日蓮大聖人
■生まれる
1222年2月16日・安房国長狭郡東条小湊の漁村に生れた■学ぶ
12歳、近所の清澄寺にて天台、真言を学ぶ
鎌倉へ出て禅宗、浄土宗の教義を学ぶ
比叡山に登り宗教の奥義を極め
京都、奈良、高野山等を回り研鑽に努めた
■立宗
1253年4月28日32歳
故郷に帰り、清澄寺にて題目を唱え、諸宗の邪義を破して立宗の第一声を放った
鎌倉へ出て名越の松葉ヶ谷に庵室を結び法華経弘めた
当時の世相は天災があいつぎ、飢饉、疫病と民衆の困苦は募るばかり。日蓮大聖人は人々の不幸に陥る根本原因は邪宗教にあると見抜かれて、1260年に立正安国論をしたため、宿屋入道を仲介に、執権・北条時頼に改宗を勧めた
■政府・諸宗悪徒からの弾圧
幕府はこれを用いないのみか、諸宗の悪徒は結束して日蓮の草庵に放火。難を逃れた日蓮大聖人を捕らえ小豆の伊東に流罪
1261年5月12日より3年間を伊東に過ごした
赦免になり鎌倉へ帰り。ついで故郷の安房へ帰省中、小松原で地頭・東条左衛門尉信景に襲撃され、弟子は殺害され、日蓮大聖人もまた額に傷を負わされた
■弾圧の中で布教する
1268年、立正安国論の予言が的中して蒙古国より書状が到来。日蓮大聖人はまた鎌倉へ上り、松葉ヶ谷にあって、迫害の中弘法に努め、十一通の書状をしたためて、政府の役人と高僧に警告を発した
幕府は日蓮大聖人の警告状には耳もかさず、各宗派は厳然たる日蓮大聖人の書状に接するが、公然と対論することもできなかった
■斬罪されそうになるが、佐渡へ島流しに変更
1271年邪宗は、幕府と結託し日蓮大聖人を捕らえて竜の口に送り、9月12日夜、首をはねようとした。その首謀者は平左衛門であった。しかし不思議な事件によりついに首を切ることができず、斬罪はとりやめとなり、佐渡へ島流しと決定。これより4年間、佐渡島で不自由な生活を送る。佐渡でも数百人の僧侶が塚原の三昧堂へ押し寄せたり、たえず迫害を加えられた
1274年に日蓮大聖人は赦免され、鎌倉へ帰られた
■身延山へ入る
御弟子・日興上人の誘導で身延山へ入られた。これより9年の間、身延山にあって御弟子の養成と折伏弘通の指揮をとられ、各地には弟子が散在して折伏弘通に努めた
■大法難を機会に大御本尊建立
1279年5に熱原の大法難が勃発し、信者三人が断罪、十七人が追放された。これを機会に日蓮大聖人は、弘安二年十月十二日、本門戒壇の大御本尊を建立され、出世の本懐を遂げられた
■一切の化導を日興上人に譲り、後入滅
弘安五年(1282)日蓮大聖人は大御本尊と共に、一切の化導を日興上人にお譲りになり、広宣流布、本門の戒壇の建立は未来に遺命せられ、弘安五年十月十三日、武州池上邸に御歳六十一歳をもって、後入滅あそばされたのである
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