徳川幕府の埋蔵金

世界は荒廃の入り口にある。気候変動、戦争、飢餓、疫病、貧困、格差。今こそ埋蔵金が世に出る時ではないだろうか。

黄金の行方 徳川幕府の埋蔵金 改訂版その3

2024-04-07 14:15:26 | 冒険探索

林鶴梁と上野介
さて逸材なる上野介は誰に師事したかと言うと、8歳の頃より安積艮斉塾( 小栗邸内にあった)にて和漢、洋学を受けている。いかに非凡であったかは、前記の御両番( 今の上級国家公務員試験)入りを21歳で果たしているのだからお分かりと思う。家庭に恵まれていたこともあるが、父忠高の役柄を抜いてしまう度量は幕府困難の時節柄からして見逃すことはできない。
そしてこの父忠高もあるいは人間関係で埋蔵金に絡んでくるのではないかと私は見ている。忠高は幕末下記を歴任している。
天保14年1843年 御使番衆
弘化4年1847年御留守居番
寛永4年1851年御持筒頭
寛永6年1853年新潟奉行
寛永7年1854年御持筒頭
この翌年、安政2年1855年上野介が小栗家を継ぐのである。
井伊直弼、林鶴梁、中島平四郎、水野健三郎が忠高と同年代であり、職制がどういう人間関係になっているのか理解しておくことが本書での埋蔵金推理解説のポイントでもある。
特に忠高が新潟奉行の時、同時期における中島平四郎の幕府職が佐渡奉行というところである。
上野介の師、安積艮斉を中心に儒学系図を考察すると重要なことが見えてくる。上野介の人間関係と共に添付する

 

 赤城山麓の穴の検証

本書の初めにTBSの手紙を添付した中で、水野家の伝承の矛盾点や中島蔵人の詐欺事件の内容はご理解いただけたと思う。また、7つの銅板の解説の前に、やはりTBSの手紙の中で当時の発掘内容と、テレビの発掘が似ていると申し上げた点について説明をする。
昭和48年に刊行された畠山の「 日本の埋蔵金」の下巻に赤城山の埋蔵金の話が出てくる。その中で、竪穴に降りる三代目の水野智之の写真がある。私が二度目( 10歳の頃から)に赤城山麓で埋蔵金の探索をした際、水野家に尋ねたのは33~4年前頃( TBS番組が始まる数年前)だったと思うが、水野氏は丁度留守で無断で縦穴を拝見した。その時素直に思ったことは「 なんだ、何もしていないのか」であった。その訳はその場所の写真が昭和48年のそのものだったのだ。

( 埋蔵金発掘番組で見つけた穴について)
埋蔵金発掘者の水野氏の伝承によれば、初代智義は現在の発掘場所周辺を総掘りしたとある。番組ではその総掘りをした時の人夫として、近在に住む青木老( 84歳)を登場させ、当時総掘りした時には番組で初めて見つけた竪穴がなかったと証言をさせていた。平成5年の事である。
しかし、これは矛盾する。この青木老が仮に15~16歳で人夫として働いていたとしたら、総掘りの時期は大正末期になり、総掘りの伝承時期の明治20年頃とは違いすぎるのである。また、この時期( 大正末期)は畠山清行が初めて敷島村に訪れた時期でもあり、その時でさえ、幕末期の事情を聴いたのは70歳過ぎの古老たちと4~50代の親から話を聞いた世代である。
TV番組では竪穴の大発見というフレーズをどうしても必要だったのかもしれないが、視聴者を騙すことに倫理的な責任は感じないのであろうか。当時コピーライターの糸井重里を発掘リーダーとして番組を構成していたが、糸井はこれくらいの簡単な計算をなぜ指摘して、青木老の件を没にしなかったのか。やはり、視聴率の事だけを考えた番組であったように思う。また、後々糸井は「 あるとしか言えない」などという書籍名でで発掘模様を記している。彼らの責任は重い。それは埋蔵金探しは子供たちの夢やロマンでもあるからだ。

