前回の南雲さんの記事を受けて、思ったこと。
どうやら二次障害に関しては、三つの幻想があるなあ、ということです。
まとめてみますね。
1 二次障害にならないためにこそ、早期診断早期介入が必要である。
2 二次障害になったら医者に診てもらわなくてはいけない。
3 二次障害はなってはいけないもの。
まず1。
発達障害者支援法が施行されて13年経ちました。当初の理念は、発達障害のある人が不登校や精神疾患などの二次障害になることなく、社会で活躍するための措置を執ろうということ。そのために各校に支援級が設けることを目指してそれは実現してきました。
けれどもその結果はどうなったでしょう?
「発達障害者の人には才能があるんだ!」というシュプレヒコールも大きかったあの時から13年、不登校はなくなっていません。むしろ、一部の支援者により奨励されています。一方で支援によって大きく花開いた才能のある人、というのは寡聞にしてまだ聴きません。逆に支援の外で才能を花開かせている人は見られますが。講演活動に才能を発揮されている南雲さんもそのお一人でしょう。
一方で早期診断早期介入があったがゆえに、「昔なら」苦労しつつも世の中に出られた人たちが福祉の世界の中での生涯に誘導されているように見えます。このあたりの懸念を私は『発達障害、治るが勝ち!』という本にまとめましたが、特別支援教育が不登校を防ぎ才能を開花するどころか、そのまま福祉事業所へのベルトコンベアになっているのです。
そして2。
南雲さんは自傷の恐れがあったことから、これ以上自分を傷つけないように自分で精神科への入院を決めたと言うことですが、こうした急性期には医療の助けは必要なのかもしれません。けれども南雲さんが気づいたとおり、医療も(そしておそらく福祉も)本来その人が持っている力を押さえ込んで症状を抑える。ならば二次障害に対応するのが本当に医療であるべきなのか? という疑問がわきます。
そして3。
先週の日曜日、愛甲修子さん(臨床心理士・言語聴覚士『愛着障害は治りますか?』著者。『発達障害は治りますか?』共著者)を訪ね、おしゃべりしてきました。その中で私は「二次障害だけが治るということは可能でしょうか? どうも私が見たところ、二次障害が治ってしまう人は一次障害も治ってしまうし、逆に二次障害すら治らない人が圧倒的に多いのですが」と言ったら、納得のいく答えがいただけました。
つまり、二次障害は押さえ込むより活用しなきゃいけないもののようです。
今の私は、早期診断早期介入が二次障害を防ぐとは全く信じていません。
むしろ二次障害回避原理主義(著書の中で私が作った造語です)のために、発達凸凹のお子たちから生き生きとした生涯が失われつつあることを危惧しています。
そしてどうなんでしょう?
二次障害が起きたとき、医療を頼るのは正しいことなんですかね?
2018年11月28日
浅見淳子
どうやら二次障害に関しては、三つの幻想があるなあ、ということです。
まとめてみますね。
1 二次障害にならないためにこそ、早期診断早期介入が必要である。
2 二次障害になったら医者に診てもらわなくてはいけない。
3 二次障害はなってはいけないもの。
まず1。
発達障害者支援法が施行されて13年経ちました。当初の理念は、発達障害のある人が不登校や精神疾患などの二次障害になることなく、社会で活躍するための措置を執ろうということ。そのために各校に支援級が設けることを目指してそれは実現してきました。
けれどもその結果はどうなったでしょう?
