徳川幕府の埋蔵金

世界は荒廃の入り口にある。気候変動、戦争、飢餓、疫病、貧困、格差。今こそ埋蔵金が世に出る時ではないだろうか。

黄金の行方 徳川幕府の埋蔵金 改訂版その2

2024-04-07 14:15:09 | 冒険探索

話しを小栗上野介に戻す

幕末の小栗は実に多忙である。いや、多才といったほうが良いのかも知れない。
造船所の建設、フランス語の伝習所、諸式会所創立、交易商社の建設計画など、どれを見ても今までにない新しい事であり、その仕事量は並大抵なものでない事が理解できる。
後に、この小栗の事を明治財界の巨星、三井の大番頭三野村利左衛門はこう言っている。
『 もし小栗上野介が明治時代に生き長らえていて、財政にかんする国務大臣として用いられたならば、わが日本は明治の初めから財政は整い、経済会は活気を興して、国家人民の為にどれほど幸福なことであったろう』。
私も同様の考えである。

三野村利左衛門
三野村利左衛門は、庄内藩士関口松三郎の子であり、幼少の折、木村利左衛門の養子になるが、7歳の頃より家出を繰り返し、14歳にして諸国を流転し千辛万苦した若者であり、放浪のあげく江戸で小栗忠高( 忠順の父 )にひろわれ、小栗家に奉公し、小栗上野介を幼少の頃より見守った一人なのである。
その後、25歳の時、小栗家の出入り商人菓子屋、紀伊国屋〈  紀伊国屋書房前身 〉に養子となり、11年目にして両替商の株を買い求め、いっそう商いに励み、44歳の時、当時勘定奉行の小栗のとりもちで、三井に入り、三井八朗右衛門の名代となるのである。
本章は度々横道にそれているように思われるが、私の推理、解読する埋蔵金説は、この三野村利左衛門が絡んでくるので載せたのである。利左衛門が小栗家の用人であった事は、三井銀行史に略歴と共に明記されている。
この三野村利左衛門の事は小栗が斬殺された後、妻道子が権田村から会津に逃れた語りにも登場する。
権田村から逃れ、会津に入った小栗夫人らの護衛隊は、横山主税常忠の家族に迎えられて保護された。主税は慶応3年のパリ万博の使節徳川昭武に会津藩士海老名郡治と共に同行し、フランスに遊学する。この前後に小栗上野介との交友が生まれたと思われる。閏4月29日に夫人らが到着したとき主税は、若年寄として白河表に進軍、5月1日に戦死する。会津城下も戦火が迫ってきたため夫人らは横山家を出て、南原の野戦病院に当てられていた農家へ避難する。
道子夫人は会津戦争さなかに南原の避難所で女児を出産、国子と名づけた。小栗上野介( 忠順 )の唯一の遺児である。出産後、難を避けるためかさらに南へ行き松川村で冬を迎えた。
南原、松川ともに、どこにいたのか詳細は判明していない。
会津戊辰戦争は会津軍の降伏で終わった。そのまま冬を越した護衛隊一行は翌明治2年春会津をたって東京へ出、さらに静岡まで夫人らを送り届けて村へ戻った。そのころ静岡には徳川家達に従って、旗本日下家へ婿に入った忠順の母邦子の弟(  忠順の叔父 )日下数馬やその息子寿之助、小栗又一の実家の旗本駒井家や、道子夫人の妹はつがとついだ蜷川家が神田から移り住んでいた。
道子夫人らはまもなく東京へ出て、三井家大番頭・三野村利左衛門の保護を受け、三野村が明治10年55歳で死んだ後は大隈重信夫妻が保護して、遺児国子は育てられたと、小栗上野介顕彰会機関誌には書かれている。
文中の「  さらに南に行き松川村で、」とあるが、これは東の誤りで、私には官軍の通り道の様な松川で約10ヶ月も居たとは思えない。「  どこにいたのか詳細は判明していない」ともあるが、ではどこか。さらに東に逃れ、恐らく、中村城下の相馬氏の庇護を受けていたのではないかと想像する。この相馬氏は小栗政寧( 小栗下総守)の家系( 実父 )であり、小栗上野介と小栗政寧は役職でも深い関係があり、また、個人的にも信頼関係があったと思われる。その理由の一つに、小栗政寧は長男の名前に上野介の幼名の「 剛太郎」を付けている事などもあげられるが、上野介が権田村に向かう少し前に小栗政寧との最後の会話をしていることからも想像できる( 慶応3年2月22日)。
話は逸れたが、三野村利左衛門がいかに小栗上野介を信頼し、大切にしていたかご理解いただけたかと思う。
*私が何か月も図書館通いをして調べた事が、今( 令和1年)ではその8~9割がインターネット上で可能であるので、小栗上野介に関しても情報が多く出ているので、より探求したい方は色々と調べてみる事をお勧めする。

何を
何を埋蔵したのか。先に記した水野家の伝承事の360万両や1000万両の説と共に埋蔵金の出所が幕末時の幕府御金蔵残金との説があり、御竹蔵( 隅田川沿いにあった幕府の資材倉庫)の17万5千両、甲府御金蔵の24万両の二説あるが、御竹蔵の方は、私も畠山清行著『 日本の埋蔵金』から得た知識しか持たず、調査もしていないが、特に畠山氏が文中に『 おとり』を仕掛けたとも思えないので、記載してある内容は幕末時からの伝承事に間違いはなさそうではあるが、果たして事実かは不明である。
 甲府の御金蔵の24万両についての内容だが、八重野充弘著『 徳川埋蔵金伝説』では、赤城村の埋蔵金発掘者、水野家二代目〈  義治〉の話しに出てくる、中島覚太郎〈  幕府小性四番頭 〉の伝えとして載せているものである。
その話しはと言うと、中島は彰義隊の精鋭隊長として上野で奮戦し、敗色が濃くなると甲府に落ちのびた。そして親交のあった甲府城代柴田監物と図って、御用金を榛名に移し、またそれを赤城に移したという下りである。
水野の話を柴田監物は甲府金番支配と八重野氏は訂正しているが、私の調べでは、役料三百俵の金番組頭である。
この話しを基に八重野氏は赤城埋蔵金解説をしているが〈  他の著書もこれに近い〉、だがこれが本当だとすると歴史が変わってしまう。
まず当時(  幕末期)小性四番頭には、中島という人物はいなし、また彰義隊が上野で奮戦する前に、板垣率いる800名の官軍が甲府城に入城しているので〈  慶応4年3月4日〉。彰義隊の敗色が濃くなる同年の5月以降に甲府に落ち延びることはできないのである。
そもそもこの著書の埋蔵金の話しが慶応4年になるのがおかしい。また登場人物の役職を理解していない(  架空の話しでも)。
読者は、柴田監物なる人物が組頭でも支配でも同じ様な気を持たれると思うが、支配は三千石高役料千俵であり、格がひとけたもふたけたも違う。
今で言えば高級官僚と役所の課長ぐらいの差がある。組頭役程度であれば埋蔵金の首謀者としては乏しいのである。
また八重野は著書の中で、中島なる人物の小性四番頭の役を軽視しており、情報源として格が低いとしているが、役の格としては三千石以上の旗本から選ばれ、君辺第一役であり、中島なる人物が仮にいて、もしその役であったとすれば軽視できないのである。
水野家の伝承の中で、幕末期に中島が住んでいたとされる神楽坂には、同時期で中島覚太郎なる人物はいないが、御小性という事で調べれば、御小性衆の役で中島泰之介(  役高は三百表)なる人物がいるが、埋蔵金推理の上で関係は薄い。
畠山や八重野の絡んだ水野家の伝承事は別の項に記載する。