では、水野智義が総掘りをした時に竪穴はなかったのか。狭い敷地内で見つからない訳がない。答えは二つ、総掘り時に竪穴もあった場合、もう一つは智義は総掘りの前に竪穴の事情を知っていた場合である。
竪穴の事情の場合、ではだれが穴を掘ったのか。
幕府が何らかの事情で掘った場合は智義が知り得ることはない。仮に山麓調査をして、偶然見つけた場合、伝承事として竪穴の周辺を総掘りしたとなるはずである。しかし、そうではない。
となると埋蔵金の発掘として誰かが先に掘り、智義はその事情を知っていたことになる。その誰かとは、先の章で記載した埋蔵金の詐欺事件の際かもしれない。又は新聞記事にあるような有志の集まりかもしれない。
しかし、その場合、掘った穴に埋め戻しをするかという疑問も残るが、水野が先人の掘り起こした周辺を掘る場合、残土を竪穴に埋め戻をした方が楽であることは間違いない。

 赤城山麓幕末事情
前橋から沼田藩に続く道は旧沼田街道であり、赤城山麓南面を走る。水野の発掘現場も街道から近い。
幕府は薩長との戦いの最終戦を日光東照宮と考えた節がある。その場合、通常の日光街道と沼田から片品―丸沼―菅沼―日光湯元から戦場ヶ原を抜けて東照宮に進む道を死守する事が第一となる。そして沼田からの場合、赤城山麓が最も敵を打ち迎える良い場所なのである。
県史はこう載せている。「 文久3年( 1863)夏、赤城山麓で桃井可堂が攘夷の挙兵を、また渋沢栄一らが高崎城や岩鼻代官所を襲撃するといううわさが流れ、岩鼻駐在を命ぜられた代官、小笠原甫三郎は猟師鉄砲隊の編成に着手し、村々の有力村民は講武所設置願を代官所に提出した。元治元年( 1864)11月の武田耕雲斎指揮の水戸天狗党の追討荷はその中枢機関として活躍した。慶応元年( 1865)12月、木村甲斐守が新規関東郡代として着任し、上野一国と武蔵五群を支配、それに一万石以下の旗本の知行所村々も管掌することになった。・・・」
この際の作戦として、山麓の沼田街道沿いに奇襲用の隠れ穴や武具や保管に穴を掘った記録がある。場所はやはり秘密であろう。しかし、薩長軍との戦いを考えるとその数や場所は相当なものではないか。

結論として、仮に小栗上野介の采配で金が埋蔵さてたのであれば、その理由の「 なぜ」「 どうして」を考えると、誰でも掘り起こせそうな、赤城山麓の穴は可能性が薄い。だだし、この周辺の穴を囮などに利用することは十分に考えられる。

 

宝の地図( 宝の隠し場所の地図)
宝の地図と言えば宝島の様な図案が目に浮かぶ。小さな島の絵図に山や滝や💀のマークが入り、海賊が隠したという定番である。しかし、よく考えてほしい。仮に、あなたが海賊で、ある島に強奪品を隠すとしたら、島の絵図に💀書くだろうか。島の地形は変わるものでもないし、隠した場所を覚えておけばいいのだからその必要はない。子々孫々に残すものでもない。それよりも必要なものは大海原に浮かぶ島の海図である。小さな島に隠すとしても世界中には何十万という島が存在する。仮に東シナ海という事でもどこかを拠点とした海図が必要なのだ。これが宝島の地図で、島が分かってもどこに隠したかは本人しか分からないようにするのではないだろうか。確かに隠し場所には何かの目印は必要なのだが、島だけの宝島の絵図はありえないのである。
畠山清行の日本の埋蔵金の下巻に出てくる、「日本にもあったキッドの宝」の話は、登場人物の語りが主体であであり、何ら証拠品を著者が見た訳でもない。昭和12年に外務省に送られてきたという、アメリカのトレジャーハンターのトカラ列島(宝島)の探索要望も、実際にあった話かもしれないが、小さな島の絵図( 自国のマガジンに載った絵図)をキッドの宝島と信じたアメリカ人がいて、それを探したいと要望したのであれば、相当おかし話である。
なぜかと言えば、トレジャーハンターの性格は独特の秘密主義であるからである。いずれにしても、宝島の地図で島の詳細は存在しないと思う。

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さて、埋蔵金の話に戻るが、日光の埋蔵金、赤城の埋蔵金に宝の地図はあるのか。
赤城の埋蔵金に伝説には、三枚の銅板絵図と巻物などが登場する。日光の埋蔵金はわらべ歌の中に地図が隠されている。私の知る限り、これらの絵図やわらべ歌を的確に解読した者はいない。
わらべ歌の信憑性は論外として、私は三枚の銅板絵図を本物とみている。本物とはどういう意味か。後々の盗掘者対策として人を騙すつもりでそれらしく作ったものではないという事である。その訳は簡素で難解な絵図には多くの知恵が入っており、そう簡単には作れないからである。これは絵図を解読した者でしか分からない結論である。

