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昭和日本のおバカなテロと戦争 完

ここでいう「人命の犠牲」は、敗戦直後の人びとにとって、抽
  象的な言葉ではなかった。敗戦時に26歳だった加藤は、同年輩の
  友人の多くを戦争で失っていた。加藤によれば、「太平洋戦争は
  多くの日本の青年を殺し、私の貴重な友人を殺した。私自身が生
  きのびたのは、全く偶然にすぎない。戦争は自然の災害ではなく、
  政治的指導者の無意味な愚挙である、と考えていた私は、彼らと
  彼らに追随し便乗した人々に対し、怒っていた」。
   こうして加藤は46年の「天皇制を論ず」で、天皇制を「個人の
  自由意志を奪い、責任の観念を不可能にし、道徳を頑廃させ」る
  原因だと批判したのである。
   (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p134)


 
  ●前線の兵士の飢えと難渋(現在:国民の耐乏生活と企業努力)を
  大本営(現在:政府)は無視し、「大和魂」や「神風」などの戯
  言をもってごまかし続けた。(この戦争の中に、現在の日本の姿
  が全て凝縮されていると感じているのは筆者だけだろうか?)
 
   はじめ第十五軍の隷下にあった龍兵団が、後にビルマ方面の直
  属隷下部隊となり、さらに昭和十九年に、新設された第三十三軍
  の隷下に移ったといったようなことも、当時の芳太郎は、知らな
  かった。師団の上に軍があり、その上にビルマ方面軍があり、そ
  の上に南方総軍があり、そのまた上に大本営があるといったぐら
  いのことは知っていたが、自分の部隊が十五軍の下であろうが三
  十三軍の下であろうが、どうでもよかった。奥州町の萩原稔は、
  上の者がちっとばかり異常であったり馬鹿であったりしたら、そ
  れだけでたちまち何千何方の者が殺されるのが戦争だと言う。大
  東亜戦争はちっとばかりの異常や馬鹿ぐらいでやれるものではな
  く、あれはもう大異常の大馬鹿だが、軍司令官だの師団長だのが、
  自分にできることで、ほんのちょっとでも異常や馬鹿から脱すれ
  ば、どれだけの人間の命が救われるかわからない。その良いほう
  の見本が水上源蔵少将であり、悪いほうの見本が、たとえば第十
  五軍司令官の牟田口中将だと萩原は言った。
   (古山高麗雄氏『断作戦』(文春文庫) p.140)
 
   (龍陵会戦(S19.4~10)撤退のしんがりをつとめながら生き残
  った大竹さんはその手記のなかで・・・)
   守備隊の兵士たちは、マラリアや赤痢にかかり、連日連夜戦い
  続け、飢え、気力も体力も限界の状態にあった。眼は開いていて
  もよく見えない、自分ではせいいっぱい走って突撃しているつも
  りでも、実はヨタヨタ歩きをしているのであって、喚声を上げた
  つもりが、声が出ていない。そんなふうになっている兵士たちに、
  何時までにどこそこの敵陣地を占領せよ、と簡単に命令を出す上
  官が、不可解であった、と書いているが、許せないと憤っていた
  のではないだろうか。勝算もないのに攻撃命令が出され、そのた
  びに戦死傷者をつくった。肉薄攻撃をする敵なら、反撃するが、
  砲爆撃には手の打ちようもなく、ただ耐え忍ぶだけである。一兵
  卒には、防禦の方法も攻撃の方法もない。そのような状態が長期
  間続き、兵士たちは、外見が幽鬼のような姿になったばかりでな
  く、中身も異常になっていた。なぜ、そのような戦闘を続けなけ
  ればならなかったのだろうか。
   断作戦(鳥越注:S19.7、中国雲南省の援蒋ルート遮断作戦。
  またしてもキチガイ辻政信の愚劣な発想)が発動されて、私が龍
  陵周辺高地に着いたころには、守備隊の苦痛は限界に達していた
  のだ。もうこれ以上はもちこたえられない。これが最期だと、守
  備隊の兵士たちが覚悟をしていたギリギリの状態だったのである。
    (古山高麗雄氏『龍陵会戦』(文春文庫) p.270)
 