「  埋蔵物」
私が推理する埋蔵金は小判ではない。仮に小栗上野介が絡んでいるとするならば小判の様な非効率的なものを埋蔵するはずがないからである。伝承事で、油樽に入れた小判を御竹蔵から船で隅田川を上り、利根川に出て、赤城まで運んだとか。夜な夜な油樽を担いで赤城山麓を分け入った。とかとあるが、なぜ油樽なのかの説明はない。一般的な運搬物で疑われないという事なのか。いかにもそれらしい。
小栗は金そのもの価値を十分理解しており、諸外国との不平等な兌換も理解している。そして、小判の価値も理解をしている。その小栗が、合金で嵩張る小判をわざわざ埋蔵するはずがない。それでは何か。埋蔵物は金の地金(  インゴット)と考えるべきで、形は現在のインゴットに近いと思う。
ではそれをどの様に運んだのか。ほかの方法もあろうかと思うが、金座から運ばれた地金を御竹蔵などで、木材の中に埋め込み、搬送したのではないかと推理している。当時の大工の腕であれば柱材の様なものに溝を掘り、同材で隠板を作ることは造作もないことで、この材木を幕府の御用物として、各地の神社仏閣に納めるものだとして搬送すれば、だれも目にとめないのである。この役目は油樽ではできない。
ではこの金地金を何時作ったのかというと、小判の改鋳時に他ならない。
(  安政・万延の改鋳)
幕末に行われた二つの改鋳、安政ならびに万延の改鋳は、幕末の開港とそれによって表面化する内外の金銀比価の乖離がもたらした我が国からの金貨の流出に対するための実施されたもので、幕末に実施された万延の改鋳は江戸期の貨幣史おいて再三にわたって見られたような幕府財政の立て直しや財政資金の調達を主たる目的としたものでも、あるいは元文の改鋳のような景気や物流の対策を目的したものではない。
日米和親条約で部分的に自由化された交易により、小判金貨が大量に流出したため従来より金の含有量を落とした小判を鋳造したものである。品位(  金の含有量比)は天保と安政と同じ57%であったが、大きさは安政小判の1/3と著しく小型化され純金量はわずか1.9g と最初の慶長小判の1/8まで減少した。ちなみに安政小判は総重量が9g 金の含有量は5.1g 万延小判は総重量3.3g 金の含有量は1.9gである。同じ1両でも金の含有量は3.2gも違うという事である。
分かりやすくすると、安政の100万両を万延の100万両にした場合、3.2×1000000=3200000グラムの金が余るという事になる。10キログラムの金地金で320本である。容積的には大きなものではない。いずれにしても当初から埋蔵の為に金地金をストックしたとは思えない。しかし、この頃から日本の貨幣は大きく品位が変わり、流通も大きくなる。また、小栗上野介が初めて勘定奉行に就くのもこの頃である。

「 江戸時代における改鋳の歴史」
幕末以前の貨幣改鋳においては、貴金属貨幣を基本通貨としながら、その量・質を通貨当局がフリーハンドで管理するために、国内の貴金属市場を外国のそれから隔離し、さらに国内市場をコントロールできなければならない。その意味で、開港以前において、目的や結果はどうあれ貨幣改鋳という政策手段が可能であったのは、それまでの鎖国体制下における金・銀貨の輸出規制がかなりの効果を発揮するようになっていたためといえるだろう。こうした改鋳の結果、万延元( 1860)年以降、ハイパーインフレーションが発生する。安政6( 1859)年の開港後、明治2( 1869)年までの間に、名目貨幣量は5300万両から1億3000万両と、10年以上にわたって年率9%近い比率で急激に増加する。この急激な貨幣供給量の増加が物価騰貴をもたらしたことは疑いない。
名目貨幣量とは、額面どおりのお金のことをいい、 名目貨幣量の数値に、物価の変動を考慮した数値を実質貨幣量という。 実質貨幣量は、名目貨幣量を物価で割って求め、 新古典学派では、経済政策で名目貨幣量を増やしても、物価が上昇するだけで、実質貨幣量は変わらない。
名目貨幣量とは金貨、銀貨、銭貨を合わせた数値である。この流通に両替商(三井など)がどの様に係わったか。
金貨、銀貨、銭貨の実際の流通実体については不明な点も多い。全国通貨といわれているこれら徳川政権の正貨が、具体的にどのような取引に用いられていたのか、あるいは中央と地方の間における貨幣の流通実体が如何なるものであったのかは定かでない。
また、江戸時代には、正貨に加えて地方における藩札の発行・流通がみられており、これらの使用実態をも踏まえて正貨の改鋳の効果を考える必要があると思われる。改鋳された貨幣が実社会に流通していく過程では、両替商が大きな役割を果たしていたことは間違いのないところであるが、具体的に旧貨幣の還収や新貨幣の発行にどのように関わっていたのかについては、必ずしも明らかにはできていない。
また、例えば金貨の改鋳についてみた場合、金の含有量を減らした部分には銀が増量される形で品位の改定が行なわれるが、そうなると、銀は如何なる方法で調達するのかという問題が生じてくる。金貨と銀貨の改鋳がほぼ同じ時期に実施されることは、このことと関係するのか、あるいは金座と銀座の間での銀の取引が行われたのであろうか。
日本銀行の金融研究所の刊行物の文言でも分かるように、両替商が貨幣の改鋳時における具体的に旧貨幣の還収や新貨幣の発行にどのように関わっていたのかについては、不明なのである。
私の推測では、三井などを筆頭に江戸の両替商が旧貨幣の還収に、関西地方に持ち合わせの銀貨を大量に供給し、金貨(  小判)と両替したのではないかと考える。金を集中的に江戸の集め、先の万延の改鋳を行い、余剰の金地金を保有する手段ではないかと思うが、これが埋蔵金に使われたのかは定かではないが、物理的な理論である。小栗上野介が日本の将来の事を考え、本気で埋蔵したのであれば莫大な金(  地金)を想像してもおかしくはない。因みに江戸時代の関西圏は銀の流通が主流であった。

「 何故」「 何のために」
では何故、何のために埋蔵をしなければならなかったのか。その答えを出すには多くの歴史を語らなければならないのだが、幕末史が目的の書ではないので、なるべく簡略して話を進める。
( 安政の五カ国条約)
条約の正式名称と調印日は日米修好通商条約( 安政5年6月19日)・日蘭修好通商条約( 同7月10日)・日露修好通商条約( 同7月11日)・日英修好通商条約( 同7月18日)・日仏修好通商条約( 同9月3日)である。この五カ国条約のきっかけとなったのはアメリカとの日米修好通商条約である。
アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは幕府全権岩瀬忠震・井上清直と安政4年12月11日( 1858年1月25日)から15回の交渉を行い、自由貿易を骨子とする条約内容に合意した。これを受け、老中首座堀田正睦は孝明天皇の勅許を得るために安政5年2月5日( 1858年3月19日)に入京するが、天皇は3月20日( 1858年5月3日)に勅許を拒否した。一方幕府では、老中松平忠固が「 朝廷に屈することは幕府権威の低下につながる」として、無勅許調印を強行に主張し、大老井伊直弼も最終的にこれに同意、無勅許のまま日米修好通商条約は調印された。しかし、朝廷側から見れば違勅の状態にあった。
日本の財政( 幕府)とは無縁の優雅な生活をしている京( 京都)の公家たちは勅許を待たずに調印した条約は無効であるとしてこれを認めず、幕府と井伊の「 独断専行」「 無勅許調印」と非難した。その結果、公武間の緊張がいっきに高まり、ゆくゆくは安政の大獄や井伊直弼の暗殺などの事件となるのである。
この五カ国条約の大切なところはその日付である。イギリスから独立( 戦争で)したアメリカとの条約を一月も先行した事は、幕府にとってイギリスへの構えであった。また、その後も条約期日の最後の国フランスと軍事的( 軍備や軍隊組織の導入)に近くなるのもその表れである。
なぜか、欧米諸国が日本に迫り寄り来る中で、幕府が一番恐れていた国が英国であった。
( 侵略)
英国の侵略思想
七王国時代、アングロサクソンの有力な王たちは、他部族を支配するうえで「 アングル人の帝国」を名乗り、時折自らを皇帝と称した。ヘンリー8世時代、「 イングランドは帝国である」と1533年に宣言したのは、教皇の権力をイングランドから除くことを目的にしていた。こうしたインペリウムは、ヨーロッパ各地で教皇から独立せんとするために、または近隣勢力を征服するための大義名分として機能した。スコットランドを併合して「 グレイト・ブリテンの帝国」を築こうという主張は伝統的にイングランドのなかで存在していた。
アメリカ大陸植民地にはじまり、インド、アフリカ、オーストラリア、ニュージーランド、ハワイなどなど・・冒険家によるアメリカ大陸やハワイ諸島の発見などもゆくゆくは侵略征服が目的のもので歴史に語られる美談とは程遠いものである。原住民( ハワイアン、インディアン、アメリカインディアン、アボリジニなどなど)を虐殺し侵略を繰り返しました。そして植民地化したところに送り込まれたのがアフリカやインドの奴隷です。アメリカやインド、カリブ海諸島のプランティション働かされた奴隷は悲惨であった。
アフリカやインド、アメリカで特許会社( 東インド会社など)を作り、不平等や貿易を繰り返し、原住民や在来の王国を衰退に追い込んだのもこのイギリス商人たちである。無論、その後ろには大英帝国が君臨していた。反抗するものは暗殺や殺害、滅亡させられた小さな国も多くある。借金をさせ文明品を与え、土地や権利を支配する方法は今も変わらないところがありますが、インドなどはアヘンを作らされ、それを商人は中国侵略の為に使ったのです。それがアヘン戦争で、その後結ばれたイギリスと中国の天津条約は不平等条約の代表的な存在です。
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日英修好通商条約( 同7月18日)は大英帝国において、同条約の批准書の交換は、その交わされた1859年7月18日から、女王が、徳川将軍の領土において権能と管轄権を有することを意味したとあり、1859年3月4日付のロンドン・ガゼットに、次のことが英語で記されている。
「 1859年3月3日、バッキンガム宮殿の宮廷にて、枢密院における卓越した女王陛下より<中略>いかなる国あるいは女王陛下の領土外の場所においても、女王陛下が現在有しているか今後有することになる権能と管轄権を、これまでに領土の割譲や征服によって得たのと同様で且つ十分な方法で、保持し行使し享受することを、女王陛下にとって合法とする法が施行される。昨年の8月25日に女王陛下と日本の大君それぞれの全権公使によって署名された修好通商講和条約は合意されて結ばれた。前記の条約の批准書が交わされたら直ちに女王陛下は、日本の大君の領土において権能と管轄権を有するでしょう」

