晩秋は、春の花の艶やかさもなく、秋の紅葉の美しさもない。ただススキが風にたなびく。枯れきった大自然の行き着いた陰の極である。
同時に、これから動き出そうとするパワーをはらんだ静止の境地、陽の始めである。
それらはまったく紙一重。背中合わせにある両極。
静止中には新たな何かを秘め、すでに未来の方向性は決まっている。
時至れば発し、時至れば枯れるのみ。
利休の師匠・武野紹鴎は、枯れきった大自然の風情こそ、本当の侘びの世界であり、そこに茶の境地があると求めた
「見渡せば、花も紅葉も、なかりけり、浦のとまやの、秋の夕暮」という藤原定家の一首は、武野紹鴎が徹底した世界である
利休はこの一首に込められた世界を足場に、さらにこの消極的な世界から抜けだし、生命あふれた侘びの世界に生きようとした
「花をのみ、待つらん人に、山里の、雪間の草の、春を見せばや」という藤原家隆の一首を挙げ、利休はこの歌の心こそ侘び心そのもの、茶道の最高の美の世界であるとした
そして侘び寂びの本質、これこそ茶の心であると一首の歌を挙げた
それはやはり
「見渡せば、花も紅葉も、なかりけり、浦のとまやの、秋の夕暮」
という一首である
つまり、二極点の融合と、それによって誕生したのが、美的判断基準である。それを侘び寂びというのである
この両極を持たねば茶道は成り立たない。茶道はこの広大無辺な大きな場を歩む大道。それは頂上も見えなければ、終局も知らない無限の大道。自ら師を求め、心にそのよりどころを求め、捨て身になって修行し、実践して、はじめて道がつけられるのである。それは芸とか術といったものではなく、私ども自身で築き上げあげる道そのものなのである。