ー 「 尾 灯 」 ―
― 良三は総理府の出先機関を5年前に定年退職し、今は札幌で妻と二人暮らしである。正月、めっきり少なくなった年賀状の中に10年前に札幌で一緒だった坂崎からのを見つけた。よく屋根の雪下ろしや日曜大工などやってくれた男である。良三も彼が函館の庶務係長で出るときは骨を折ってやった。今旭川に来ており、課長になっているらしい。そのうち機会があったらと書いてある。旭川には長男夫婦もいる。長男の年賀状には一度泊りがけで遊びにきてくれとあった。
1月半ば、長男の所に行ってみようと思いたち、ついでに坂崎にも会ってこようと考えて汽車で旭川に向かった。ひとまず坂崎のところに顔を出そう思い、官庁街にあるその役所に向かった。守衛に用向きを伝えると、守衛はどこかへ電話をかけていたが、受話器を置くと、「3回の庶務課においでいただきたいそうです」と言った。
ドアを開けると、向こうから「やあー、課長、しばらくです」と、懐かしそうな坂崎の声がしたかと思うと、いち早く立ってきてオーバーを取り、コート掛けに掛けてくれた。ひとしきり、思い出話に花が咲いたあと、坂崎は「じゃあ、5時半にすすきのの大舟でお待ちしてます」と言った。
良三が「大舟ね」と立ちかけたところ、男が来て、「課長、5時から緊急会議だそうです」と伝えた。坂崎はがっかりした表情になった。良三もがっかりしたが、「残念だが、またの機会に」と部屋を出た。トイレの所まで来たところで脱肛が起きかかった。治そうとトイレに入った。
そこへ靴音がして、小用の気配がした。続いてもう一人入ってくるなり、「あ、課長もここでしたか」と言った。緊急会議の連絡に来た男の声である。「おかげで助かったよ。お見事、お見事」坂崎の声だった。「しかし、緊急会議はいつもながらいい手ですね」。「うん、疾うに退職した人にまで、いちいち付き合っていたら、こっちの金も体も持たんからなあ」。「本当ですねえ」 。二人の笑い声がトイレの外に消えた。―
三浦綾子の「尾灯」(小学館文庫「毒麦の季」所収。)の一シーンである。紙幅の都合で大部はしょったし、一部用語も入れ替えてある。
投稿するからには、ここで所感のひとつでも述べるべきことは分かっている。ただ、なにぶん言葉が出てこない。急性の失語症になったのかもしれない。
( 次回は ー a flog in slowly - boiling water ー )
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