( 英国)
イギリスはどんな国と聞かれてあなたは何と答えますか。「 紳士の国」「 マナーにうるさい国」「 女王の国」「 ナショナルトラストの国」「 大英博物館」「 産業革命」....
ナショナルトラスト運動( 1895)という言葉を聞いたことがあると思うが、これは英国の産業革命時に起きた自然保護の運動である。一方では同時期に英国の侵略政策は過去最大のものになりつつある。歴史教科書では侵略を植民地政策とさも穏やかに書くが、植民地とは武力で他国を侵略し虐殺の繰り返しから略奪したものに他ならない。北米、アフリカ、インド、東アジア、中国、オーストラリア、ニュージーランド・・などなど。
この侵略から得た富で、城を作り、聖堂を作り、大庭園を造り、博物館を作り( 何れも18世紀後半)自国の自然を保護する。これが20世紀までの英国の姿である。
( 侵略の手段)
最も卑劣な史実としては薬物を使い侵略をしたアヘン戦争( 1839~1860)である。アメリカとの独立戦争後で北米の負担緩和の為、インドでアヘンを作らせ、清に売り、大量の銀を得て、尚且つ戦争を仕掛け,前代未聞の不平等条約( 南支条約)を結ばせた。その他の手段としては貿易を窓口とした商館や会社を相手国に作り、牙城を徐々に崩す作戦がある。連合国家(地方地方に領主が存在した日本のような国)と出来上がっている国にはこの方法が多く取られた( インドや東アジア)。
そして歴史にはどこにも登場しないが、自国の為に障害となる人物の暗殺や抹殺行為があった。20世紀の入ればこのような史実は少し明るみに出るのだが、19世紀以前は皆無である。それもそのはずで歴史は勝者の都合で書かれているからである。勝者が卑劣な汚点を史実に残すわけがない。
マラッカ海峡を支配し、香港やその他の港を清に開港させ、不平等条約を結ばせた英国が日本に狙いを定めないはずはない。アメリカやフランスも清に対し同様に条約を迫る。両国もまた日本に狙いを定める。
( 日本攻略)
日本からの富を独り占めしていたオランダの力が弱まり、イギリス、フランスが台頭を現してくる。イギリスは牙城を徐々に崩す作戦とる。これは同時にあいて国民を洗脳する極めて陰険な手段だ。オランダを巻き込み薩摩、長周、土佐などに狙いをつける。
洗脳とは何か。
「 日本においては幕府の他にミカド( 天皇)という大きな権威が存在し、有力大名( 薩摩藩・長州藩)はこれを支持して幕府を廃し、合議政体を作ろうと画策している」という諸外国から見た説があるが、これは間違いで、そもそもこの考えを洗脳したのがイギリスなのだ。その証拠にアーネストサトウ(イギリス駐日公使館の通訳官)が慶応2年に英字版ジャパンタイムスに匿名で載せた英国策論には「 将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎず、現行の条約はその将軍とだけ結ばれたものである。したがって現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できないものである。独立大名たちは外国との貿易に大きな関心をもっている。現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである」。と載せている。が、これも洗脳をあおる一貫に過ぎない。日本語に訳されたものが各地の大名に伝わる事を意識してのものである。
歴史的に見ても、この様な洗脳諜報作戦の考えは以前から英国の考えであったことは間違いない。アーネストサトウは維新後も日本に駐在して諸々功績があるが、彼が英国へどのようの情報を流していたのかは歴史に存在しない。しかし、これは彼本来の考えではない。彼の主人であるラザフォード・オールコックやハリーパークスの考えである。  
現在もそうであるが相手国のスパイ活動をする場合、相手国にある治外法権の大使館や職員などが絡んでくることが多いのは事実である。

( 英国人  ラザフォード・オールコック)
オールコックは極東在勤のベテランとしての手腕を買われ、1859年3月1日付けで初代駐日総領事に任命される。彼の序業や功績はどうでも良いし、また史実も当てにならない。では人間性はどうか。これはオールコック自身が書いているので判断できる。私はインドや東南アジア、清を見てきた彼が、日本に対して異常に嫉妬したのではないかと判断している。彼の書いた『 大君の都』にはこう書かれている。
○このよく耕された谷間の土地で、人々が、幸せに満ちた良い暮らしをしているのを見ると、これが圧政に苦しみ過酷な税金を取り立てられて苦しんでいる場所だとはとても信じられない。ヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きの良い農民はいないし、またこれほど穏やかで実りの多い土地もないと思う
〇日本が美しく、国民の清潔で豊かな暮らしぶりを詳述する一方で、江戸市中での体験から「 ペルシャ王クセルクセスの軍隊のような大軍でも編成しないかぎり、将軍の居城のある町の中心部をたとえ占領できたとしても、広大すぎるし、敵対心をもった住人のもとでは安全に確保し持ちこたえられるヨーロッパの軍人はいないだろう。
〇彼らは偶像崇拝者であり、異教徒であり、畜生のように神を信じることなく死ぬ、呪われた永劫の罰を受ける者たちである。畜生も信仰は持たず、死後のより良い暮らしへの希望もなく、くたばっていくのだ。詩人と、思想家と、政治家と、才能に恵まれた芸術家からなる民族の一員である我々と比べて、日本人は劣等民族である。
------------これがオールコックの本音と嫉妬である。
( 英国人 ハリーパークス)  オークスの後任の全権公使である。
1843年、15歳で広東のイギリス領事館に採用され、翌1844年、廈門の領事館通訳となった(この頃から領事ラザフォード・オールコックのもとで仕事をするようになった)。1854年、廈門領事に就任。1855年、全権委員として英・シャム条約締結。1856年、広東領事としてアロー号事件に介入。1860年9月、英仏連合軍の北京侵攻にあたり全権大使エルギン伯の補佐官兼通訳を務めたが、交渉中に清軍に拉致され翌10月まで北京で投獄された。長く中国で暮らして中国語に通じていたのが幸いし、日本公使に転任していたオールコックに認められて、1864年には上海領事となった。
このパークスの序業や功績、美談はどうでも良いし、また史実も当てにならない。ではどの様な人間性なのか。イギリスの駐日公使館の通訳、アーネストサトウ( ドイツ人の父とイギリス人の母)の書にはこう書かれている。
「 私とサー・ハリー( ハリーパークス)との関係は、たしかに楽しいものではありませんでした。アダムスもミットフォードも彼を良く思ってはいませんでした。これは主に社会階層の違いからくるものです。私もそのとおりだと思っていた。日本人の請願に対して、彼の荒々しい言葉を通訳しなければならなかったのは、ほんとうに辛いことでした。しかし、彼は偉大な公僕であった。
偉大な公僕とはイギリス女王の忠実な僕( しもべ)という事である。
このパークスらの洗脳諜報作戦により、洗脳された公卿や若い勤皇志士より、小栗上野介は命を落とすことになるのである。言い換えればパークスらによる暗殺なのである。
★慶応3年10月26日、アーネストサトウは小栗上野介に会いに来ている。話の内容は不明である。

「 領地の民百姓に愛された二人の殿様 」
井伊直弼・1815~60
江戸時代後期の大老。近江国彦根藩主。文化12年〈 1815〉年10月29日、十一代藩主直中の十四男として彦根城内で生れた。通称は鉄三郎といい、柳王舎、柳和舎、緑舎、宗観、無根水などの号がある。
五歳で母を亡くし、17歳で父に死別したので、長兄の藩主直亮から三百表を与えられ、城外の北のお屋敷に移り住んだ。同13年11月本居派の長野義言とめぐりあい、師弟の契りを結んで以来国学に没頭した直亮の世子、兄の直元が病死したので弘化三年〈 1846〉江戸に出て世子となり、12月従四位下侍従に叙任、玄番頭を兼ねた。翌四年2月彦根藩は相州警備の幕命を受けたが、直弼は井伊家は京都守護の家柄と反発、以来老中阿部正弘と快しとしなかった。

