、しかし確かな微笑みが浮かんでいた。
心なしか、頬には赤みすら差しているいるように見えた。
そのような表情は、少年と短くない期間付き合っているバリーも、見たことのないものだった。
少年はくるりと振り返り、50メートルほど先の家へ向かって歩き出した。
その姿を見届けてから、車はエンジン音を吹かせて発進した。
こちらへ向かって、近づいてくる。
バリーは、ある確信にも似た感覚を持って、影から道端へ、自身の姿を見せつけるように移動した。
そして顔をまっすぐにあげて、正面からやってくる車を見据えた。
薄暗さのせいで運転手の顔は見えなかったが、向こうがこちらに気付いているのは分かった。
予想通り、車はすぐにスピードを下げ、バリーの横へ停止した。
型は古いが、相変わらず手入れの行き届いた車体を眺め、バリーは言った。
「久しぶりだな、ジャスティン」
運転席の男は、ゆっくりと窓を開けた。
愛想よく笑うバリーに対し、マクラウドはほとんど無表情なまま「元気だったか、バリー」と言った。
その質問の答えに、たいして興味がなさそうな声色だったが、バリーは大らかに笑って答えた。
「ああ。今年は休みが長くとれたから、呑気に過ごしてるよ」
「そうか」
「君は、あいかわらずか」
「まあな」
対して弾まない会話だったが、長年の付き合いで、バリーはこれがマクラウドの普通なのだと理解していた。
ただ、普段よりもほんの少しの緊張、いや警戒のような色が、マクラウドの声に含まれているのを、聞き逃さなかった。
あの少年と一緒にいたところを、見られた。
大方そんなことを考えているのだろう。
バリーはにこやかな表情を崩さないままに、マクラウドの変わらぬ表情と傷跡をちらりと眺めた。
「また近いうちに、酒でも飲みに行っていいか」
「構わんが、………日曜の夜にでも」
「分かった。ウィスキーでいいか」
返事はせずに、マクラウドは口元だけで小さな笑みを作った。
バリーも目配せでそれに応じた。
日曜の夜、か。
人付き合いの殆どないこの男が、日にちを指定してくることはこれまで殆どなかった。
日曜以外は、都合が悪いということか。
バリーは、網膜にちらつく細い背中を思い、腹の底がこそばゆいような感覚を覚えた。
そして、運転席の窓枠に片手をあてて、覗き込むようにして言った
「……ジャスティン、立ち入ったことを聞いていいか」
「…何だ」
マクラウドは、何を聞かれるかわかっているような声色で応えた。
そのトーンに不快な気配がないのを確認して、バリーは聞いた。
「今の子、ノースタッド。知り合いか」
「…ああ。勉強を教えてくれ、と頼まれた。もうすぐ一か月になる」
車から降りるチャールズを見たときに、何となく予想はしていたことだった。
ここ何週間か、彼の母親が不安そうに、あの子が勉強なんてしてるの、とこぼしていたのを思い出した。
確か、寄宿学校に入りたい、とか言っていたな、とバリーは頭の片隅で思った。
そして更に、人付き合いの嫌いなこの男がどんな心境の変化で、見ず知らずの少年にそんな親切をしているのか、と考えた。
思いを巡らせているうちに、その温かな違和感が笑いとなり、バリーの肩を揺らした。
堪えきれずにぷっと吹き出し、明るい声をあげて笑うバリーを、車の中からマクラウドが睨んだ。
「ぷっ…、ははは、君が、勉強を、」
「……俺が勉強を教えたら、おかしいか」
「いや……くくっ、すまん」
マクラウドが見かけほど恐ろしい人間ではないと知っていつつ、冷たい目で睨まれると迫力がある。
バリーは笑いをなんとか抑え、憮然としているマクラウドの肩を宥めるように叩いた。
人嫌いの小説家は、純朴の仮面を被った弁護士の人懐こさに、少しの嫉妬と羨望を感じた。
西の空に浮かぶ橙色の残照は、薄れて消えかけていた。
「…………何もなければ、もう行くが」
「まぁ待て。君、あの子の家庭のこと、聞いてるか」
バリーの声色が真剣なものへと変化したことを、マクラウドは見逃さなかった。
マクラウドはすぐに、チャールズの言っていた話、複数の継父やら、相性の悪い異父姉妹のことを頭に呼び起こした。
同時に、チャールズが言っていた「父親候補」の話も思い出した。
「今の父親候補は、『便利なバリー』だけです」
確かチャールズは、半分ふざけるようにそう言っていた。
「………多少は」
「そうか」
「…………それが、どうした」
「…………実を言うとな、近々あの子の母親に、結婚を申し込むつもりだ」
「…………そうなのか」
「ああ。チャールズがまだ3つの頃、ここで知り合ってね。それ以来の友人さ」
「それは……おめでとう、と言ったらいいのかな」
「どうだろうな」
バリーは困ったような笑みを漏らした。
それは、上辺のものではなく、人好きのする温かい笑みだった。
