受験と部活の両立をもって「文武両道」・・・・・・・では決してありません。
武芸に秀いで、学芸(学術や芸術)にも秀でていることをもって、文武両道というらしいです。ほとんどの国語辞典にそうあります。
ですが、この解釈は、文武両道がめざす本来の意味とは全く違う曲解や誤解を生みだすことになります。
武芸という行為はどちらかというと、人間が持っている能力の一つである「体を動かしてすること=肉体的能力」にその行為の比重が置かれた
ものになっていますが、だからと言って、もう片方の「頭を使うこと=頭脳的能力」はまったく不要かというと、いいえ、決してそうではありません。
優れた武芸者すなわちどのような運動(=部活)をするにしても、頭を使わなければ、いわゆる「うまく(=上手)」は決してなれません。それを、
わたしたちは、プロスポーツなどにみることができます。いわゆる名選手を思い出してその雄姿をうかべてみてください。そこに「おバカさん」いる?
学芸(芸術や学術)という行為はどちらかというと、人間が持っている能力の他方である「頭を使うこと=頭脳的能力」に比重が置かれていますが、
だからと言って、もう片方の「体を動かしてすること=肉体的能力」はまったく必要ないかというと、けっしてそうではありません。
頭の体操のような将棋や囲碁の棋士といわれる人をみてください。長い時間じっとしているだけの体力を持っておられるのがご覧できるはずで、
それだけの体力をもっておられるわけです。風邪をひいて頭が働きますか?それがむりなことは皆さん経験されているじゃありませんか。
頭と体は「一人」の人間の中にあるわけで、それぞれがバラバラに独立してあるものではありません。この2つは車輪と同じで、2つは常に同時に
作用するものなのです。がしかし、それがどうして受験べんきょうと部活の両立なんて言う話に曲解されて受け止められるんでしょうか?
その原因こそが「勉強というと学校との関係でかんがえるのがふつう」という目線でべんきょうをとらえていることなのです。
勉強=学校の勉強=学校のべんきょう(学校は学習の場なのでこの『勉強』とは学習の意味になる)=学習
学習って何? 学=まねるの意。まねをするにはじっとして対象をよく見る必要が不可欠である。
習=くりかえすの意(習字という用語)。 覚えるにはいくども繰り返すしかない、反復練習は欠かせない。
同じことをいくどもするという動作は、同じ場でじっとして動かないようにも見えるでしょ!?。
どうして?なぜ?なんで? 文武両道が今日のような曲解と誤解による浸食のあらしをうけねばならなかったのでしょうか?
その原因、もう、おわかりいただけたとおもいます。
勉強=学校のべんきょう=受験べんきょう=学習
ここで、やっとのことで、よく学びよく遊ぶ における意味の話をする所に到達しました。
じつは、この「コトバ」もまたその嵐によってその意味がねじ曲げられていたのであります。ちなみに、ネット検索でその様子がわかります。
がしかし、きっと、あなたの心を打つような「納得感」は得られないはずだと、お約束させていただきます。ではまた。