寛永3年〈 1850〉九月直亮が国許で没し、11月21日遺領三十五万石を継いで十三代藩主となり、27日掃部頭を称した。直亮との間柄は冷たかったが、直弼は養父の遺志として、金十五万両をあまねく領内の士民に分配し、翌年6月初入部すると、直亮時代の弊政の一掃に着手した。
同6年6月江戸から帰国した直後、米国使節ペリーが浦賀に来航したが、彦根藩は相州警備を果たし幕府から慰労された。ついで出府、八月再度にわたり米国措置の意見書を提出したが、開国を主張する意見は、幕政参与に起用された水戸老侯斎昭の意見と相容れないものであった。翌安政元年〈 1854〉正月ペリーが再航すると、江戸城西湖間における斎昭と江戸詰諸大名との討議で、打ち払いを主張する斎昭と和平穏使論を唱える直弼ならびに佐倉藩主堀田正睦らとは激論し、この対決が後の政局に大きな影響を与えた。
前年11月相州警備から羽田・大森警備に転じ、安政五年四月京都守護を命ぜられた。斎昭との対立は、翌2年10月老侯の嫌悪する正睦を溜間詰から推して老中に就任させたことから抜き差しならぬものとなり、三家対立、溜詰対立へと発展していった。同4年8月出府して、米国領事ハリスの上府に反対していた溜詰大名の意見をくつがえし、12月米国の要求を容れるべしとの意見を連署して幕布に提出した。
このころから政治問題化した十三代将軍家定の継嗣に関し、血統論を唱えて紀州慶福を推し、南紀派の重鎮として、一橋慶喜を推す一橋派の福井藩主松平慶永・鹿児島藩主島津斎彬と対立した。
翌5年正睦が条約勅許秦請の為上京すると、これに先立って長野義言を入京させて廷臣間に運動させ、関白九条尚忠を幕府支持に立たせ、慶喜を将軍継嗣にしょうとする一橋派の運動を阻止することを得たが、ついに勅許を得ることに失敗した。正睦が帰府してから3日後の4月23日、大老に就任した。
6月19日井上清尚、岩瀬忠震にハリスと日米修好通商条約に調印させたが、これに先立って反対派に違勅の罪を責められると調印の中止を諫言した宇津木六之丞に対し、兵端を開かず、国体をはずかしめないためにもその罪は甘受するといい、また24日の三家押し掛け登城にも動せず、25日慶福を将軍継嗣とする旨を公表した。朝廷より三家・大老のいずれかを上京すべき勅定が下ったが、老中間部詮勝を上京させることにし、またこの前後、京都情勢を好転させるため、長野義言を二度にわたり上京させた。
しかるに8月8日密勅が水戸藩に降下しついで九条関白が排斤されて辞職のやむなきにいたると、ついに誇張潤色した義言の報道に惑わされ、反対派の陰謀を水戸藩の陰謀と信じ、9月近藤茂左衛門、梅田雲浜の逮捕を契機に安政の大獄を断行、翌六年にかけて反対派の諸侯・有司・志士を厳罰にした他、累を宮・堂上とその家臣に及ぼしたが、条約の許勅を得るにいたらなかった。
大獄では水戸藩への処罰がもっとも厳しく、さらに同6年12月、水戸藩に降下した密勅の返納を迫ったため、同藩激派を激奮させ、ついに万延元年〈 1860〉3月、水戸浪士を中心とする十八士に桜田門外で暗殺された。年46歳
以上が井伊直弼の略歴であるが、この内容から井伊の功績が伝わるものでもない。だがよく考えてほしい。結局、日本( 幕府と朝廷)は井伊が考えていた外交がなされていくのである。井伊の考えは幕府の安泰や朝廷の権力よりも、国や民の行く末を考えたのである。
この考え方が小栗に継承されない訳がない。また、小栗の国や民を守る考えを決定づけたのは安政7年( 1860年)、遣米使節の時と考えてよい。これは米国の工業力とかの見聞ではなく、米国からの帰り道にある。
小栗の心を固めたのはヨーロッパ、アフリカ、インド、中国、インドネシアを経由する過程で見てきた奴隷の姿ではないだろうか。足かせと鎖でつながれ、白人に鞭を打たれる黒人奴隷。縄で縛られ、中国人に鞭を打たれる東南アジア人。小栗に従事した権田村の名主( 佐藤)の世界一周日記にもその絵があるように、これを実際に見た小栗はこう考えたのではないだろうか。「 一つ間違えれば我が国の民も・・」
井伊直弼と小栗上野介。この二人が領地の民百姓に愛された殿様である事は私が言うまでもなく、現在もこの二人を称えるお祭りが地元にあることがその証である。
小栗は国と民を守るため、他国とのバランスを考えたり、借財をしたり、その借財で行く末の国力を願い、軍艦を調達したり、造船所の建設をしたのではないだろうか。国を守るために借財を考えたのであれば、民を守る黄金を埋蔵しても何ら不思議でもない。これが「 なぜ」「 何のために」の結論である。
小栗の言葉がある。
「 幕府の命運に限りがあろうと、日本の命運に限りはない」
「 一言で国を滅ぼす言葉は『どうにかなろう』の一言なり。幕府が滅亡したるはこの一言なり」
「 どうしても必要な造船所を造ると言えば、冗費を削る口実となってよい。横須賀製鉄所ができれば、幕府がほかに政権を譲ることになっても、土蔵付きの売家として渡すぐらい価値あるものとなり、名誉なことである」

「 小栗上野介の暗殺と明治維新」
小栗上野介の死について
殺人事件の犯人捜しは被害者が亡くなることにより一番得をするものを探すことである。
群馬県の権田村で新政府軍に反逆の意思がないことを唱えるも、家臣共に斬殺されてしまった小栗上野介。
得をしたものは誰か、斬殺の指揮執った東山道軍の軍監である大音龍太郎( 当時28歳、後の岩鼻県初代知事( 現群馬県))か、原保太郎( 当時20歳、後の山口県知事、貴族院議員)か、その上に立つ東山軍参謀の乾退助( 板垣退助)当時38歳か、または東山道鎮撫総督の岩倉倶定( 当時16歳)、倶経( 当時15歳)か、となるのだが、何れも得の内容は小さく、日本国にとっても大変重要な人物の抹殺には秤が小さい。また東征大総督の有栖川熾仁親王は論外であることはあえて理由は書かない。
とすれば、岩倉兄弟を任命した岩倉具視という事になるのだが、その岩倉を洗脳した人物がいるとみている。それは誰か、英国のハリー・パークスである。
パークスと岩倉具視の繋がりは歴史の上からも読み取れる。本書の読者も時間があればパークスと岩倉具視の繋がりを調べてみると良い。
パークス( 英国)にしてみれば小栗ほど邪魔な存在はいない。仮に幕府がなくなろうと新しい政権組織に小栗が入れば、薩長軍に肩入れをしてきた英国( アメリカも)にとって、自国の利益に莫大な損失となる。それは小栗とフランスの繋がりにより、日本でのフランスの存在が大きくなることである。
徳川幕府の幕末期において軍事的にもフランスとの繋がり主であった。幕府の軍艦や横須賀の造船所のフランスの技術である。その時の幕府側の最高責任者は小栗上野介である。
日本でのフランスの存在が大きくなること、それは女王陛下の英国にとって莫大な損失となるのである。当時の英国は植民地という名目で侵略や殺戮を繰り返して来たことは先の項で述べたが、正しく、そのターゲットに小栗上野介がなった訳である。そして、パークスらの洗脳諜報作戦により、洗脳された公卿や若い勤皇志士より、小栗上野介は命を落とすことになるのである。言い換えればパークスらによる暗殺なのである。
★明治維新の際に多くの幕臣が採用されたことはご存知の事かと思うが、薩摩や長州とて優秀な幕臣を掃いて捨てるようなことはしていない。その為の江戸城の無血開城でもあった。まして、小栗は徹底抗戦をしたわけでもなく、群馬の権田村に隠遁したのである。薩摩にしても長州にしても小栗上野介が新しい政府の為にどれだけ必要な人物か知らない訳がないのである。そう考えると、東山道軍の若い兵士たちがとった行動がどうも腑に落ちないのである。

【 書籍番外】
暗殺とか抹殺とか物騒なことで、そんな事がある訳がないという読者がおられたら、現代の世界中の情勢をよく考えて頂きたい。今( 令和2年)この時間にも行われているかもしれない紛れもない事実なのです。勿論戦時中の日本軍もした事です。我々の手の届く歴史の範囲で、田中角栄の失脚もロッキード社を使いアメリカが仕組んだことは誰もが熟知している事です。原因は独自の田中外交で、中国やソビエトとの電光石火の国交回復をしたことで、日本におけるアメリカの地位に将来的な不安を感じたからに他ならない。

