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るるの日記

なんでも書きます

古事記 気比神宮の歴史

2021-02-10 19:03:08 | 日記
ここに【言ほき】をまをさく
「恐(かしこ)し。命(みこと)のまにまに易(か)へ奉(まつ)らむ」とまをしき

また其の神のりたまはく
「明日(あす)の旦(あした)、浜にいでますべし。易名(かへな)の【幣(いやしろ)】献(たてまつ)らむ」
とのりたまひき

故、其の旦(あした)、浜にいでませる時、鼻やぶれたる入鹿魚(いるか)既に一浦によれり。ここに御子、神に白さしめて云りたまはく「我に御食(みけ)の魚を給へり」とのりたまひき

故、また其の御名を称へて
【御食津大神(みけつおほかみ)】と号(なづ)けき故、今に【気比大神(けひのおほかみ)】といふ

また其の入鹿魚の鼻の血臭かりき。故、其の浦を号けて血浦といひしを、今は都奴賀(つぬが)といふ

★言ほき
言葉で祝福する

★幣(いやしろ)
※謝意を表すしるしの贈物

★御食津大神
この神を祀る海人部らが海産物を朝廷に貢上したことが背景にあって、朝廷側からつけられた名

★気比大神
け→食
ひ→霊

■神託を受けて建内宿禰は、その神を祝福して「恐れ多いことです。ご神託のとおりに御子の名を変えましょう」と申し上げた

するとその神は「明日の朝、浜にいらっしゃい。名を変えたしるしの贈物を差し上げよう」といわれた

翌朝、皇太子が浜にお出ましになると、鼻の傷ついたイルカが浦いっぱいに集まっていた

御子は神に申し上げた
「大神は私に食料の魚を下されたのですね」

それゆえ、その大神の名前をほめ称えて御食津大神(みけつおおかみ)と名づけた。そして今では気比大神と呼んでいる

また、浜に打ち上げられたイルカの鼻の血が臭かった。それゆえ、その浦を名づけて血浦といったが、今は角鹿(つぬが)と呼んでいる


古事記・建内宿禰の夢に気比神宮の神あらわる

2021-02-10 18:23:54 | 日記
建内宿禰命(たけしうちのすくねのみこと)、其の太子(ひつぎのみこ)を率(い)まつりて、【禊(みそぎ)】せむとして、淡海(あふみ)及(また)【若狭国】(わかさのくに)を経歴(へめぐ)りし時、【高志前(こしのみちのくち)の角鹿(つるが)】に仮宮を造りて坐さしめき

ここに其の地(ところ)に坐す、【伊奢沙和気大神之命(いざさわけのおほかみのみこと)】、夜の夢に見えてのりたまはく
「吾(わ)が名をもちて御子の御名に【易(か)へまく欲し】」とのりたまひき

★禊
忍熊王の反逆事件による穢を祓うため。皇太子の禊に建内宿禰が随行したのは、男巫女の性格にによる。古事記の建内宿禰は神事のみに関係している

★若狭国
福井県南部

★高志前(こしのみちのくち)の角鹿(つぬが)
※高志前→越前国、福井県中・北部
※角鹿→福井県敦賀市

★伊奢沙和気大神之命(いざさわけのおほかみのみこと)
※福井県敦賀市角鹿の気比神宮の祀神
※神の下に尊称の命をつけた例は少ない

★易(か)へまく欲し
※名の交換と考えてもよいが
神が自分の名を皇太子に差し上げると解釈する
※地方神が朝廷と密接な関係を結び、その神格を高めようとする意図と思われる

■建内宿禰命は、皇太子を連れて禊をしようと、近江および若狭国を巡歴した時、越の道の入口にある角鹿(つぬが)に仮の宮殿を作って、そこに皇太子に住んでいただいた

ある日この地においでになる
伊奢沙和気大神命
(いざさわけのおおかみのみこと)
が建内宿禰の夜の夢に現れ
「私の名を御子に差し上げて、御子の名を変えたいと思う」といわれた

古事記・神功皇后・皇位争奪・戦いの結果は必ず歴代の嫡流によって皇位継承される

2021-02-10 17:39:19 | 日記
追ひ退(そ)けて、山代に到りし時、還り立ちて、おのもおのも退かずて相戦ひき

ここに建振熊命(たけふるくまのみこと)、【権(たばか)りて】、「息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)は既に崩(かむあが)りましぬれば、更に戦ふこと無し」と云はしめて、即ち弓絃(ゆづる)を絶ちて、いつはりて帰服(まつろ)ひぬ