私は日光の埋蔵物も赤城山の埋蔵物も必ず存在すると確信している。日光については「 なぜ」が明確であることがその理由で、赤城に関しては曖昧な伝承事や詐欺事件に翻弄はされるが、唯一、銅板の絵図に信憑性があるからである。この銅板絵図が明治維新以降、発掘者を騙す為に詐欺師などが作ったものであるとする説があるが、そうであれば、その作者は気学や易学や遁甲を理解していなければならない、また、現地の地理も把握しなくてはならず、詐欺師など類では到底不可能と言えるのである。

お宝を探す上でもう一点とても重要な事がある。それは、埋蔵場所が先か地図が先かという事である。あなたが大切なものをどこかに隠すとき、まず隠し場所を探す事が普通である。これは、時代が変わっても状況が変わってもそう変わるものではない。仮に日光の場合、東照宮の鐘楼と鼓楼の間( 地下)に伏蔵を作り、そこに埋蔵する。中禅寺湖の二荒山中宮と寺ケ崎の中間地点に沈める。二象( 二蔵)が振り返る地点に埋蔵する。これもすべて場所が先である。

赤城山麓の場合はどうか。これも場所が先なのである。この場に導く為の必要ヶ所に目印( 塔や祠など)を作り、絵図や謎解きを作り、偽装も作ったのである。これは埋蔵地点に立つと分かる感慨深いものである。
この事をよく理解した上で、埋蔵金探しに挑戦してみると良い。その為に出来る範囲で私の解読を記載する。

赤城山麓埋蔵金の解読

七つの銅板絵図
畠山は八門遁甲の「 秘物埋蔵」法が一つの銅板ではなく、また「 割符」の事も考えると2~4枚あると推測して、双栄寺などを探索しているが、何も発見には至っていない。( 後に2枚の銅板が見つかり、現在は3枚が銅板図とされている。)
私が偶然発見したのはこの三枚の銅板絵図をトレッシングした時である。この時に、銅板作者の力量が並大抵のものではないことも確信した。
三枚の絵図とそれに隠されていた絵図を添付する。


 


 



 
 

源次郎の井戸と銅板の解読

源次郎の井戸から徳川家康の像が出たとされるが、一方で家康像ではなく諸葛孔明の像であるという人もいる。私の見解では出た像を問題にはしていない。また、実は何もなかったとしてもいいのだ。
問題は、この井戸が双栄寺から割り出す第一ポイントの一将であるかだ。ではなぜこの井戸が一将なのか。なぜ、わざわざ源次郎の井戸と決めて、源次郎と名乗った男が侍の集団に物資を供給したのか。私の知る限りこの事を解読した者はいない。
その答えはこの場所( 井戸の位置)の風化をなくし、この源次郎という名前を記憶させることに意味があったのだ。そういう意味では150年後の私たちがこの場所を源次郎の井戸と認識しているので成功している。

読者は徳川家康の正式名をご存じだろうか。それは、徳川次郎三郎源氏朝臣家康又は源朝臣徳川次郎三郎家康である。
すなわち源( ミナモト)次郎( ジロウ)は源次郎( ゲンジロウ)であり、家康で、間違いなく一将なのである。
第一ポイントはすぐに解読できる。しかしその意味を知れば銅板絵図に源次郎の井戸を隠し入れた作者がいかに優れた人物かは想像できる。

解説
銅板の十干、甲~丁の中で、隠れている数字は五だけである。
気学や易学でこの五の意味は中央であり、土であり、太極でもあり、物事の始まりの一、または一将と考えても良い。
すなわち隠れているのは将であり、一が重要な意味となる。
戊己庚の中で五が隠れているのは己である。
始めの一将を探すには双栄寺( 銅板の隠されていた場所)を起点( 中心)とみるのが妥当で、起点から己の方向は南南西の方角である。
距離をどう考えるか。これは一である。一町か一里かで考えると一町は河土手となるので、残るは一里だけである。
定規を当てて南南西を見ればその先には源次郎のが井戸がある。しかし、直線距離は3.2キロである。
そこでもう一度銅板を見直す「 右一二ト記シタルハ方度足斟ノ両用とトス」とある。
もしやと思い双栄寺から旧沼田街道を歩いてみた、すると曲がりくねった距離は源次郎の井戸まで丁度一里あったのだ。
足斟は街道を歩くることだったのだ。
一里とは3.927キロメートルの事である。( 3.927キロは1891年の度量衡法で定められた数字ではあるは江戸後期には1里36町2160尺の距離に定着されたものであり、大凡現代の数字と変わらない)
十干の己の意味は、紀であり糸のもつれを解す、己は謎解きの初めでもあるのだ。これで銅板上の双栄寺から源次郎に井戸にたどり着いたとは言えないだろうか。