明治維新
「明治維新の勝てば官軍の浪費を見れば分かる国内事情」
その筆頭が岩倉使節団である。私が推理したあの岩倉具視の外遊である。
明治4年( 1871年)11月12日( 陰暦)に米国太平洋郵船会社( 英語版)の蒸気船「 アメリカ(英語版)」号で横浜港を出発し、太平洋を一路カリフォルニア州 サンフランシスコに向った。その後アメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問したが、アメリカには約8か月もの長期滞在となる。その後大西洋を渡り、ヨーロッパ各国を歴訪した。
使節団はキュナード社の蒸気船オリムパス号に乗船して、1872年8月17日にイギリスのリヴァプールに到着した。ロンドンから始まり、ブライトン、ポーツマス海軍基地、マンチェスターを経てスコットランドへ向かう。スコットランドではグラスゴー、エディンバラ、さらにはハイランド地方にまで足を延ばし、続いてイングランドに戻ってニューカッスル、ボルトン・アビー、ソルテア、ハリファクス、シェフィールド、チャッツワース・ハウス、バーミンガム、ウスター、チェスターなどを訪れて、再びロンドンに戻ってくる。1872年12月5日はウィンザー城ではヴィクトリア女王にも謁見し、世界随一の工業先進国の実状をつぶさに視察した。1873年3月15日にはドイツ宰相ビスマルク主催の官邸晩餐会に参加。
ヨーロッパでの訪問国は、イギリス( 4か月)、フランス( 2か月)、ベルギー、オランダ、ドイツ( 3週間)、ロシア( 2週間)、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア( ウィーン万国博覧会を視察)、スイスの12か国に上る。帰途は、地中海からスエズ運河を通過し、紅海を経てアジア各地にあるヨーロッパ諸国の植民地( セイロン、シンガポール、サイゴン、香港、上海等)への訪問も行われたが、これらの滞在はヨーロッパ各国に比べ短いものとなった。
当初の予定から大幅に遅れ、出発から1年10か月後の明治6年( 1873年)9月13日に、太平洋郵船の「 ゴールデンエイジ」号で横浜港に帰着した。留守政府では朝鮮出兵を巡る征韓論が争われ、使節帰国後に明治6年政変となった。
元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものとなる。一国の政府のトップがこぞって国を離れ長期間外遊するというのは極めて異例なことだったが、直に西洋文明や思想に触れ、しかも多くの国情を比較体験する機会を得たことが彼らに与えた影響は大きかった。また同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍し、日本の文明開化に大きく貢献した。しかし一方では権限を越えて条約改正交渉を行おうとしたことによる留守政府との摩擦、外遊期間の大幅な延長、木戸と大久保の不仲などの政治的な問題を引き起こし、当時「 条約は結び損い金は捨て 世間へ大使何と岩倉( 世間に対し何と言い訳)」と狂歌に歌われもした。
使節団のほとんどは断髪・洋装だったが、岩倉は髷と和服という姿で渡航した。この姿はアメリカの新聞の挿絵にも残っている。日本の文化に対して誇りを持っていたためだが、アメリカに留学していた子の岩倉具定らに「  未開の国と侮りを受ける」と説得され、シカゴで断髪 。以後は洋装に改めた。
総勢106人が1年半、不平等な兌換の国々を豪華な土産を持って豪遊して来たのが岩倉使節団。
どれだけ国費を使ったのか想像できない。東山道鎮撫総督の岩倉倶定( 当時16歳)、倶経などは江戸無血開城の後に早々とアメリカに留学( 退避とも考えられる)をさせている。
使節団中には優秀な留学生もいたのだろうとは思うが、豪遊には間違いない。そこそこの頭の切れる子を1年半も先進国を見聞させれば、役に立つ人間になるのは当たり前の事である。
華々しく日本の夜明けの様に歴史では教えるのだが、華族や貴族、その恩恵を受けたもの、維新の改革で莫大な利益を得てた商人、勤皇の志士で若くして地位を得たものなどなど、それ以外の民はどれだけ苦しい生活であったのかは歴史では習わない。ドラマの「 おしん」の様な貧しく、娘や息子を売らなければ生活できない人がどれだけいたか。新しい政府が英国思想で他国を侵略していき、何百万の兵士の犠牲の上で得た将軍が神格化されていくのである。
この様な日本国民の差別や貧困は第二次世界大戦後まで続き、良い意味でアメリカの介入にて本当の民主主義が取り入れられるようになる。
国体変革( 象徴天皇制、国民主権)、戦争放棄、基本的人権の保障、地方自治の確立など画期的内容をもつ 新憲法の制定、特高( 特別高等警察)・内務省の解体、農地改革、財閥解体、婦人参政権の確立、家父長制的家族制度の廃止、労働者の基本的権利の保障、男女共学の単線型六三三四制の創設などである。これらは、日本人自らの手では実現しえなかった改革であり、占領という戦争状態の継続下で初めて行われえたと言える。
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畠山の著書の日本の埋蔵金の中に東京日日新聞の『 維新前後』『 戊辰物語』で官軍の美談( ?)として出てくる江戸城無血開城の時、官軍の請取委員が各奉行所の管理する千両箱に目もくれず、処理は奉行所の幕臣に任せたとあるが、そんなことは絶対にありえない。官軍が幕府の資金を当てにしない訳がないのでる。岩倉の豪遊のしかりであるが、参考までに薩長軍も大阪城に入城した時、大阪で富商より軍資金を集めている。その金額は383万両にもなっている。返す当てのない借財ではあるが、勝ったからにはそれに見合う物が必要な事は誰でも分かる事である。
江戸城無血開城の際、幕府の金庫である御竹蔵に残金が17万5千両しかなかったとあるが、これもすべて薩長官軍側の報告である。
赤城埋蔵金説のここまでの記載で、なぜ、誰が、何を、何のためにをご理解頂ければと思う。

