■もともと藤原氏は神祇官である中臣を姓としていた。大化の改新の功として中臣鎌足の死に際して藤原の姓と大織冠の位を賜った
■鎌足の子・藤原不比等は、はじめ藤原の宗家を継がなかった。従兄弟の藤原意美麻呂を一族の長に立てた
後、不比等は相当な権力を握り、意美麻呂を中臣の姓にもどさせた
つまり、自らの子孫にしか、藤原姓を名乗らせないと決意したのだ
■藤原不比等には四人の男子があった
★長男・武智麻呂
★次男・房前(ふささき)
長女・宮子【文武天皇夫人】
次女・ながこ【長屋王妻】
三女・光明子【聖武天皇皇后】
★三男・宇合(うまかい)
★四男・麻呂
■長屋王という人物
天武天皇の孫
父は壬申の乱の英雄・高市皇子(たけちのみこ)で、草壁皇子の後の皇太子だったが、二人とも薨去
即位は実現しなかった
皇統は草壁皇子の妃だった阿閉皇女(あべのひめみこ)に継承され、皇太子妃の即位という異例な事態だった。元明天皇である
持統天皇、元明天皇と女帝が続く
草壁皇子と元明天皇の間には
★後の文武天皇
★氷高内親王(後の元正天皇)
★吉備内親王
がいた
長屋王邸はこの二人の内親王の邸宅でもあり、長屋王が転がりこんだのである。長屋王は吉備内親王を妃とする
長屋王は不比等の娘(ながこ)をも妻にして姻戚関係を結んでいたからか、不比等の娘宮子の生んだ皇子が即位して聖武天皇となると、長屋王は左大臣の位に登った
■神亀6年2月、長屋王を誣告(虚偽の訴え)する者があった
「長屋王は左道(呪術)を学んで、国家を転覆しようとしている」という
呪術的な力で天皇家を呪おうという意図があるという告発だ
ただちに長屋王の邸宅は包囲された。
全体の作戦の指揮をとったのは
藤原宇合だった。藤原一族のうちもっとも長屋王と親しかった人物だ
不和、鈴鹿、愛発の三関は、逃亡を防ぐため封鎖され、もはや逃げ道はない。長屋王は妃の吉備内親王とわが子もろとも自害してはてた
だが多くの人は、長屋王が冤罪であることを知っていた。長屋王のもう一人の妻で藤原出のながこや、ながこの生んだ子には何のお咎めはなく、密告者には外従五位下の位を授けられた。あきらかにこの密告が仕組まれたものだった証拠である
■神亀6年は天平元年と改元された。長屋王との関わりを忘れるためだ
この年は、藤原一族の光明子が
聖武天皇の皇后に立てられた
臣下の娘が皇后になるのはこれが最初である。それまでは皇后は皇族に限るという不文律があったのだ
もし、、長屋王が存命なら異議を唱えていたところだ
♦️長屋王抹殺の陰謀には、この光明子を皇后に立てるため、という動機があったのだ
■長屋王の死後、8年経った天平9年
疫病が大流行した。天然痘である
社寺に命じて加持祈祷
各地の長官には魑魅魍魎が入ってくるのを防ぐ「道あえの祭」を励行させた
だが、そんなことで疫病の勢いは止まらない
藤原四兄弟のうち最初に死んだのは
房前。4月17日
次いで麻呂。7月13日
次いで武智麻呂。7月20日
次いで宇合。8月5日
こうして長屋王抹殺に一役かった
藤原四兄弟はことごとく疫病によって死亡した
人々は長屋王の祟りと噂した
■★長屋王の一族の遺骸は、都の外で焼き、砕いて川や海へ流された
★長屋王の妃で天皇の娘・吉備内親王の遺骨だけは丁重に葬るように詔勅が出た
★長屋王の遺骨は土佐国へ運ばれ埋められたのだが、祟りで住民たちが死にはじめた。住民の訴えによって長屋王の遺骨はあらためて紀州奥の島(有田市沖ノ島とされる)に埋められた