そして、もう幾度も結婚を繰り返している女性に惚れた、純情な男の素顔のようにも見えた。
海から直接流れてくる風が、バリーの髪に吹き付けた。
車内にも、清涼な潮の香りが流れて行った。
「………あの子には、父親が必要だ。あんたなら、俺も安心だ」
「だといいが」
いつになく優しげなマクラウドの言葉に、バリーは照れたように俯いた。
もう何年も昔、人付き合いを毛嫌いしていたマクラウドに、「貰い物の美味い酒があるが」と話かけてきた男が、バリーだった。
嫌味や恩着せがましさを微塵も感じさせず、心地の良い距離を保ってくれる男。
その内面には、職業上不可欠であろう狡猾さや泥臭さを綺麗さっぱり拭い去ったあとの、多少の冷度すら伴う透明感があった。
ああ、この男も、人間に疲れているのかもしれない。
人間と付き合うことに。人間であり続けることに。
マクラウドのバリーへの第一印象は、それだった。
だが、二人は友人となったのちも、互いに踏み込む境界を厳格に定めていた。
お互いの被る仮面を認識しながらも、それに触れることはない夏の付き合いは、それ故に長く続いていた。
「ジャスティン」
バリーは、いつもよりも少しだけ低い声で、小さく言った。
「チャールズのことだが………張りつめて生きてきた子だ、大切にしてやってくれ」
「バリー、それは父親になるあんたが」
「僕は幼い頃からのあの子を知ってる。あの子があんなに楽しそうなのは、初めて見る」
マクラウドの言葉を遮りながら、バリーは穏やかに、しかし断固としてそう言った。
マクラウドがバリーから顔をそむけ、ハンドルをきつく握りしめたのをバリーは見ていた。
「あの子の母親も、姉も、少々不器用でな。感情の表現が、上手くないんだ」
「……あの子自身も、そうだな」
「頼むよ。僕も、あの子のことは可愛いんだ」
バリーはそう言って、人の良い笑みを浮かべた。
苦笑にも似たそれを見て、マクラウドはバリーの見てきた十年間余りを思った。
真っ直ぐで、かつ自分の不器用さと器用さをうまく認識している目の前の男を、またほんの少し羨ましく思った。
「……秋の試験には、必ず合格させる。それだけは、約束する」
「…………ジャスティン、そういう意味じゃ」
「それと、あんたに相談したいこともある。日曜の夜、待ってる」
「…………分かった」
マクラウドが自分の意図をわざと読み違えているのを、バリーは黙って受け入れた。
運転席の男の、滅多に揺らぐことのない瞳に、僅かな波を見たからだった。
バリーは、車の窓枠から手を放し、少し伸びをしながら言った。
「あの子の母親には、ひとまず何も言わずにいるよ。そのほうがいいだろう」
マクラウドはバリーを見上げ、小さく笑うようにため息をついた。
そして聞こえるか聞こえないか、という大きさで、「ありがとう」と呟いた。
それが酷く穏やかで、バリーは少なからず驚いた。
そう親密だとは言えなくとも、長い間付き合ってきた男のこんな様子は、初めて見るものだった。
「あの子も随分変わったが、君もそうだな。ジャスティン」
マクラウドは、訝しげな視線だけをバリーに向けた。
「去年まではもっと、刺々しい目をしてたよ」
「……そうかな」
「君たちがそんなふうに微笑うなんて、知らなかった。いい夏だな、今年は」
何気なく発した言葉に、マクラウドの瞳が小さく光ったのをバリーは見た。
マクラウドは、まるで安心したように、ゆっくりと不器用に微笑んだ。
その表情に、バリーは、先に家に戻っているだろうあの少年の面影を連想した。
マクラウドが、じゃあ、と呟いて、アクセルを踏んだ。
男一人を乗せた車は、淡々と坂の上へと消えて行った。
すっかり暗くなった道端に取り残されたバリーは、胸に清冽な感情が湧いてきているのをぼんやり感じた。
彼らがこの夏、どんな時間を過ごしているのかなど、知る由もなく、また聞こうとも思わなかった。
ただそれが、どこまでも透明で、哀しいほどに澄んだものであることだけが、痛いほどに伝わってきていた。
○○○
バリーは良い漢。
夏に入ってからの
怒涛の勢いで可愛くなっていくチャールズを見てるから
「ただ近所のおっさんとガキが仲良くしてるだけ」とは思ってないよ。
でも、敢えてわざわざ詮索することもないよね、っていうスタンスの人だといい。
ミスター普通とか言われてるバリーだけど
普段は大人しくて実は切れ者、な大柄の穏やかーな人だったらいいな。
バリーみたいに「クセのない人」ていうのが、一番凄いと思うなぁ。
多分怒ったら、先生より怖いと思う。
先生とバリーは
夏に1、2回会う程度の飲み仲間、なイメージ。
ちびちび飲みつつ、読んだ本とか、なんぞアカデミックな話とか、仕事のよもやま話とか徒然して
んじゃ、また来年の夏。
みたいなさらっとした友情、だったらいい。