徳本行者の生涯と思想

江戸時代の僧、徳本行者について詳しく紹介するページです。

永世捨世道場 一行院を得る

2005-12-30 16:15:44 | Weblog
 しかし、さすがの徳本も一日として休まる日がないスケジュールでは、限界が来ていた。
 もとから芳しくなかったのどの調子も更に悪く、体も思うようにならないので、箱根に湯治に行ったり(文化11年9月)、勝尾寺の方へ帰りたいと漏らしていたようだ。それに気付いた増上寺典海や一橋治済は、捨世道場一行院を与えるという強引とも言える方法で徳本を江戸に留めた。  
 文化14年(1817)、徳本が捨世道場一行院を与えられたのは、一橋治済の懇請により増上寺典海の尽力したことに拠る。その経緯は、徳本の弟子である本極が記した「関東蓮花勝会」(『徳本行者集』1所収)に詳しいほか、行誡編『行者伝』ではその部分を完結にまとめている。左にその部分を引用する。

 (文化13年)江戸の化益、殊の外盛なりしかば、老羸に臨みて、応接も何となく つかれ玉ふにや、ふたたび勝尾の草庵に帰錫せばやとおぼしけるを、いつしかも れききけん、道俗おどろきて、いかにもして、此地にとどめまゐらせんとおもひ ける中にも、一橋さきのあ前亜しゃう相の御方(治済)には、御臨終の善知識に もなどまで、またなくおぼしいれ玉ひたるを、いかでいま御名残となるべきかは とて、近々召つかはるるみながはとう皆川藤右衛門といふものを、御使として、 「わが我七十歳まではとおもひつれど、それまでは永しとやおぼさんなれば、い ま両三年のあひだは、留錫あらまほし。其旨方丈より鸞洲、大基へ申させ給ひか し」と、増上寺大僧正の御許へ、懇におほせ仰られぬ。これによりて大僧正より 公にきこ聞えて、巣鴨の一行院をもて捨世道場と定め、師の行化の地となし参ら せて、今しばしく関東にて、摂化あるべきよし申させ給ひけり。師は素より一し ょ処不住の境界におはしませば、住処のために心を継がれ玉ふべきよしもあらね ど、やごとなき厳命も、だし難く、道俗の哀慕も、さすがに捨がたくて、今はと てつひ遂にこのち此地にとどまり給ひぬ。(一部分かり易いように修正)

 上記の文からも分かるように、徳本の江戸滞府を求めたのは、一橋治済であり、典海はその要請に従い尽力したにすぎない。だが、従来、「一橋治済の要請」という部分は無視され、「典海が徳本滞府に尽力した」という部分だけが注目され、徳本の江戸滞府には、浄土宗内の建て直しと、江戸の民衆教化が期待されたためとされてきた。一つの大きな要因として、それも十分に挙げることができるが、一橋治済の想いも、今後注目してゆきたいところだ。
 そして、文化14年12月23日一行院が落成し、徳本の捨世道場として定められた。
(図;誕生院蔵『徳本行者絵伝』より 一橋治済の帰依により、一行院を賜る図)

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