  ●小田実の回想
   小田がうけた「致命的な傷」とは、1945年8月14日の大阪空襲
  だった。当時は中学一年生だった小田は、恐怖の時間を粗末な
  防空壕で過ごしたあと、米軍機がまいた、日本の無条件降伏を
  告げるビラを拾った。そして翌日の正午、降伏を告げる放送が
  あったときの心情を、小田はこう回想している(『小田実全仕
  事』第8巻64頁)。
 
   私は疲れきっていた。虚脱状態だった。火焔から逃げる
   のにふらふらになっていたといっていい。何を考える気力
   もなかった。それに、私は、あまりにも多くのものを見す
   ぎていた。それこそ、何もかも。
   たとえば、私は爆弾が落ちるのを見た。…渦まく火焔を
   見た。…黒焦げの死体を見た。その死体を無造作に片づけ
   る自分の手を見た。死体のそばで平気でものを食べる自分
   たちを見た。高貴な精神が、一瞬にして醜悪なものにかわ
   るのを見た。一個のパンを父と子が死に物狂いでとりあい
   したり、母が子を捨てて逃げていくのを見た。人間のもつ
   どうしようもないみにくさ、いやらしさも見た。そして、
   その人間の一人にすぎない自分を、私は見た。
 
   小田によれば、そこには「輝かしいものは何もなかった。す
  べてが卑小であり、ケチくさかった。たとえば、死さえ、悲し
  いものではなかった。悲劇ではなかった。街路の上の黒焦げの
  死体ーーそれは、むしろコッケイな存在だった。私は、実際、
  死体を前にして笑った」(8巻65-66頁)。
   空襲の極限状況は、人間のあらゆる醜悪さを露口王させた。
  小田がみた死は、ロマンティックでも勇壮でもないのはもちろ
  ん、「悲しみ」や「苦しみ」などといった抽象的な形容をもこ
  えた、言語を絶した「もの」だった。
  (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p753)
 
  ●「軍神」とか「作戦の神様」とか、何を根拠に賞賛したのであろ
  うか?。
   暗号は悉く盗聴、解析され事実上作戦などはなきに等しかった。
  いい気なものである。
 
  ●日本がましな国だったのは、日露戦争までだった。あとはーー特
  に大正七年のシベリア出兵からはーーキツネに酒を飲ませて馬に
  乗せたような国になり、太平洋戦争の敗戦で、キツネの幻想は潰
  えた。(司馬遼太郎氏著『アメリカ素描』)
 
◎1945年(昭和20年):大東亜戦争(太平洋戦争)終結(以下敗戦前後の補遺)
  ●ヤルタ会談(1945.2.4~)
   ルーズベルト、チャーチル、スターリンの密約でソ連の参戦
  (8.9)が決定された。
  ●ポツダム宣言(1945.7.26)
   天皇:「わたしのことはよい。それよりも和平の道がひらか
   れたのが喜ばしいと思う。戦争を継続すれば、空襲など
   もあって罪のない国民が傷つく。受諾の方向で動いてほ
   しい」。
   参謀総長梅津美治郎、軍令部総長豊田副武、陸相阿南惟幾は
  受諾反対、本土決戦を主張。戦争を知らないアホウばかりであ
  った。
  ●8月14日正午御前会議において日本の無条件降伏が決定された。
  陸軍若手皇道派のクー・デタ計画は宮城占拠まで至ったが、
  間一髪のところで阻止。(阿南陸相自決)
 
  ★「一億総懺悔」:東久邇稔彦(首相)のフザけた戦争責任論
   一般国民の戦争責任については、敗戦直後の首相だった東久邇稔彦
  が、「一億総懺悔」を訴えた経緯があった。・・・1945年8月28日の記
  者会見で、東久適は敗戦の原因の一つとして、闇経済に代表される
  「国民道義の低下」を挙げ、「一億総懺悔をすることがわが国再建の
  第一歩」だと唱えた。しかしこの「一億総懺悔」論は、人びとの反発
  を買った。たとえば、『毎日新聞』への1945年9月8日の投書は、こう
  述べている。
 