赤城山の埋蔵金伝説
赤城山麓の埋蔵金の話は水野家の伝承から始まるのだが、その伝承事の解説と明治維新前後~初期の事を明記する。
「  水野家の伝承事」
水野家の伝承事はおおよそ下記の様な事柄である。
徳川幕府の勘定吟味役だった義父の中島蔵人から『 埋蔵金360万両は井戸を掘ればわかる』と聞いた水野智義が赤城山の現地調査を開始したのは明治15年。智義は慶応4年、17歳で彰義隊に加わったとあるので、この頃は32~33歳になっている。
現地調査をした智義は、赤城山麓で炭焼きをしており、敷地に井戸を所有する角田源次郎を知る。その源次郎は幕末に赤城山麓で何らかの作業をしていた武士の集団に物資の調達をした際、物品の出入りを書き留めた「 買上覚え帳」十数冊を持っていた。のちに智義はその帳簿を譲り受け、埋蔵金の確信を得る。( 畠山著「 日本の埋蔵金」に写真有)
明治19年頃から赤城山麓の本格的な発掘調査を始めるが何ら成果がない。
明治23年 赤城山麓で偶然出会った児玉惣兵衛( 児玉広則とも藤原広則とも)なる人物からから埋蔵地点のヒントを得る。「 深さ」「 赤城、榛名、武尊山の不動の線に心せよ」「 角田源次郎の井戸に気を付けよ」の三点である。
児玉は埋蔵金( 源次郎の井戸の)の見張り役とされており、児玉は中島蔵人の同志として智義は聞いている。
同23年 源次郎の井戸より黄金の家康像を発見する。
明治24年 赤城山麓の双栄寺から出た銅板を譲り受ける。
同24年 今際の際の児玉惣兵衛から「 大儀兵法秘図書」を渡される。
この秘図書は八門遁甲で書かれており、埋蔵金の場所が書かれているとされている。
------以後昭和13年までの75年間赤城山麓にて埋蔵金発掘の手掛かりはない。
昭和13年 赤城にて埋蔵金探索を始めた三枝茂三郎がやはり伝承事で埋蔵金場所の目印とされていた「 庚申塚」を発見。
昭和17年 智義の次男、水野義治( 二代目)の協力者の角谷雅勝が三州たたき( 昭和30年代ころまで玄関の土間などに使われていたモルタルの様なもの)で出来た「 亀の形」を赤城山北麓地中にて発見。
昭和33年~36年 三枝が地下200尺( 60メートル)前後の場所で三州たたきで出来た塞ぎ塀( 三枝は宝庫の扉と称していた)を発見。
昭和38年 智義の三男、水野愛三郎が「 亀の形」から3尺のところで「 鶴の形」などを発見。
*3尺が正しければおかしな事なので30もしくは300尺の誤りか畠山の囮文章である。
以上が水野家の伝承事と周辺の発掘事情である。
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水野家と中島蔵人についてはこう伝承している。
維新の前、中島蔵人が勘定吟味役として全盛のころ、その邸の斜め向かいに水野健三郎という旗本屋敷があり、健三郎は九州久留米の旗本の生まれで、縁あって沼津十万石の水野家の分家の水野勇之進( 住所は牛込藁店)の養子婿入りしたとあり、妻豊が早死したので後添い( 静)をもらい、鉱太郎、鉦乃助、お園、英之極の子をなし、安政4年に病死とある。
この英之極が水野英之極智義である。
その後、この静と中島蔵人( 中島も妻を早くなくし、重太郎という子がいた)が結ばれたとある。
「 発掘品のタイミング」
畠山は昭和元年の頃、初めて赤城山麓の敷島村に訪れ古老などに聞き取り調査をしているが( 勿論水野にも)、年齢的( 20歳)にも埋蔵金に興味を持った青年の域からは出ておらず、本格的に自身が実測調査をした訳ではない。
畠山氏が踏み込んだ調査をして行くのは恐らく「 埋蔵金物語」を執筆した昭和14年の2~3年前からだと思う。これは三枝氏の発掘のタイミングに合っている。次作の「 ルポルタージュ 埋蔵金物語」昭和36年刊行も同様である。一方、明治以来75年も何ら発掘成果のない水野氏が、畠山氏の刊行物のすぐ後に発掘品を得ることは事は何かの偶然であろうか。
「 水野家伝承事の検証」
本書で起債する水野家の伝承事のすべては畠山の著書『 日本の埋蔵金』によるもので、本当のところはとなると判断がつかないが、それでは前に進まないので、まずは著書に基づいて検証する。著作には盗作を避けるため囮の文章があると書かれているが、それも合わせて検証したい。
水野家が直接発掘したのは、明治23年の家康像〈 児玉の直接的なヒントによるが〉と、昭和38年の鶴、梵字だけであり、実に75年間のブランクがある。これは何を意味するのか。
私がどうしても納得のいかない事がある。それは児玉のヒントの内容と、銅板の発見と入手の順番である。
児玉のヒントとは『 めざす物はこの深さだ』と示した約二間( 3.6M )の深さと、『 赤城、榛名、武尊山を結ぶ不動の線に心せよ』『 角田源次郎の井戸に気をつけよ』である。
この『 源次郎』がおかしい。そもそも水野義治は『 井戸を掘れがわかる』という言葉を聞き赤城に乗り込んできている。赤城に移り4~5年途方に暮れていたにせよ、当時山麓の聞き込みをすれば源次郎の井戸はあったはずである。その水野にあらためて直接的な「 角田源次郎の井戸」とヒントを与えたとは思えない。
この児玉からのヒントが事実であれば、中島蔵人から聞いたとされる『 井戸を掘ればわかる』が怪しげなものとなる。
そう考えると、中島からの言葉があったとすれば『 幕府の御用金は赤城山麓に埋蔵した』という内容で、児玉のヒントも『 源次郎の井戸に気をつけよ』ではなく、『 双栄寺に心せよ』ではないかと思う。なぜならばこの埋蔵金の謎解きが偽装にせよ、双栄寺が起点となり、謎解きが始まるからである( 私の銅板から解読した「 一将を得る」とは双栄寺から源次郎の井戸を示すものである)。
「  角田源次郎から入手した買上覚え帳 」
武士の集団から帳面をつけるよう言われたとあるが、仮に埋蔵金の埋蔵作業であれば理解しがたい。秘密裏が欠ける。また、炭焼きを生業としている源次郎と達筆な覚え帳とはあまり結びつかない。
群馬県勢多郡津久田村( 現、渋川市赤城町)の出身で日本文学者の角田柳作の生家の資料を見ると覚え帳同様の帳面が何点かある。しかしこれはあくまでの豪農の家産形成に係るもので、ある程度の教育を受けたものでなければ記帳は無理ではないだろうか。
物品の調達能力からからしても源次郎は津久田村同様に角田の姓が多い沼田城下の商人の手代などではないかと推理する。それは同村内で源次郎の縁者の記録がない事でも推測できる。また、実際の埋蔵や偽装工作にしても地場の代官や沼田藩が多少なりとも協力をしなければ到底無理なことではないかと思う。

「 諸々を加味して推理する」
水野は先ず、『 双栄寺に心せよ』から、寺の役僧を拝み倒して独自で境内を探索したか、共に探したかして、まず銅板を手に入れた。しかし、この難解な銅板の絵図や文字を全く解読( 理解)できなかったのではないだろうか。それどころか、銅板の中の偽装工作でもある赤城津久田原に発掘者を執着させる簡単な偽装すらもたどる事もできかったのではないだろうか。そんな水野を見て、発掘者を赤城山麓に誘導するため、児玉は二度目のヒントを与えたのではないだろうか。それが『 源次郎の井戸を掘れ』ではないかと思う。
実はこの銅板、偽装工作へ導く作為も書かれており、双栄寺から源次郎の井戸にたどり着くことは難しくないのだ。この作為に色々な人が翻弄されたことはここに記載するまでもない。しかし、赤城山麓に埋蔵金があるとすればこの銅板は唯一の手掛かりであることは間違いない。畠山もこれは見抜いており、学術調査と偽って割符の銅板探しに双栄寺の天井の中まで調査をしている。
そしてまた、児玉が今際の際に「 大儀兵法秘図書」を水野家に渡し残したのも、今以上この場所に執着させる為ではなかろうかと思う。なぜ執着させるかは二通りの考えがある。いつまでも偽装に翻弄させること。そしてこの埋蔵金話が長きにわたり伝承されることである。そういう意味ではこの児玉惣兵衛なる人物の策は成功していることになるが、私は児玉自身も埋蔵場所は知らなかったのではないかと思っている。

「 水野健三郎と中島蔵人」( 文政武家事情)
作り話をする場合、すべて嘘をつく事は難しく、少しは本当の事があるものである。
私はこの真実を捜してみた。そして埋蔵金話をどうして知り得たかを推測した。これを徹底して調べたからこそ、その後の埋蔵金調査に没頭できたのである。

文政6年〈 1823年〉
七番組大御番頭、永井信濃守直方配下、組頭水野健三郎という者がいる。住所は牛込小日向小石川の内、三百石高、役料百俵の幕臣である。決して旗本ではない。
この人物は、畠山清行著の『 日本の埋蔵金』にさし絵で出ている水野健三郎としている画像の人物ではない。それは衣装である素襖と侍鳥帽子より判明する。この衣装は布衣以下三千石以上と三千石以下御目見以上勤仕の者と決められた身成である。そして、同時期には三千石以上の旗本に水野健三郎名は存在しない。

 

天保4年〈 1833年〉
組頭水野健三郎の近所に〈 牛込神楽坂小日向の内〉御勘定吟味役御殿詰頭を務める中島平四郎という者がいる。        
天保14年〈 1843年〉
中島平四郎は依然として同職にあるが、水野健三郎は同年の武鑑には載っていない。中島は、天保九年に同牛込内にて転居している。〈 この年以前に水野健三郎が没か?〉
水野家伝承事が正しければ水野の妻と中島の再婚はこの時期かと思われる。その際に中島は水野家に越したことが推測できる。以後、中島は佐渡奉行、御徒組頭を務め慶応2年まで同職にある。
私は水野家に埋蔵金の話しが伝わったとすれば、この中島平四郎の関係からと見ている。後に詳しく記載する。
この実在人物等を伝承事内容と確信しているのは、名前、住所、役職、家族事情からしても伝承事に実在のものを近づけるのであれば、この二人の他には幕末存在しないからである。   ただ一つ水野家伝承事と、どうしても合わない事がある。それは水野智義の年齢である。私は水野健三郎の死を天保9年前後と見ている。( この年以前の武鑑にも既に水野の職制は載っていない。)仮に子供がいたとしても幕末には33~35歳ぐらいであり、水野家の伝承事に出てくる、幕末期の水野智義〈 16~17歳〉とはあまりにも年齢が違ってくるのである。
水野健三郎と中島平四郎の子を調べているが、智義なる名前を今以て見つけていない。ただ智義の語りで父とされる水野健三郎は、幕末この水野健三郎ただ一人なのである。そして義父となった近所に住む勘定吟味役の中島とは、この中島以外に考えられないのである。現在の水野家初代の智義がどうして中島平四郎に近付けたかが疑問である。もしかして、智義は智義を知っていたのかも知れない。
幕末、中島は65歳の高齢である。老い先短い老人が「 身内を知っている者」仮に智義の友に昔話のように埋蔵金の事を語ったとしても、不思議ではない。
又、この中島が本物の智義の養父であれば、本当の水野家の家財を所持していても不思議ではない。そして中島没後に家財が「 身内を知っている者」に渡ることも十分考えられる。
横浜の赤城山埋蔵金詐欺事件( 別項記載)もこの語りを聞いて中島の名前を騙ったの者の仕業であるかもしれない。この事件後、ほとぼりが冷めるのを見て、自らも赤城にも行ったのではないかと見ている。この時期はかなりの人が赤城山に埋蔵金探索に入り込んだとされているからだ。 この詐欺で得た金さえあれば、十分調査出来たはずである。
本題の戻るためこれ以上の詮索はここで終止するが、幕末の混乱期、人の名前を騙ったり、人の家系を自分のものにすることは、造作もなかった事を記しておく。

