生きている、というのは何を求めているのでしょうか。
萌え、という言葉はいつの間にか世間に広まっており、テレビや雑誌に聞くたびに、何だか無性に嫌な気分になるのは一体何故でしょう。
まあそれは2ちゃん語を実際の声で聞くのを嫌悪するのと同じ理由でしょうが。
それはともかく、雑誌でも使われるくらい広く使われる言葉になりましたよね「萌え」という言葉。
しかし言葉が本来の意味と離れて使われる印象がありますが、本来の意味なんてそんなにないような気がします。
だからこそ定義づけなる議論が行われるのでしょう。
「萌え」に関する定義なんて、各人各々が持つ「好き」や「フェチズム」に似た感情で説明は充分だと思いますが、しかしそれらの感情は誰かしら持っている感情ではないのでしょうか。
本格的に「萌え」に語ろうと思ったら中々混み合ってきますね。
しかし必要かどうかに関すれば、必要なゆとりなのではないのでしょうか。
上で「好き」や「フェチズム」に似た感情と書きましたが、それらははっきり言って生きているだけなら必要ないです。適度に食べていれば人間生きられます。
でも僕達は何かしらの無駄を抱えて生きていますよね。
それが趣味、娯楽という訳です。
理解可能不可能関わらず、それらは生きていく上で心を寄せられる意味あるものとなります。
丁度昨日放送のタモリ倶楽部で「電チラ選手権」なるものが開催されていました。有名大学の電車オタク達が電車をチラリと見えるスポットを紹介して、それがいかに素晴らしいかというような企画なのですが、電車はそんなに好きでもないボクでも中々見ごたえがありました。チラリズムはいいものです。
電車は生活する上で便利な移動手段ですが、機種の話となると大抵の人はついていけなくなります。しかし彼等はそうした一般の人には中々ついていけない電車というモノが大好きで、結果奥深い知識と楽しさを得ているのです。
こういった趣味は生活に必要ないどころか、生活を圧迫しかねないものですが、しかし本人にしてみればやめたくない、生きる上でかけがえのないものでしょう。
なくしてしまったら生きる気力が減るのでしょうね。
こうしたオタク的、マニア的行動は気持ち悪いとか言われますが、気持ち悪いと言っている人が逆に気持ち悪いような気がします。
貴方だって何かしら満足を得る手段を持っているのでは?
それがファッションだったり、旅行だったりする訳で、結局は誰も同じような気がします。ちょっと方向性が違うだけ。内面と外面の違い。
少し萌えとは違う方向になってきましたが、結局言いたい事は何を持って生活して、その影響はどこにでるのかということです。
下手に何かを失ってしまえば、失った以上の喪失感を持っててしまいます。
しかし何か趣味を得たならば、それは確実にその人をプラスの方向性へと向かわせるのではないのでしょうか。
本田透は『萌える男』で、「萌え」について宗教に代わるものと書いています。
勿論それは宗教のように信仰すべきものと書かれているのではなく、昔は心のよりどころが宗教にあったというだけで、別に危ない話をしているわけではないですよ。
人は何かを支えにして生きているのは、事実です。
それが家族だったり宗教だったり趣味だったりしますが、結局独りでは生きていけないんだなと。
難しい話です。
結局何が言いたいかというと、個人個人好きなように生きていけばいいのでは、ということ。
勿論人に迷惑をかけないように、ですが。
あまり人の行動に非難したりするのも野暮ですよ。
ね。
萌え、という言葉はいつの間にか世間に広まっており、テレビや雑誌に聞くたびに、何だか無性に嫌な気分になるのは一体何故でしょう。
まあそれは2ちゃん語を実際の声で聞くのを嫌悪するのと同じ理由でしょうが。
それはともかく、雑誌でも使われるくらい広く使われる言葉になりましたよね「萌え」という言葉。
しかし言葉が本来の意味と離れて使われる印象がありますが、本来の意味なんてそんなにないような気がします。
だからこそ定義づけなる議論が行われるのでしょう。
「萌え」に関する定義なんて、各人各々が持つ「好き」や「フェチズム」に似た感情で説明は充分だと思いますが、しかしそれらの感情は誰かしら持っている感情ではないのでしょうか。
本格的に「萌え」に語ろうと思ったら中々混み合ってきますね。
しかし必要かどうかに関すれば、必要なゆとりなのではないのでしょうか。
上で「好き」や「フェチズム」に似た感情と書きましたが、それらははっきり言って生きているだけなら必要ないです。適度に食べていれば人間生きられます。
でも僕達は何かしらの無駄を抱えて生きていますよね。
それが趣味、娯楽という訳です。
理解可能不可能関わらず、それらは生きていく上で心を寄せられる意味あるものとなります。
丁度昨日放送のタモリ倶楽部で「電チラ選手権」なるものが開催されていました。有名大学の電車オタク達が電車をチラリと見えるスポットを紹介して、それがいかに素晴らしいかというような企画なのですが、電車はそんなに好きでもないボクでも中々見ごたえがありました。チラリズムはいいものです。
電車は生活する上で便利な移動手段ですが、機種の話となると大抵の人はついていけなくなります。しかし彼等はそうした一般の人には中々ついていけない電車というモノが大好きで、結果奥深い知識と楽しさを得ているのです。
こういった趣味は生活に必要ないどころか、生活を圧迫しかねないものですが、しかし本人にしてみればやめたくない、生きる上でかけがえのないものでしょう。
なくしてしまったら生きる気力が減るのでしょうね。
こうしたオタク的、マニア的行動は気持ち悪いとか言われますが、気持ち悪いと言っている人が逆に気持ち悪いような気がします。
貴方だって何かしら満足を得る手段を持っているのでは?
それがファッションだったり、旅行だったりする訳で、結局は誰も同じような気がします。ちょっと方向性が違うだけ。内面と外面の違い。
少し萌えとは違う方向になってきましたが、結局言いたい事は何を持って生活して、その影響はどこにでるのかということです。
下手に何かを失ってしまえば、失った以上の喪失感を持っててしまいます。
しかし何か趣味を得たならば、それは確実にその人をプラスの方向性へと向かわせるのではないのでしょうか。
本田透は『萌える男』で、「萌え」について宗教に代わるものと書いています。
勿論それは宗教のように信仰すべきものと書かれているのではなく、昔は心のよりどころが宗教にあったというだけで、別に危ない話をしているわけではないですよ。
人は何かを支えにして生きているのは、事実です。
それが家族だったり宗教だったり趣味だったりしますが、結局独りでは生きていけないんだなと。
難しい話です。
結局何が言いたいかというと、個人個人好きなように生きていけばいいのでは、ということ。
勿論人に迷惑をかけないように、ですが。
あまり人の行動に非難したりするのも野暮ですよ。
ね。