サンチョパンサの憂鬱

ロシナンテの翼

七百万円?……それなら二人で何とか作れますよね?ねぇ、やりましょうよ。
『それで自由になれるなら挑む価値はある……』


デミグラスソースがタップリのスタッフドポークを食べ終え後輩の社員は確信に満ちた表情でそう言った。
夫婦二人で回してる小さなビストロ……。
これくらいの店はどれ位あったら作れるのか?と彼はしつこく聞いて来たのだった。

幾らはぐらかしても何故か?その日、彼は執拗にその質問を繰り返した。
十二、三坪だから単価五十万から六十万……ざっと七百万位?と僕は適当に応えたのだった。

彼も僕と同じ精神状況だったんだと思う。
『この会社で一生?』なぁ~んて考えられなかったんだろう。
切羽詰まった心理で入社以来数ヶ月を過ごし
今の会社でこれからを考えられないと彼は言った。

その日、世間はお盆を迎えていた。
お盆さえ休めない会社……。
正月も休めるの元旦だけなんですよね?
会社は極悪非道であり、今でいうブラック企業のイメージで以て彼は腹を立てていた。

流通業ならそういう条件は当たり前となりつつあった時代だったけれど……。
僕も会社に対して彼と似た印象を持っていた。
一ヶ月に数十時間のサービス残業は過酷だった。
前近代的労働者として組み伏せられている?そんな被害者意識が僕にもあった。

その日、彼が余りに愚痴るから晩メシでも行こうとなった。
僕はこの店で時折独りで夜の食事をしていた。
会社の日常から自分を切り離して考えるのに絶好の場所だった。

人の好い五十代の夫婦二人で回す小さく平和なビストロ空間だった。

こんなお店が出来たら良いなぁ?……サラリーマンにそんな空想を抱かせ束の間の安息をくれる長閑な雰囲気があった。
僕もその店で何時も彼が抱いたのと全く同じ空想をしていた。

こんな夫婦こそが『自由人』なんだと僕も常々感じていたのだった。
今にして思えば……勤め人の境遇から逃れる為の空想としてそれはとても安直で安易な考えだった。

どんなに小さくても『経営する苦しみ』がある事なんて頭には欠片もなかった。
自由人の状況を得るにはサラリーマンとは比べものにならない『強いメンタル』を必要とすることなんてつゆ程も思わなかった。
単にひどく幼稚なメンタルだったのである。

彼は僕の空想を現実に口にしただけだったけれど人の言葉を通して聞いたそのニュアンスは何だか魔法の呪文の様な効果があった。  

その日、僕達の空想はにわかに現実味を帯びてしまったという訳だった。
単なる部外者として眺めていた現実とはかけ離れた論外の空想……。
その日の夜……僕は自分の空想の現実の当事者、主役になってしまったのだった。

『兎に角カネが無きゃ始まらない』……食後のコーヒーを飲みながら僕は彼に言った。
次の給料から積み立ててみよう……と。
カネを貯める……その目的だけが僕達の空想を現実に繋ぎ留めてくれるものだった。

その時……『自分の本気』と長らく関わらなかった僕は自分の本気の凄まじさを舐めていた。
無理もなかった……十年の時を超えて僕は『自分のホント』を封印していたのだから……。


名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「リアルなフィクション」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
2024年
人気記事