 

銅板の数を分かり易く数字にしてよく見ると1~9までの
数字がすべて2回ある。これは繰り返しが2回、遁甲が2回繰り返されるという事である。
すなわち、太極の将も二つあるという事でもある。また、甲~庚の中に将を得て分かる七臣も隠されているという事である。
そして数の並びにも大きな意味がある。
甲 186
乙 297
丙 318
丁 429
戊 53〇
巳 64〇
庚 75〇

この数字は先の日光編でも添付した九星の運動法則( 遁甲の並び)で、すべての数字が西から東を意味している。仮に〇に1,2,3と入れても変わらない。
遁甲の並びとは上が南、下が北、右が西、左が東しである。


 

銅板の解読②

七臣を探すには
銅板の戊己庚で数が続くとした場合の〇の部分がある。これを順に入れると1、2、3となる事は先に述べたが、この合計を6として考えた場合、甲から庚までに隠れていた数は5と6となる。この11という数も謎解きに絡んでくる。
甲から庚までを素直に七臣と考え、まず庚を探す。銅板方位図の庚の方向は北北東または北東である。これは一将( 源次郎の井戸)から沼田街道に進む方向である。丁度二里の所に十二山神社( A)がある。これで源次郎の井戸から直線的に双栄寺に向かう中心にある十二山神社( B)が意味ある存在になる。これは十二山神社( A)を探し出すヒントなのだ。
一は万物の始めで一里進み、今度は二里進んだことに意味があった。銅板秘文の『 右一二ト記シタルハ・・』とはこの意味もあったのだ。推論として、十二山神社( A)を一臣と考える。
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筆者はこの銅板から二つ目の将も残りの六臣も解読している。読者も分解した銅板絵図を参考にすると良い。きっと答えが出るはずである。
本来であれば本書に明記すればいいのだが、現地やトレジャーハンターに混乱を招くので割愛するが、記載できる範囲で付け加えるならば、銅板の中心は常に変化するという事が最大のポイントである。また、銅板に書かれている文字や記号は全て正確であるという事。
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残りの六臣を探すヒントとして、星座を参考にすると良い。当初、私は七臣を北斗七星に重ねて考えていた。訳は北極星を探す手段でもあるからだ。北極星、すなわち太極で全ての中心でもある。これは将( 徳川家康)と共通する。
「 東照宮再発見」の著者、高藤晴俊氏はその書籍の表紙に使われた、宵闇の日光陽明門と背後に鎮座する北極星について、こう述べている。幕府の聖地日光は、江戸のほぼ真北に位置する。そして、南面して建つ東照宮の陽明門の真上には不動の北極星が輝き。星々はこれを巡る。すなわち、江戸城・東照宮・北極星を結ぶ、南北軸線を中心にこの世の全ては運行するとの、壮大なコスモロジーである。
日光や赤城の埋蔵金を探索する上で、東照宮の意味を理解しておく必要がある。トレジャーハンターを目指すのであれば、是非一度、「 東照宮再発見」を読むと良い。
私が推理に用いたもう一つの星座図、それは高松塚古墳に残されていたものがヒントになった。特に北極星を囲む四輪( しりん)と斗( 北斗七星)の位置である。読者もよく勉強して理解して貰いたい。


 