   「一人残らず反省」とか、「一人残らず懺悔」とか、一体
  それは国民の誰に向かっていったのか。……終戦の聖断が下
  るまで自分は頑張り通して来た。配給上の不公正や各種事業
  にたいする急・不急の誤認、あらゆる窓口の不明朗など、戦
  力低下に拍車をかけたのはみな官吏ではないか。貴官達はど
  の口で、誰に向って「反省しろ」だの「懺悔しろ」だのとい
  えるのか。自分は涙をもって問う。特攻隊その他戦死者の遺
  族、工場戦死者の遺族も、罪深き官吏と一緒に懺悔するのか。
  反省するのか。
  (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p105)
 
  ★敗戦前後の軍事物資の消滅
 8月20日、マニラの米軍は日本の降伏使節に「一般命令第一号」
  を手渡し、日本軍の全資産は手を付けず保管せよと命じた。東久邇
  宮新内閣は、この命令を無視した。マッカーサー元帥が到着する予
  定日の二日前、日本政府は前述の秘密の処分命令(「陸機三百六十
  三号」:すべての軍事物資の処分を地方部隊の司令官の手に委ねる)
  を取り消したが、すでに処分された資産の所在を確認し回収しよう
  とする努力はまったく行われなかった。当然のことながら、これら
  の物資の所在に関する記録は、もはや簡単には入手できなくなって
  いた。これと同じ時期、日本銀行は「平和的」な生産に転換させる
  という表向きの目的の下に、軍需関係の業者に対して膨大な融資を
  行うことに力を注いでいた。後日行われた調査記録を読むと、影響
  力をもつ人々の非常に多数が、天皇の放送が行われた後の二週間の
  混沌の間に軍の倉庫から勝手に物資を持ち出し、軍事予算や日本銀
  行から急いで代金を支払ってもらえるよう軍需業者や旧友のために
  手を打ったり書類を破棄することに、目が覚めている時間のほとん
  どをあてていたとの印象は拭えない。日本史上最大の危機のただ中
  にあって、一般民衆の福利のために献身しようという誠実で先見性
  ある軍人、政治家、官僚はほとんどいなかった。旧エリートたちか
  らは、賢人も英雄も立派な政治家も、ただの一人も出現しなかった
  のである。
  その後の調査によれば、帝国陸海軍が保有していた全資産のおよ
  そ70%が、この戦後最初の略奪の狂乱のなかで処分された。もとも
  とこれは、本土約500万人と海外300万人余りの兵士のためのもので
  あった。だが、話はこれで終わったわけではなかった。降伏から数
  か月後、占領軍当局は、それまで手付かずできちんと管理されてい
  た軍の資財の大半を、公共の福祉と経済復興に使用せよとの指示を
  つけて、うかつにも日本政府に譲渡してしまったのである。これら
  物資の大半は、建設資材と機械類であり、内務省は財閥系企業の五
  人の代表からなる委員会にその処分を委任した。その総価値はおよ
  そ1000億円と見積もられたが、これらの資財もすぐにほとんど跡形
  もなく消えうせた。1947年8月、国会がこの一連の不祥事に関する
  遅まきながらの調査委員会を開いたとき、証言に立った1946年当時
  の大蔵大臣・石橋湛山は、「1000億円の価値があるものがどこに行
  ったのか知る者は一人もいない」と残念そうに述べている。
 (ジョン・ダワー(増補版)『敗北を抱きしめて<上>』三浦洋一
  ・高杉忠明訳、岩波書店、pp.124-125より)

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  ●結局GHQの日本占領は約6年8か月(1945.8.15~1952.4.28)続いた。
  ●9.11、東条英機自殺未遂。 不細工、ここに極まれり!!
  ●大本営廃止(昭和20年9月13日)
  ●天皇のマッカーサー訪問(9月27日)
   例の歴史的に有名な「気楽なマッカーサーと卑屈な天皇」
  の写真が撮影された。40分の会見は全くの秘密にされた。
  ●陸軍参謀本部、軍令部消滅(11月30日)
  ●陸軍省と海軍省は昭和20年(1945年)12月1日にその歴史の
  幕を閉じた。70余年の歴史のあっけない幕切れだった。
  ●第二次世界大戦が終わって、政府の形を保ったまま戦争を
  終えたのはアメリカ合衆国、イギリス、ソ連、中国だけだった。
 