ここに其の将軍【既に詐(いつは)りを信(たの)みて】、弓をはづし兵(つはもの)を蔵(おさ)めき

ここに【頂髪(たきふさ)】の中より【設(ま)けし】弦(つる)をとりいだして、更に張りて追ひ撃ちき

故に【逢坂(あふさか)】に逃げ退きて、対(むか)ひ立ちてまた戦ひき。ここに追ひせめて敗りて、【沙沙那美】にいで、ことごとに其の軍を斬りき

ここに其の忍熊王、伊佐比宿禰と共に追ひせめらえて、船に乗り【海】に浮びて歌ひていはく

「【いざ吾君(あぎ)】
振熊が
痛手負はずは
【にほどり】の
淡海(あふみ)の海に
【潜(かづ)きせなわ】」

とうたひて、即ち海に入りて共に死にき

★権(たばか)りて
計画する、計略をめぐらす

★既に詐(いつはり)を信(たの)みて
※すっかり詐りを信じて

★頂髪(たきふさ)
髪をあげて束ねた所

★設(ま)けし
あらかじめ用意した

★逢坂(あふさか)
京都府と滋賀県の境の逢坂山

★沙沙那美(ささなみ)
琵琶湖西南岸の一帯

★海
琵琶湖

★いざ吾君(あぎ)
※いざ→誘う
※あぎ→相手に親しんで呼びかける
※伊佐比宿禰

★にほどり
※『かいつぶり』という鳥
※水によく潜る、水上をよく泳ぐ
※淡海の枕詞とみる

★潜(かづ)きせなわ
かづき→潜くの名詞系
せ→「さ」変動詞「す」の未然形
な→自己の願望を表す助詞
わ→感動の助詞

■神功皇后・皇太子軍は忍熊王(おしくまのみこ)の軍勢を追撃し山城まで行った時、敵軍は陣容を立て直して、敵味方しりぞぐこともなく互いに戦った

神功皇后・皇太子軍の将軍・建振熊命(たけふるくまのみこと)は計略をめぐらして、「息長帯日売命(おきたがたらしひめのみこと)は既に亡くなりましたので、もう戦う必要はない」と言い振らさせて、即座に弓の弦を断ち切り、詐りの降服をした

敵の将軍は、すっかりその詐りを信じて弓から弦を外し武器を収めてしまった。この時、皇太子方は髪の中から用意しておいた弦を取り出して、再び弓を張って追撃した

敵軍は逢坂(おうさか)に逃げ、ここで敵味方戦った。そして皇太子方は敵軍を追撃して破り、近江の楽浪(さきなみ)に出て、残らず敵軍を斬ってしまった

忍熊王(おしくまのみこ)は、将軍の伊佐比宿禰(いさひのすくね)とともに追いつめられて、船に乗って湖上に浮かんで、歌った

「いざ吾君(あぎ)、、さあ我が将軍よ、振熊の与える痛手なんか負わないでよ、近江の湖に潜ってしまおうよ」
と歌って、ただちに湖に身を投げ、二人とも死んでしまった




古事記・神功皇后・皇位争奪・戦い開始

2021-02-10 16:29:56 | 日記
忍熊王(おしくまのみこ)、【其のわざを畏まず】て、軍(いくさ)を興して待ち向へし時、喪船に赴きて【空船(むなふね)】を攻めむとしき。ここに其の喪船より軍を下ろして相戦ひき

この時、忍熊王、難波の【吉師部(きしべ)】の祖・伊佐比宿禰(いさひのすくね)をもちて将軍(いくさのきみ)とし、太御子(ひつぎのみこ)の御方は、丸邇臣(わにおみ)の祖・難波波根子建振熊命(なにはねこたけふるくまのみこと)をもちて将軍としたまひき

★其のわざ畏まず
香坂王が猪に食い殺されるという凶兆を見ても、恐れ慎むこともなく

★空船(むなふね)
軍勢の乗っていない空の船。喪船

★吉師部(きしべ)
朝鮮系の氏族らしい

■忍熊王(おしくまのみこ)はこの凶兆に恐れ慎むこともなき、軍勢を集めて皇后の一行を迎え撃ったが、その時その喪船に向かって行き、軍勢の乗っていないはずの空船を攻めようとした

すると皇后方はその喪船から兵士を降ろして互いに戦った

忍熊王(おしくまのみこ)は、難波の吉師部(きしべ)の祖先の伊佐比宿禰(いさひのすくね)を将軍とし
皇太子の方は丸邇臣(わにのおみ)の祖祖先の難波根子建振熊命を将軍(なにわねこたけふるくまのみこと)となさった

古事記・神功皇后・皇位争奪戦・香坂王と忍熊王

2021-02-10 15:55:25 | 日記
かく上りいでます時、【香坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)】聞きて、待ちとらむと思ひて、【斗賀野(とがの)】に進みいでて、【うけひがり】をしき

ここに香坂王くぬぎにのぼりますに、ここに大きなる怒猪(いかりい)いでて、其のくぬぎを堀りて、即ち其の香坂王を咋(く)ひ食(は)みき

★香坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)
応神天皇異腹兄

★斗賀野(とがの)
大阪市北区兎我野町付近説
神戸市灘区の都賀川流域説

★うけひがり
事の成否・吉凶を占うために行う狩り

■皇后が大和へ上る時、皇太子の異腹の兄にあたる香坂王(かごさかのみこ)、忍熊王(おしくまのみこ)は皇太子の訃報を聞いて、皇后を待ちうけて殺そうと思い、斗賀野に進出して、この謀反の成否を占い誓約狩(うけいがり)をした

香坂王がくぬぎに登っていると、そこに大きな怒り狂った猪が出てきて、そのくぬぎを掘り倒し、たちまちその香坂王を食い殺してしまった