銅板の解読➂
不動の三点を理解するには四柱推命学の三合を理解すべし。
三合とは円状の十二支が三角形で結びつく干支の組み合わせの事で、各々の意味がある。日光の章で申し上げた亀甲目も三角形が二つ重なったものである。
この銅板に隠された場所は榛名、武尊、赤城の不動のものと大いに係わりがある。という事は、水野家の伝承に出てくる児玉惣兵衛( 実名は不明)なる人物は的を得たヒントを水野に与えたことになる。となると、児玉が水野に与えた大儀兵法秘図書なるものの信憑性が高くなるのだが、筆者は拝見したことはない。しかし、その内容に出てくる鳳凰の事は承知しており二将を得た証にもなった。鳳凰は古くから霊長として鳥類の長であり、動乱の世を天下泰平に導く名君( 徳川家康)のシンボルでもあるのである。
日光の章で添付した徳川守護方位と三山の関連方位の図をご覧いただきたい。三山武尊の正反対の三角頂点に世良田東照宮がぴたりと位置する。ここは徳川の発祥地、すなわち始まりの一である。終わりがあり初めに戻る。これは遁甲の意である。私は何度かここの足を運んでいる。興味ある建物がある。また、明治の初期に涸れたとされた井戸もある。
世良田東照宮は江戸から利根川を上り、また水路もあり、容易に物資を運ぶことが出来る。世良田東照宮蔵説も存在する。


 


埋蔵地の推理

三つの銅板に多くの意味を込める。埋蔵金があるなしに関わらず頭が下がる。これだけの事は並大抵の者では出来ない。私は赤城山麓で二将の場所は突き止めている。ただそこが、銅板絵図などを解読した正確な場所であったにしても、果たして埋蔵金が出るかは分からない。掘ってみなければ答えが出ないのである。
謎解きには細かな観察が必要である。決して妥協してはいけないのである。誰も不思議に思わないことも考えてみると答えが見えてくる。例えば、銅板図2の方位図がなぜ正方形の形ではないのか、なぜ中の字が斜めなのか。などである。

夕暮れの赤城山麓、最後の解読
私は冬至の日も夏至の日もあえて選び何度か赤城山麓に行っている。
赤城山麓にある二将は【 ある地点】から夏至に日が沈む方向にある。
真夏、日が沈むと安堵の時間が訪れる。また、冬至の日は太陽が昇ると心身ともに温かくなる。東照宮( 徳川家康)は太陽神でもある。という事は冬至の日の出に意味があるのではと考えるようになった。
赤城山麓の1860年頃の日の出日の入りを調べてみると、冬至の日の出は6:50分頃である。日の出の方位角は118.6度である。夏至の日の入りは19:07分頃方位角は300.8度である。
冬至の早朝、謎解きの始まりである双栄寺に向かう。朝日が昇る時、その方向の谷合の遥か先には赤城山地蔵岳が見えていた。「 あっ」と声が出た。そうだったのか。冬至の日の朝日( 太陽)が当たる谷合の地にある双栄寺だからこそ、ここを始まりとしたのではないか。もしかしたら双栄寺の創建もそんな理由かもしれない。
であるならば、赤城山麓の埋蔵個所は全て偽装工作ではないか。その理由は、日光の埋蔵金で推理した3番目の埋蔵場所が、鶏鳴山から太陽の登る方向であったように、埋蔵金は赤城山にあるのではと推理したのである。
赤城山頂周辺には大沼という湖やその畔に赤城山神社もある。赤城山神社は先の項でも説明をしたが、東照大権現( 徳川家康)が祀られているが、方位に拘るのであれば埋蔵金は地蔵岳の真裏にある太陽のように丸い小沼に沈めるのが最も理にかなっている。金気は水を生じる事は先の項でも説明をしたが、金を水に沈める事は易学的にも正しい扱いなのである。
赤城山麓で偽装工作を仕掛け、同時に伊勢崎か前橋から赤城山頂に埋蔵物を運ぶ。埋蔵物は先の項でも推理した御神木に隠したり、神社に奉納する米や味噌でも疑われることはない。道路もあるし大八車を馬に引かすこともできる。赤城の山麓に油樽を担いで分け入ったとある伝承事よりも信憑性があるのではないか。
小栗上野介は三河以来の旗本である。根っからの徳川に仕えた武士である。知行地でもある上野( こうずけ)に存在する赤城山神社の周辺地理をを知らない訳がない。
小栗の才覚に近づいて考えると、国や民の事を考えて地金を埋蔵したのであれば、その隠し場所は侵略者や盗掘者が容易に近づける場所でもなく、また、盗むこともできない場所であった筈である。
湖に沈める。そんな発想が当時できるか。
ヘルメット式潜水器についてこんな記事がある。1820年にイギリスのゴーマン・シーベが水上から空気を送って潜るヘルメット式潜水器を発明し、日本では1854年( 安政元年)にロシア軍艦「 ディアナ号」が下田港で津波のために大破したときに、はじめてヘルメット式潜水器が使われた。
また、小栗はフランスの公使、ロッシュからこんな話も聞いていたのかもしれない。それは軍事用の潜水艦である。プロンジュール潜水艦は1863年4月16日に進水したフランス海軍の潜水艦。動力( 人力を使わない)で航行する潜水艦としては世界初のものである。
因みに小栗がロッシュと最後に会ったのは慶応3年( 1867年)6月2日の事である。
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結論を言うと銅板の謎解きは決して無駄ではないと思う。謎解きから得た、二将の場所にも必ず何かあると信じている。それは、赤城山地蔵岳から夏至の日に太陽が沈む方角にある【 ある地点】の延長線上の特別な場所に二将が存在するからだ。
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小栗はこんな言葉を残している。
「 病の癒ゆべからざるを知りて薬せざるは孝子の所為にあらず。国亡び、身倒るるまでは公事に鞅掌するこそ、真の武士なれ」