  ★政党が弱いから軍部官僚の一撃に遭うて直ちに崩壊してしもうた。
  夫れのみではない。吾々は吾々の力に依って、軍国主義を打破
  することができなかった。ポツダム宣言に依って、初めて是れが
  打破せられた。吾々は吾々の力に依って言論・集会・結社の自由
  すら解放することができなかった。ポツダム宣言に依って、初め
  て其の目的を達することが出来た。尚又、吾々は吾々の力に依っ
  て民主政治を確立することができなかった。ポツダム宣言によっ
  て、漸く其の端緒を開くことができた。凡そ此等の事実は、吾々
  に向かって何を物語っているか、遺憾ながら吾々日本政治家の無
  力を物語るのほか何者でもない。・・・将来は再び是れを繰り返
  してはならぬ。(斎藤隆夫)
 
 ***************   ***************   ***************   

 国家権力は国民に対する暴力装置であり、その性格は佞奸邪知。その行動原
則は国民をして強制的、徹底的に情報・言論・行動・経済の国家統制の完遂を
目論むことである。従って異論や権力に不都合な論評や様々な活動は抹殺、粛
清される。畢竟、国家権力とは、国民を蹂躙・愚弄・篭絡する「嘘と虚飾の体
系」にほかならないということになる。
 さらに言えば「戦争」は権力に群がる化物どものオモチャであり退屈凌ぎで
ある。犠牲者は全てその対極に位置するおとなしい清廉で無辜の民。私たち平
民は決して戦争に参加してはならないことを永遠に肝に銘じておかなければな
らない。

 我々は、ヒットラーやその部下、それに多くの若者を無駄死にさせた東条
 英機や大西瀧治郎など軍の上層部が犯した人道に対する大罪を免責すること
 はできない。しかしながら同時に、我々はこうした全体主義的で破壊的な作
 戦に気づかぬうちに加担してしまう我々自身の脆弱さを認識しておく必要が
 ある。戦争に加わった学徒兵やその他大勢の人々だけでなく、我々自身もま
 た、軍事政権の操作を見抜けずに、その巧みな操りにいとも簡単に翻弄され
 得ることを深く認識する必要がある。人々を人類史上の大惨事へと引き込み、
 その政略を誤認させ、気づかぬうちにそれを受容させる歴史の力に対して、
 私たち一人ひとりがいかに脆弱であるか、・・・彼ら(筆者注:学徒兵)の
 本当の姿を、人間性を剥奪された戯画化されたイメージから救い出し、我々
 の知識にすえ直す必要がある。
     (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.52)

日本という怪しいシステム

http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html

大英帝国陸軍元帥~英米日とイエズス会のシナリオでの原爆によって米国に

覇権を与え今日に至っているということは誰も語らないし知らない。

これが正論だ

http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/frame21.html

BY 鳥越恵治郎(とりごえけいじろう)先生

鳥越医院 院長

昭和51年岡山大学医学部卒業、岡山大学附属病院麻酔科研修医、愛媛大学医学部付属病院麻酔科助手、クワヤ病院(高松市)、藤原病院(南国市)、共立病院(西条市)勤務を経て、昭和59年鳥越医院開業、元井原市医師会長。 昭和57年よりAI診断、病名思い出しツールを開発 現在に至る

中央はゴードンさん。右は故市川房江さん
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ライシャワー博士に影響を与えたRUTH FULTON BENEDICTの「菊と刀」


<日本はわれわれの基礎の上ではなく,日本自身の基礎の上にその自尊心を

再建せねばならないであろう>そしてそれを日本独自の方法によって純化

しなければならないだろう。第8章175ぺージ
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下はベネディクトが間違いなく参考(あるいは丸写し)にしたであろう

フランス人・ルイ・カザミアンの著作。代理で書いたという説もないことはない。

なぜならベネディクトは一度も日本を訪れたことがないから。

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真珠の首飾り

https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/ba8e781f3164df58c466333e2f45bd05

 
 
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