「発達障害者の人には才能があるんだ!」というシュプレヒコールも大きかったあの時から13年、不登校はなくなっていません。むしろ、一部の支援者により奨励されています。一方で支援によって大きく花開いた才能のある人、というのは寡聞にしてまだ聴きません。逆に支援の外で才能を花開かせている人は見られますが。講演活動に才能を発揮されている南雲さんもそのお一人でしょう。
一方で早期診断早期介入があったがゆえに、「昔なら」苦労しつつも世の中に出られた人たちが福祉の世界の中での生涯に誘導されているように見えます。このあたりの懸念を私は『発達障害、治るが勝ち!』という本にまとめましたが、特別支援教育が不登校を防ぎ才能を開花するどころか、そのまま福祉事業所へのベルトコンベアになっているのです。
そして2。
南雲さんは自傷の恐れがあったことから、これ以上自分を傷つけないように自分で精神科への入院を決めたと言うことですが、こうした急性期には医療の助けは必要なのかもしれません。けれども南雲さんが気づいたとおり、医療も(そしておそらく福祉も)本来その人が持っている力を押さえ込んで症状を抑える。ならば二次障害に対応するのが本当に医療であるべきなのか? という疑問がわきます。
そして3。
先週の日曜日、愛甲修子さん(臨床心理士・言語聴覚士『愛着障害は治りますか?』著者。『発達障害は治りますか?』共著者)を訪ね、おしゃべりしてきました。その中で私は「二次障害だけが治るということは可能でしょうか? どうも私が見たところ、二次障害が治ってしまう人は一次障害も治ってしまうし、逆に二次障害すら治らない人が圧倒的に多いのですが」と言ったら、納得のいく答えがいただけました。
つまり、二次障害は押さえ込むより活用しなきゃいけないもののようです。
今の私は、早期診断早期介入が二次障害を防ぐとは全く信じていません。
むしろ二次障害回避原理主義(著書の中で私が作った造語です)のために、発達凸凹のお子たちから生き生きとした生涯が失われつつあることを危惧しています。
そしてどうなんでしょう?
二次障害が起きたとき、医療を頼るのは正しいことなんですかね?
2018年11月28日
浅見淳子
自分の障がいも受容して、何が苦手かわかるようになりました。
医療が必要か不必要かは、その子によるでしょうから見極めが大事かと思います。
絶対に必要とも不必要とも言えないと思います。
自閉の世界感は本人なりに周りを解釈したものでどっからどこまでが一次障害か厳密に分けることはできない。周りとの折り合いが悪くなった二次障害といわれる気がするけど、一次でも周りと折り合いの悪い性質はあるからあんまり意味ない。
ストレスは苦しくても楽しくても炎症があっても体内の物質変化という点では同じといいます。身体の状態からどうするか考えた方がいい気がします。我が家に関しては、専門知識を持って介入してもらわないと二次障害になるは信じず、身体の状態を含め周りが協力してないと状況は悪くなるを意識しています。早期療育や医療につなげてもずっと腫れ物に触るような扱いを受けたらつらい。爆発してしまったときのアリバイ的な療育してたコメントは虚しい。
思ったのは、鬱や不登校が二次障害だとしたら、ギョーカイの一次障害とはなんなのだろう?です。そもそもで、話題逸れているようですみません。
特性です。ありのままでいいです。
ありのままでいいものがなぜ、障害なのか?
早期支援で、別コースにすることで、うまくいく子ももちろんいると思います。でも、自分で工夫できるかもしれない子もいるはずなのに、コースをわけるだけで二次障害を防げます、そう支援しているつもりになっているように思えます。
実際には、不登校になる子は増え続けている。普通級でも、支援級でも。
うちも体調不良から不登校ぎみになったとたん、発達障害の小児科を、総合病院の小児科医に薦められました。どういうことでしょう?
ここ数年の未就学児の自治体の健診は、早期診断の流れで、本来の健診より発語などが重要視され、少しでも落ち着きがないこどもを見逃さないようにしている感じがして、違和感がありました。親のいうことをちゃんときいて、大勢の人がいるところでは静かにして待っている、そんなこどもばかり、というのがおかしいと思うのは私だけでしょうか?
逆に親が違和感に気づいて医療を求めると、なかなか予約がとれない。早期診断が重要なら、その方が問題あると思うのですが。