27歳くらいのとき、インドネシアをうろついてたことがある。
バリ島から入って、船で本島に渡って、電車でゆっくり移動しながら
ひと月かけてジャカルタまで行った。一人でさ。今考えるとムチャだよなぁ。
その途中、どっかの田舎を散歩していたとき、道に迷ってしまった。
360度、見渡す限り同じ景色。
乾いた地面、潅木、背の低い植物。
地平線こそ見えなかったけど、丸い地球の頂点に立っているんだという気がして、
転がり落ちそうで、恐くなった。
足元を見ると小さな草が生えていて、
まぁなんてこともない、みすぼらしい草で、
でも私はこの草に名前をつけようと思った。
私の誕生日は7月7日なので、トゥジュー・トゥジューという名前にした。
インドネシア語でトゥジューっていうのは7って意味だったから。
7月っていう単語は知らなかったし。
トゥジュー・トゥジューは私の草で、そのまあるい世界の中心に生えていた。
地球は球体なんだから当たり前だよね。
世界中のどんなものだって地球の頂点にある。すべてのものが世界の中心にある。
だから、これから先、自分の行くところはどこだって、世界の中心なのだということを覚えておこう、とそのとき思った。
トゥジュー・トゥジューと別れるとき、もう二度と会えないなぁって思った。
だって、そこがどこかもわかっていなかったし、
もしもう一度同じところに来れたとしても、
どの草がトゥジュー・トゥジューだか、わかるわけがないもの。
じつはそれがどんな草だったか、もう覚えてないんだ。
きっともう枯れてしまっただろうな。それとも大木になってるかな。
それともその種が広く旅して、とんでもないところで花を咲かせているかもしれない。
なんで突然、草の話をしているのかと言えば、
この間、雑草のせいで号泣したのだった。
朝ごはんを作っている時、突然、
「ああ、子供って、原っぱに生えてる雑草なんだな。」
と思った。
例えば普段、自分の子供をバラだと決めつけていたり、
ヒマワリにしたいと思っていると、
それらしくない葉っぱをちょん切っちゃったり、針金や支柱でそれっぽく整えたり、花の色をペンキで変えようとしたり、匂いがちがうといって香水をかけたりしてしまうだろう。
子供の方も、「あれぇ…わたしユリなのかなぁ?うーん、よくわかんないなぁ。ダメなユリでごめんなさい。」なんてしょんぼりしてしまうかもしれない。
でも本当は、みんな、どんな葉っぱが出るか、どんな花が咲くのか、まったく見当もつかない不思議な雑草なんだよね。
だからまわりは、「おっ、葉っぱが紫だ、なんだこれぇ」とか「うわー、上に伸びるかと思ったらくるくる回転してるぅ」とか、おもしろがって眺めていればいいんだなって、思った。
そして、予想不可能なおもろい雑草という点では、大人だってそうだと。
決め付けたり、型にはめたり、期待したり、がっかりする必要なんてないし、まだまだ自分だってどんなふうになるかなんてわかんないし、でも花の形や実の味なんて遺伝子で決まってるわけだから、おもしろがって育っていくしかないよなぁなんて思ったとき、
なんでかキッチンペーパー顔にあてて号泣しておりました…。
自分でコントロールできることなんて、ほとんどないんだよね。
ムダなものが多すぎるから、心が、いつも忙しくなっちゃうけど、
落ち着いて、心を開いて、深呼吸したら
大切なものだけが自然と見えてくるんじゃないかなぁと、
思う今日この頃であります…。