赤城山埋蔵金詐欺事件
中島蔵人や水野健三郎、水野智義の名前は後々の別の埋蔵金詐欺事件にも登場する。聞書き猪俣浩三自伝の中の「 赤城山埋蔵金事件」である。この事件の主人公である。
「 聞書き猪俣浩三自伝の中の赤城山埋蔵金事件」
事件の主人公である猪俣浩三( 弁護士)の師、関儀一郎が詐欺容疑で裁判沙汰になったのは、元はと言えば昭和3年に雑誌で発表された水野智義の一代記が発端である。
すなわち「 赤城山埋蔵金事件」に登場する中島蔵人も水野健三郎、水野智義も鉄道工事受注の話も、慶長大判の話も、360万両埋蔵金も、甲府城御金蔵の金財埋蔵の件もすべてが二代目水野義治の語りが元で何ら根拠がないのである。
猪俣氏が事件の発端である水野家の埋蔵金物語を検証したものでもなく、事件の記録( 記憶)を語っただけであり、自身が赤城山の埋蔵金を調査したわけでもない。ただ関儀一郎が埋蔵金のとりこになり、詐欺まがいをした事は事実であり、その為、裁判官などと同行して榛名山中腹を実証検分したようである。
参考までにこの事件の公判の陳述に登場する、中島蔵人と水野智義( 初代)は叔父甥の間柄である。
中でも、水野智義が埋蔵金発掘を始めるきっかけとなったなった鉄道工事に関する詐欺事件の事を下記の様に記載をしているが、この内容も辻褄が合わない。すべては義治の語りなのだ。
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「 明治の初年頃、横浜東京間の鉄道工事を請け負った中島蔵人という男がいた。彼は小栗上野介の家来で、その出納役を勤めていたという過去があったという。中島蔵人は工事を請け負うにあたって、慶長大判一枚を手付金代わりに渡し、顧問役のお雇い外国人を喜ばせて、首尾よく許可を受けたとのこと。その西洋人が補償金として、さらに慶長大判を求めてきたので、中島は赤城山に赴き、埋蔵金を掘りだそうとした。けれども、宝の場所が発見できず、詐欺罪で、お雇い外国人から訴えられた。
★お雇い( 御雇)外国人( おやといがいこくじん)とは、幕末から明治にかけて、欧米の技術・学問・制度を導入して「 殖産興業」と「 富国強兵」を推し進めようとする政府や府県などによって雇用された外国人。
結局、中島蔵人は、横浜の牢屋に、2年ばかりぶち込まれた。その間のごたごたで中島は甥にあたる水野智義に、金銭上、多大な迷惑をかけた。明治8年に、中島は京橋の旅籠屋で、零落のうちに死んだ。しかし、その臨終の席で、枕頭に坐した水野智義に、中島は重大な秘密を明かした。
さて、苦しい末期の息の下から漏れた、意外な告白とは・・「 自分は勘定奉行直属の配下であった。だから、小栗上野介のやったことは何でもよく知っている。元治元年( 1864年)頃、小栗は江戸城にあった360万両の大判小判を、深夜ひそかに運び出した。大伝馬船八艘に積み込み、利根川を上ると、上州倉賀野と川俣との中間地点で陸揚げした。小栗がその金をどこの隠したかは存ぜぬ。だが、赤城山中だという事は確かな伝聞だ..」
この詐欺事件が横浜の新聞に出たという事が事実であれば、中島蔵人という人物は中島平四郎の役職を騙ったの者の仕業であるかもしれない。
畠山もこの横浜の詐欺事件の事は『 日本の埋蔵金』に書いているが、その内容は明治六年の東京日日新聞( 本書に添付)にでた赤城山麓で西洋の井戸掘り機を用いて埋蔵金発掘を試みた三四名の記事と混同している。ただ言えることはこの記事にあるように、この時期はかなりの人が赤城山に埋蔵金探索に入り込んだようで、詐欺師が出てくるのも当然かもしれない。

明治6年、西洋式の掘削機を持ち込み赤城山麓で埋蔵金を掘った記事
 


「 語り」
伝承事を語った二代目水野義治とはどういう人物なのか。時代は少々違うのではあるが、私が小栗上野介を調べるにあたり参考にした本がある。木屋隆安著『 幕臣小栗上野介』である。その木屋氏が時事通信前橋支局長時代、水野義治氏に会った時の談話を著作に載せている。
『 著者も前橋在勤時代、取材の為に二度ほど義治翁をたずねたが、最初のときは話しを聞いているうち、本当に胸がわくわくした。囲炉裏にほたをくべながら、義治翁が一片の土のかけらを大事に取り出し、「おぬしはわりと信用できそうじゃから教えてやるが、この土くれはの、〃三州たたき〃ちゅう物だ。徳川家築城の秘伝の一つで、粘土と赤土、それにしっくいを混ぜてこね、そして焼くんじゃが、こね具合、焼き方でこんなにコンクリートより固いものができるんじゃ。江戸城蓮池御金蔵の壁も、これでつくってある。ちとやそっとの爆弾を仕掛けてもピクともしない。わしはこの〃三州たたき〃を実は昨日やっと掘りあてた。隠し金蔵の壁というわけじゃ。ここさえ破れば小栗さんが隠した黄金はわしのもんになるんじゃ。よいか、お主、決して誰にもしゃべるじゃないぞ」。…と打ち明けられた時には、心臓が早鐘のようにときめいた。恐る恐る、「 それでお金はいつごろ出るんですか」とたずねたら、義治翁は鋭目つきでジロリと周辺を見回し、「 そうよのう、あと一週間くらいじゃ」と教えてくれた。
それから七日後、筆者は食料品やお酒をしこたま買い込み、義治翁の世紀の大スクープ記事の〃独占取材〃かたがた陣中見舞いに出掛けた。その時である。筆者がまるでタイムトンネルをくぐっているかような錯覚に陥ったのは。
義治翁が七日前と全く同じ動作物腰で筆者に接し、表情もしゃべる内容もまるっきり同じだったのである。
義治翁が小用に立ったすきに、筆者は素早く件の〃三州たたき〃を欠いて、その小さな破片をポケットにしのばせた。後で、その土くれを群馬大学工学部で分析してもらったところ〈 炭を焼く時窯底にできる土のかたまり〉と判明した。そこでひそかに義治翁の掘った穴を調べたら、いずれも以前炭焼き窯のあったところということが分かった。がっかりしたが〈まあそんなことだろう、でもあのじいさんにとっては掘ることが生き甲斐なんだから〉と、それっきり赤城村の津久田原のほうへは足を運ばなかった。義治翁のことも埋蔵金のことも頭からはなれ、小栗上野介のその人のほうに関心が移りはじめていた。
それから半年くらいたった冬の夜、前橋市の郊外敷島公園にある筆者の家へ、突然義治翁がたずねてきた。いちおう応接間に通したら、いきなり彼は懐から紫色のふく紗で作った刀袋を取り出し、「 有体に言うが、資金難になったのじゃ。大きな声では言えぬが、ついに今日隠し金蔵の外壁を掘りあてた、これは〃三州たたき〃ちゅう壁のかけらじゃ、今一歩のところで資金が切れた。そこで相談じゃが、この先祖伝来の国光の短刀を十万円で売りたい。お主も知っての通り、わが先祖は四千二百石取りの三河の大旗本じゃ。じゃからこういう名刀もあるんじゃ。二百万は軽いこの国光、どうじゃお主買え」といって、ふく紗袋から一振りの短刀を、土くれとともに筆者の前にほうりだした。銃砲刀剣類登録証はもちろんないが、ナントカに刃物で、断わるとこの老人何をしでかすか分かったものではない。第一、筆者の家を捜し当てたことも薄気味悪かった。不安になったので青い顔をしている家内に、あり金全部持ってくるように言い付け、筆者も財布の底をはたいた。全部で八万五千円。黙って渡すとちゃんとえ、「 ふん、一枚たりんのう、まあええわ、その刀手入れを怠るな」・という下りである。
当然、刀は国光ではなかったそうだが。読者はこの水野義治をどのように思われるであろう。
先に記載した『 徳川埋蔵金伝説』の著者八重野は、この義治の話しを主体にしている、また同様に義治の話をもとにした上毛新聞の『 赤城埋蔵金物語』も参考にしている。八重野がこの義治に会っているのが昭和46年。木屋氏が会っているのがそれ以前の40年頃である。おかしな言動が悪化していないとは誰が言えよう。
参考までに畠山清行のルポルタージュ 埋蔵金物語も義治の語りが元ではあるが、これも昭和36年頃の話なので昭和40年頃の義治とそう変わりはないのかと思うが、畠山は昭和初期から赤城を訪れており、義治の事を理解した上で書籍を書いているのだと思う。また、昭和48年刊行の『 日本の埋蔵金』の内容は、三代目〈 義治の弟〉愛三郎が初代智義の日記など再度見直したものを聞いて参考にしたと言われるが、これも誇張が多く嘘偽りも多い。TBS同様に当然畠山は「 脚色だらけの伝承」に気がついていたと思うが、そのまま書いた事が畠山氏の『 おとり』であるかも知れないと私は思っている。

