■脱力って?
楽器演奏の時のみならず、運動する時によく言われるのが「脱力」。
例えば、箸を使う時にも脱力はしているでしょう。
力んでいては、上手に食べ物を口に運べないです。
でも、この箸を持っている状態は本当に脱力なのでしょうか?
曲がりなりにも箸という物を持っているのですから、
完全に力が抜けている状態とはいえません。
これが難しいところ。
似たような表現にリラックスというのがあります。
これも、イメージしてみてもピンときません。
つまり、脱力という状態を知らないのです。
本当に脱力してするのは、死んだ時くらいではないかと思います。
それでは解決にならないので、もう少し近い状態はというと、
寝ている時でしょうか。
あるいは、体験しにくいですが、無重力状態。
どちらも地球上で運動するには不都合です。
何が言いたいかといいますと、
言葉で表現しても、それはその人にしかわからないイメージであるということです。
脱力に関してもそうです。
運動しながら、脱力するって?
敢えて定義してみると、
目的の動作に必要とされる最低限の力を使っている状態
かな。
0(ゼロ)ではないけど、0に近い状態。
1/n(n→∞)みたいな感じです。
限りなく0だけども、0ではない。
0に近づいている運動の様子とも言えるような。
こんなことを考えていたら、
常々疑問に思っていた「平和」という言葉。
そもそも、平和という状態とは?
すぐに思いつくのが、戦争でない状態。
じゃあ、戦後日本は平和なのでしょうか?
自殺者が年間3万人。未遂や自殺願望を持った人を含めたら
きっと大変な数になるでしょう。
これを平和と呼べるのか?
平和とは何処をどう見渡しても、生死に関わるような状態でないこととすると、
私は平和というものを体験したことが無いといえるでしょう。
ということは、平和という言葉を使う時、知らない状態について述べているということになります。
経験したことの無い、理想あるいは幻想についての表現です。
で、先程思いついたことから、
平和といわれる状態に近づいている様子のことを平和
とするしかないだろうとなります。
裏を返せば、平和には近づくだろうけれども、決して平和にはならない
ということを孕んでいるわけです。
極限の考え方です。
いみじくも桜沢氏如一氏の陰陽の定義にも、
完全な陰、完全な陽は無い
とあります。
■7号食の体験
一度でも体験できれば、あるいは別の事象であっても本質的に同じであれば、
ひとつの基準が出来上がります。
それがその人の定義になるわけです。
脱力にしても平和にしても、それらしいことに肉薄できれば良いのですね。
その視点を用いると、7号食というのは
その人にとって最も快適な状態に肉薄する行為
といえます。
完全無欠な快適さは知らなくても、それに限りなく近い状態を知る事ができるわけです。
結果、獲得した感覚は死ぬまで覚えているので、ちょっとした異常にも気づきます。
また、体も何らかの異常を身をもって教えてくれます。
■否定の繰り返し
脱力、平和、7号食を考えてみました。
どれも、現状の否定をしているわけですね。
そうしないと、飛躍できませんから。
ある状態に向かうということは、現状の否定を繰り返すこと。
その先には理想のみがあって、ゴールは無い、ということか。
(ange)
楽器演奏の時のみならず、運動する時によく言われるのが「脱力」。
例えば、箸を使う時にも脱力はしているでしょう。
力んでいては、上手に食べ物を口に運べないです。
でも、この箸を持っている状態は本当に脱力なのでしょうか?
曲がりなりにも箸という物を持っているのですから、
完全に力が抜けている状態とはいえません。
これが難しいところ。
似たような表現にリラックスというのがあります。
これも、イメージしてみてもピンときません。
つまり、脱力という状態を知らないのです。
本当に脱力してするのは、死んだ時くらいではないかと思います。
それでは解決にならないので、もう少し近い状態はというと、
寝ている時でしょうか。
あるいは、体験しにくいですが、無重力状態。
どちらも地球上で運動するには不都合です。
何が言いたいかといいますと、
言葉で表現しても、それはその人にしかわからないイメージであるということです。
脱力に関してもそうです。
運動しながら、脱力するって?
敢えて定義してみると、
目的の動作に必要とされる最低限の力を使っている状態
かな。
0(ゼロ)ではないけど、0に近い状態。
1/n(n→∞)みたいな感じです。
限りなく0だけども、0ではない。
0に近づいている運動の様子とも言えるような。
こんなことを考えていたら、
常々疑問に思っていた「平和」という言葉。
そもそも、平和という状態とは?
すぐに思いつくのが、戦争でない状態。
じゃあ、戦後日本は平和なのでしょうか?
自殺者が年間3万人。未遂や自殺願望を持った人を含めたら
きっと大変な数になるでしょう。
これを平和と呼べるのか?
平和とは何処をどう見渡しても、生死に関わるような状態でないこととすると、
私は平和というものを体験したことが無いといえるでしょう。
ということは、平和という言葉を使う時、知らない状態について述べているということになります。
経験したことの無い、理想あるいは幻想についての表現です。
で、先程思いついたことから、
平和といわれる状態に近づいている様子のことを平和
とするしかないだろうとなります。
裏を返せば、平和には近づくだろうけれども、決して平和にはならない
ということを孕んでいるわけです。
極限の考え方です。
いみじくも桜沢氏如一氏の陰陽の定義にも、
完全な陰、完全な陽は無い
とあります。
■7号食の体験
一度でも体験できれば、あるいは別の事象であっても本質的に同じであれば、
ひとつの基準が出来上がります。
それがその人の定義になるわけです。
脱力にしても平和にしても、それらしいことに肉薄できれば良いのですね。
その視点を用いると、7号食というのは
その人にとって最も快適な状態に肉薄する行為
といえます。
完全無欠な快適さは知らなくても、それに限りなく近い状態を知る事ができるわけです。
結果、獲得した感覚は死ぬまで覚えているので、ちょっとした異常にも気づきます。
また、体も何らかの異常を身をもって教えてくれます。
■否定の繰り返し
脱力、平和、7号食を考えてみました。
どれも、現状の否定をしているわけですね。
そうしないと、飛躍できませんから。
ある状態に向かうということは、現状の否定を繰り返すこと。
その先には理想のみがあって、ゴールは無い、ということか。
(ange)