昭和20年8月6日、広島に原子爆弾が落とされたあと、大野陸軍病院と西国民学校に収容された負傷者は1500人はいた。毎日10人、20人と息絶えていった。300人は死んだか、、遺体は屋外で焼いた。身元不明者も4、50人いた。遺骨は今回の水害で流された。広島市から20キロも離れた村でこんなにも多くの被爆者が死んでいった。
村人は交代で勤労奉仕に出て、給食、看護、遺体の運搬、焼却などを手伝った。9月中頃になるお、重態の人はほとんど亡くなり、かいほかに向かった人は身内に引き取られ、患者の数も少なくなってきた。
そこで、西国民学校の臨時救護所は9月15日に閉鎖、残った患者50人は、大野陸軍病院に移した。
原爆患者は、中央並びの本館、試験室、娯楽質、中央病棟に収容。
ところが、山津波は病院の中央を突き抜ける形で襲ってきた。中にいた原爆患者は逃げる間もなく水に呑まれた。大野陸軍病院での水害の死者は職員と患者合わせて156人、このうち約100人は原爆患者だった。156人の他に、大学の調査班や患者の付き添い家族で亡くなった過多は約20人
原爆患者は、火傷や放射線障害で1ヶ月以上苦しんだあげく、水害で命をおとしました。何のため治療を受け、何のため闘病したのか
「俺は原爆で生き残ったのだ。」と言って自分を励ましていた患者もいましたが、その患者も海まで流され亡くなりました
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