When words leave off music begins.
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Vitali Chaconne [Arthur Grumiaux]
当社は、播磨国姫路から上野国前橋に転封された松平氏と共にある神社で、藩士から武神として厚く信仰された。社伝によると、寛文七年(1667)に藩士が姫路の男山に社殿を建てたことから男山八幡とよばれ、藩主から二石の供料を下賜され、祭祀は井上蔵人なる者が行ったと伝える。
前橋藩主松平朝矩が姫路から前橋に転封されたのは、寛延二年(1749)のことである。この時、前橋城は利根川の乱流により一部破壊されていたので、明和五年(1768)幕府の許しを得て川越城に入居し、同六年(1769)前橋城を廃城とした。最後の藩主松平直克は、居城を川越城から本来の前橋に移すことを希望し、慶応元年(1865)に前橋城が完成するに伴い、前橋へ移転した。しかし、この時期、前橋藩二〇万七五六五石のうち比企郡に六万石余が残ったことから、これを支配するため、松山陣屋が置かれた。
このような藩の事情から当社も前橋・川越と次々遷座を迫られ、最後に松山陣屋(松葉町一丁目)に落ち着いたわけである。社殿は初め松山陣屋内の五番銃隊のそばに祀られたが、明治四年の廃藩置県後、陣屋が廃されたため、同じ陣屋内の鉄砲場跡に移され、現在に至っている。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
松山陣屋跡
東松山市指定史跡(昭和三十六年三月八日指定)
幕末における東松山市域の領地は、藩領、旗本領、幕府直轄領として領有され、市域の約半分の領地が川越藩松平大和守家直克に管理されておりました。
松平大和守家は、寛延二年(一七四九)の国替えにより、姫路から前橋藩主となりましたが、度重なる利根川の氾濫による前橋城の損壊により、明和四年(一七六七)松平朝矩のとき川越藩に移転しました。
川越藩の移転から一〇〇年後の慶応三年(一八六七)、藩主松平直克のとき、四年の歳月をかけて再建した前橋城に帰城することとなり、武蔵国比企郡を中心に前橋藩の飛び地として、約六万二千石余の領地が残ったため、これらの領地を治める必要から、慶応三年(一八六七)「松山陣屋」が置かれました。現在の松葉町一丁目のほぼ全域に渡る大規模なもので、幕末の動乱期を背景として主要施設は、堀と土塁に囲まれた堅牢な構えとなっています。
陣屋は、大政奉還後の明治四年(一八七一)の廃藩置県により、建設からわずか四年でその役割を終えることになりますが、当地方発展の礎となりました。
藩領はその後、前橋県、群馬県、入間県、熊谷県を経て明治九年(一八七六)現在の埼玉県に編入されることになります。
平成二十五年六月 東松山市教育委員会