「 水野家の伝承事に出てくる林鶴梁について」
TBSが埋蔵金発掘番組を放映中、長尾三郎著『 対決』の中心人物、中居屋重兵衛(横浜の大商人)を埋蔵金に関わりがある人物としたり、長尾の林鶴梁考察を取り上げ、埋蔵金輸送まで林の関わりがあるとしている。
長尾の著では「 林鶴梁は元々長野豊山、松崎慊堂に師事した儒学者で、その学識、文才はつとに知られ、水戸の藤田東湖、相沢正志斉らとの知友関係から徳川斉昭の信頼が厚い。その一方で蘭学系の川路聖謨、のちには越前の橋本左内らとも交友があり、幅広い人脈を保っているが、傲ることがない態度からは若かりし頃、麻布あたりで林鉄蔵と言って恐れられた侠客だった事は誰も信じられなかった....」とあり、この内容を元に中居屋の絹の商いルートが利根川を使った群馬―横浜とした上で、埋蔵金の運搬はそのルートであり、人夫は群馬の侠客の大前田栄五郎の配下を使い、林鶴梁に関係すると述べている。
〈 林鉄蔵〉如何にも強面の名前のように聞こえ、若かりし頃名乗っていたと書かれているが、林鶴梁は侠客でもなければ、鉄蔵は若い頃だけの名前ではない。鶴梁は13歳で井田蘇南を介して幕臣中山彦左衛門宅に在して勉学を始めている。また、17歳で長尾赤城に師事し、友人藤森天山もこの時期に得ている。19歳で藤森らと【 今人詩英】などの出版しており、その後長野豊山、佐藤一斎、松崎慊堂に師事している。その後27歳で谷町同心となっている。鉄蔵という名前だが伊太郎が幕臣として使う名前であれば、鉄蔵は通称である。その証拠に奥火之番に昇進した天保13年の36歳の時でさえ廣益諸家人名録には、儒学道 鶴梁名長孺...麻布片町林鉄蔵とある。
私にとって長尾の林鶴梁の認識度合いなどどうでも良いのだが、こと埋蔵金を絡めて語るのであれば史実も調査せず、小栗上野介~林、小栗~村垣淡路守~中居屋~佐久間象山~林、井伊~中居屋~勝海州などと人脈を安易に結びつけることは避けてもらいたいのである。おそらく鶴梁が侠客であったと言う内容も「 近世上毛偉人伝」「 上野人物誌」「 上毛外史」などからの抜粋だったと思う。先にも記載したが、明治維新後に書かれた書籍は「勝てば官軍何とかで」廃藩置県で地方に赴任した官軍( 薩長軍)上がりの歴代の知事史同様に地方史の虚実を理解して置く必要がある。

ここで林鶴梁の略歴について述べると、 国史大辞典にあるような鶴梁は旗本の生まれではない。本名西川伊太郎上州群馬萩原の地主の生まれである。
幼少の折、玉井宿の井田家に預けられ井田蘇南に師事、12歳の時に大病して一命を取り留め、医術に感動し二宮東貞に医術を学んでいる。その後、井田の口添えで江戸に出て、幕臣中山孫左衛門宅に在し勉学する。援助もあり時俗御家人の株を買い、林の姓を名乗るようになるのである。
 また国史大辞典には辞職後も藤田東湖、藤森天山、橋本左内らとの交わり、尊王攘夷を唱えたとあるが、鶴梁が辞職したのは正確には明治元年幕府寄合衆の職である。仮に学問所頭取被仰付だとしても、御免した元治元年12月12日( 1864年)だとしても、すでに3人とも亡くなっているのである。どうしてこのようないい加減なことが載っているのか。これが歴史学の偉い先生の監修なのだからあきれてしまう。
鶴梁は前記のように旗本でもなく特に大きな後ろ盾があったわけでもないが、確実に出世していることは間違いなく、その役職を見てもやはり逸材であったことは分かり、学識に優れていたことも分かる。が、どうも私には中泉代官以降の行状が気にかかるのである。鶴梁の人物像として参考にさせていただいた「 小伝林鶴梁」の著者坂口築母は、このようなことを述べている。「鶴梁は江戸にあって仕事の度に単身任地に着くという生活であった。ただし不思議なことに安政の大獄に連座し処刑される同胞を任地にあって 知る運命は一体何を意味するのか。この際、摩憶測は慎むべし」とある 。
実はこの事、私が推理する重大な裏付けとなった。また、坂口はこの柴橋代官後の鶴梁の行状は定かではないとも言っている。これは鶴梁日記が文久元年1861年以降欠本しているためであり、その意は不明である。1861年と言えば万延改鋳の頃で、私が推測した地金を残した時期と同じである。
また、坂口は袖珍有司武監( 元冶元年版)によるとして、鶴梁の昌平坂学問所の役職を載せている。儒学者衆7名。教授方出役 林国太郎ほか。学問所頭取 林伊太郎ほか6名。伊太郎( 鶴梁)は和宮付き兼任。
私は坂口とは違う見方をしている。埋蔵金を推理する上で重要な事と思えるのは橋本博編の大武鑑参考よると、学問所頭取が学問所世話心得頭取とあり、上記7名のほかに、栗本瀬兵衛、新見相模守、が見られることである。
この栗本瀬兵衛は上野介の兄弟子( 艮斉塾)であり、最も親しい間柄の人物である。
また、こちらの武監には昌平学問所の教授方出役の役職もなく、林国太郎の名前もない。学問所世話心得頭取の役職が、麹町善国寺の創設した学問教授所にあるので、鶴梁も国太郎もこちらの所属ではなかったのかと思う。いずれにしても人間関係を調べるには細かな注意が必要である。
よくある埋蔵金説の中で林鶴梁が井伊直弼の腹心であるなどと言っているがとんでもないことである。方や彦根藩の藩主であり林鶴梁は一介の幕臣である。何らかの繋がりがあるなら必ず中に入る人間がいるはずである。
ただ私が調べた範囲では小栗上野介と林鶴梁は直接的に関係のある命令系統でも不思議ではなくこの可能性を調べてみることが大切なのである 
林鶴梁は文久三年、河津三郎太郎が新徴組支配を転役して、代わりに支配となる時、河津と松平上総介、岩田緑堂、安井息軒等を浪士統制の目的で召し抱えとなるよう登用しいている。 この新徴組の大きな後ろ盾となっている酒井左衛門尉は上野介ともつながりがあり、また河津三郎太郎こと河津駿河守( 伊豆守)は後の外国奉行、外国事務総裁、勘定奉行( 並)であり上野介を慕う後輩なのである。そして鶴梁と上野介の繋がり推理する上で重大なことがもう一つ。実は鶴梁( 伊太郎)が幼くして過ごした玉村は小栗家知行地だったことである。すなわち村人である伊太郎にとっては小栗家は御領主様なのである。

林鶴梁と上野介
さて逸材なる上野介は誰に師事したかと言うと、8歳の頃より安積艮斉塾( 小栗邸内にあった)にて和漢、洋学を受けている。いかに非凡であったかは、前記の御両番( 今の上級国家公務員試験)入りを21歳で果たしているのだからお分かりと思う。家庭に恵まれていたこともあるが、父忠高の役柄を抜いてしまう度量は幕府困難の時節柄からして見逃すことはできない。
そしてこの父忠高もあるいは人間関係で埋蔵金に絡んでくるのではないかと私は見ている。忠高は幕末下記を歴任している。
天保14年1843年 御使番衆
弘化4年1847年御留守居番
寛永4年1851年御持筒頭
寛永6年1853年新潟奉行
寛永7年1854年御持筒頭
この翌年、安政2年1855年上野介が小栗家を継ぐのである。
井伊直弼、林鶴梁、中島平四郎、水野健三郎が忠高と同年代であり、職制がどういう人間関係になっているのか理解しておくことが本書での埋蔵金推理解説のポイントでもある。
特に忠高が新潟奉行の時、同時期における中島平四郎の幕府職が佐渡奉行というところである。
上野介の師、安積艮斉を中心に儒学系図を考察すると重要なことが見えてくる。上野介の人間関係と共に添付する。

 
黄金の行方 徳川幕府の埋蔵金 改訂版その3に続く


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