熱き傘寿野郎の世相糾弾日記

わが喜寿野郎の実像ご紹介

 

この12月は誕生月、昭和912月生まれ、当時は昭和5年の世界大不況から戦時色強めシナ事変勃発へ突き進む時代に生まれた事になります。当年76歳、今日掲載する写真昭和11年春、生後13カ月の頃名古屋城内堀欄干手すりに止まっての撮影の主人公が現“喜寿院世相毒舌糾弾居士”のあり日の姿となります。

 

 

こんな写真、昔は部屋の鴨居の上に四つ切写真が掛けて有る御家が多かったと思いますが、この写真記憶では戦前我が家も掛けて有りました。戦時下昭和19年末家財道具疎開させる荷物に入っていたのでしょう、色あせボロボロで出てきました。それをスキャナーで保存したもので、撮影は写真好きの伯父がフジカメラベスト判で撮影した事を聞きました。

 

 

我が家は名古屋城の西10分ぐらいの商店街の中心地、のどかな小川に下水管を埋め立て幹線道路にし、市電が築港まで開通、初めてボギー車(チンチン電車の2倍)が走り始めたと聞く。

 

昭和12年には大日本太平洋博覧会が港で開催され大量輸送機関として市電はなくては成らない都市交通として発展、我家の前は市電の停留所で、朝一番電車で目覚める生活環境でした。

 

名古屋城は我家2階東の窓より全景が見れる約1Kmぐらい大きな建造物はなく名古屋城は生活の一部で戦前の良き遊び場、お城へは木戸で大人のお尻にくっ付いて入っていく、何時も薩摩守忠則今流ではフリーパス。良き遊び場夏は昆虫採取の我家の内庭と利用させて頂きました。

      当然空襲は名古屋城焼失と同じ日、学童としての子供時代は戦前と  終戦直後と現在の表現で言えば不登校児童同然、ほとんど勉強する機会はありませんでした。

     毒舌糾弾居士もこの時代の申し子でしょうか。今では考えられない様な人生経験をして来ています。機会があれば又投稿致します。

 


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