あとがき
宝探しや埋蔵金の話題が出ると今でもわくわくする。つくづく少年期の体験や書籍が潜在的に影響があるかよく分かる。赤城に初めて行った頃から、コナンドイル、HGウエルズ、ジュールベルヌなどを好んで読んだ。少年漫画と言えばスポーツものが主流の時代である。とにかく10歳から13歳ころまでは純粋な成長期だと思う。その後は多感になり、読み物の嗜好も変わり、山や海にあこがれ、恋もするようになる。それだからこそ少年期の3~4年が大切なのだ。
冒険漫画を読んだら外に出て遊んでほしい。スマホのゲームやTVのバライティに毎日の時間を取られることは大切な成長期には極力避けてほしい。子供達には少しでも現実の世界に飛び込んで冒険をして欲しいと思っている。本書はかなり難解なところもあるので、読まれた大人の方が少年期に戻り、お子さんを連れて未知の世界に出かける事を願っている。

 

 

[ 参考文献]

日本の埋蔵金・畠山清行
幕臣小栗上野介・木屋隆安
東照宮再発見・高藤晴俊
謎学の旅・日テレ出版
日本マザーグース・谷川俊太郎
国士大辞典・吉川弘文館
江戸時代における改鋳の歴史とその評価・大塚英樹
小栗上野介顕彰会機関誌
もう一人の明治天皇・水原柴織
小伝林鶴梁・坂口築母
日本語の謎を解く・川崎真治
武鑑
ウキペディア
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30年前、東善寺の村上照賢住職及び日光東照宮高藤晴俊禰宜( ねぎ)それぞれの方から丁寧なお手紙と貴重な資料( 私にとって)を頂いた。末筆ではありますがこの場をお借りしてお礼を申し上げます。
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赤城山の埋蔵金 補足
赤城山麓の埋蔵金伝説の銅板の解読で補足の説明をすると。
①一は万物の始めで一里進み、今度は二里進んだことに意味があった。銅板秘文の『 右一二ト記シタルハ・・』とはこの意味もあったのだ。推論として、十二山神社( A)を一臣と考える。これは一二( イチ二)と( ジュウニ)と解読するのである。
②赤城山頂周辺には大沼という湖やその畔に赤城山神社もある。赤城山神社は先の項でも説明をしたが、東照大権現( 徳川家康)が祀られているが、方位に拘るのであれば埋蔵金は地蔵岳の真裏にある太陽のように丸い小沼に沈めるのが最も理にかなっている。なぜ、丸い池を選ぶのか。これは相輪の考えを知る者であればおのずと得る結果で、榛名、武尊、赤城の三山の頂点にあれば、最も大切なものを置く場所でもあるのである。

本書の内容は物語調ではない。そのものズバリ埋蔵地点を導き出せるヒントを十分に考慮したものだ。あなたが、私同様に日光、赤城の「 ある地点を」探すことが出来た時、願わくば発掘前の一報をお待ちしております。私は協力を惜しまない。
                                              
                                           北村隆至    sensei0211@leaf.ocn.ne.jp              

追記 本書はアマゾン電子書籍でもご拝読が可能です。   「黄金の行方   徳川幕府の埋蔵金」  をご検索願います。                          

 


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