フリーのケアマネ・本間清文氏の著書である。要介護者自身によるこじれ、介護家族によるこじれ、市民・社会によるこじれ、市場原理によるこじれ、介護保険制度によるこじれ、保険・福祉・医療によるこじれというふうに、あらゆる方面からこじれる原因を見ている。介護職として、一度じっくり考えてみなければならないと感じた箇所があった。介護家族によるこじれの章に書かれていた男性介護者についてである。
医療や看護と比べ、ときに誰にでもできると揶揄される「介護」。その誰にでもできるはずの介護が原因で、なぜ殺人や心中が起こるのか。「医療地獄」「看護地獄」という言葉はないのに、なぜ「介護地獄」という言葉があるのか。なぜ「看護殺人」という言葉がないのに「介護殺人」という言葉があるのか。そこにある介護特有の難解さを、多くの男性たちは理解できていない。だから、男性的な価値観にもとづく社会では、いつまでも「介護」は次元の低いものとしてみなされる傾向がある。介護をなめてかかるから、手痛いしっぺ返しをくらう。
これは介護職員にもあてはまることに思える。自分たちの仕事を専門職、技術のいる仕事と思っている介護職は、一見、介護を甘くみている男性介護者とは正反対のように見えるかもしれない。だが、実はこれらは表裏一体ではないのか。介護職員は本当は介護など誰にでもできる仕事だと思っている。自分がやっているのがよい証拠である。だがそれを認めることは屈辱なのだ。だから、専門職だ、誰にでもできる仕事ではないといわざるを得ないのだ。そういった歪んだコンプレックスが介護現場をこじれさせている。と私は思ったのです。
本間清文さんはブリコラージュの最新号(5月号)にも出ています。
医療や看護と比べ、ときに誰にでもできると揶揄される「介護」。その誰にでもできるはずの介護が原因で、なぜ殺人や心中が起こるのか。「医療地獄」「看護地獄」という言葉はないのに、なぜ「介護地獄」という言葉があるのか。なぜ「看護殺人」という言葉がないのに「介護殺人」という言葉があるのか。そこにある介護特有の難解さを、多くの男性たちは理解できていない。だから、男性的な価値観にもとづく社会では、いつまでも「介護」は次元の低いものとしてみなされる傾向がある。介護をなめてかかるから、手痛いしっぺ返しをくらう。
これは介護職員にもあてはまることに思える。自分たちの仕事を専門職、技術のいる仕事と思っている介護職は、一見、介護を甘くみている男性介護者とは正反対のように見えるかもしれない。だが、実はこれらは表裏一体ではないのか。介護職員は本当は介護など誰にでもできる仕事だと思っている。自分がやっているのがよい証拠である。だがそれを認めることは屈辱なのだ。だから、専門職だ、誰にでもできる仕事ではないといわざるを得ないのだ。そういった歪んだコンプレックスが介護現場をこじれさせている。と私は思ったのです。
本間清文さんはブリコラージュの最新号(5月号)にも出ています。